第59話 大きくなりすぎたその憧れは 2
ユズは肯定もしなかったが否定もしなかった。ここでは否定をしないということが重要だ。
「なんで謝るどころか逆に開き直ってケンカをふっかけるような真似をしたんだよ?」
「しょうがなかったのよ」とユズは小さい声で弁解をはじめた。「本当は一人で涼のいるスタジオに行こうと思っていたのに、ミックスジュースの他の二人が耳ざとくそれを聞きつけて、ついてきちゃったんだもん。面白がって」
「桃と苺」
「モモコとイチカ」とユズは言い直した。「あの二人、私の行くところはどこでもついてくるの。金魚のフンみたいに。私がいなきゃ何もできないのよ。あんたも見てたと思うけど、このあいだだって私一人を矢面に立たせて、自分たちは後ろで呑気にヤジ飛ばしでしょ? いつもそう。要するにずるいのよ」
「なるほど」俺は無意識に腕を組む。「ユニットのリーダーとして、同じ大会の舞台に立ついわば“ライバル”に対して頭を下げているところだけは、絶対に――謝る絶好の機会をふいにしたとしても――見せられなかったというわけか」
「物わかりがいいね。アイドルのプロデューサーやってるだけあるじゃん」
俺は天狗になるでもなく窓から外の様子をうかがった。
「今日はいないみたいだな、金魚のフン」
「あの二人にはもちろんだけど、今日はマネージャーにだって黙って出てきたからね。あとで大目玉確定」
「桃と苺がいないならチャンスだ」俺は前に向き直る。「今からでも遅くない。あんたにその気があるなら、月島に謝りに行こう。それが互いのためだと思う」
「いやだよ」ユズはばつが悪そうだ。「このあいだモモコとイチカにたきつけられて、つい、言わなくてもいいこといっぱい涼に向かって言っちゃったし。あれでもっと会いにくくなっちゃった」
「素直になればいいのに」と俺は自分のことを棚に上げて言った。
「余計なお世話。謝りに行こうってあんたは簡単に言うけどさ、こっちにだって心の準備ってもんがあるんです。今日は涼じゃなくてあんたに会いに来たんだから」
「転校した後の月島の様子を俺の口から聞くために」
「愛の告白でもされると思った?」ユズは軽口を叩いてストローに口をつけた。
俺はコーヒーを飲みかけてやめた。「ところで、俺の質問には答えてくれるのかな?」
「カツラの芸能人を教えろとかじゃなければ」
くだらないゴシップなんぞにははなから関心がなかった。
「あんたが副担任に敵意を抱いていたのはなんとなくわかる。いつだってクラスの中心にいたあんたにとって、自然と人を惹きつける魅力を備えた副担任は、自分の居場所を脅かす存在だった。だから副担任のノートに悪意あるメッセージを貼りつけた。そうだな?」
ユズの顔のシンメトリーがはじめて崩れた。「そう聞くと、私って、イヤな子だね」
「その後のあんたもなかなかイヤな子だ」と俺は言った。「なぜ月島が犯人だと疑われているのを黙って見ていた? 誤解してもらっちゃ困るが、俺は、なぜ『自分がやりました』と白状しなかった? と聞きたいわけじゃないぞ。なぜ『涼は犯人ではありません』の一言も言えなかったのかが聞きたいんだ。
たしかにあんたの立場になってみれば、自分以外の人間が疑われているわけだから、罪を着せる千載一遇のチャンスだっただろう。でも相手は小学校に上がる前から仲良くしていて気心の知れた親友だぞ? ユズ・スズコンビ。どうなろうが知ったこっちゃないただの名もなきクラスメイトってわけじゃないんだ。なんらかのかたちで、スズをかばうことはできなかったのか?」
ユズはカットソーのありもしない糸くずを手で払う仕草をした。
「何度も言おうと思ったよ」彼女はそう述懐した。「私は存在感だけじゃなくて発言力だって人一倍大きかったから、私がもし何かしらもっともらしい理由をつけて『涼は犯人じゃない』と言えば、それなりの効果はあったでしょうね。おそらく涼は容疑者から外れた。でもそうはしなかった。私は最後まで声を上げなかった」
「なぜ」
「私のなかで悪魔がささやいたとでも言えばいいのかな。どこからともなく聞こえたんだよね。『涼にちょっとつらい思いをさせてみよう』って」
ちょっとじゃ済まない、と俺は悪魔の見通しの甘さを呪った。
「私、ずっと涼のことが羨ましかったんだ」とユズは続けた。「私が自分の努力ではどうしても手に入れられないものを涼は持っていたから。ではここで問題。それはなにか、あんたにはわかる?」
一応考えてみたけれど、暑さのせいか頭はうまく働かなかった。
「時間切れ」クイズ番組よろしくユズはブッブーと言う。「答えは、家族」
「家族」月島家の面々を思い出す。その表情は、おしなべてほがらかだ。
「涼の家に遊びに行くとさ、いつも誰かがいて私のこともまるで自分の家の子どもみたいに気にかけてかわいがってくれるの。ユズちゃん学校はどう? 今度一緒にお相撲観にいくかい? 晩ご飯食べていきなさい? って。
一度勇気を出してなんで私にここまで良くしてくれるのかそれとなく聞いてみたら、涼と仲良くしてくれているんだもの、これくらい当然だよみたいな答えが返ってきて、ああ、本当に涼はこの人たちに大事にされているんだなって思ったの。
涼の親友は無条件でVIP扱いなのね。家族みんなに愛されている涼が私は本当に羨ましかった。できることなら変わりたいとさえ思った。私は家では大事にしてもらえなかったから」
「継母に」俺は思いきってその言葉を口に出した。「ひどい目に遭わされたんだよな?」
ユズはかっと目を見開いた。「なんでそこまで知ってんのよ!? 涼にだってこのことは話してないのに。あんたいったい何者?」
俺は正直に、ついきのう月島に連れられて当時の副担任に会ったことを伝えた。
「あの腐れ教師」ユズはアイドルにあるまじき発言をする。「普通、教え子の家庭環境を他人にベラベラ喋っちゃう?」
「普通、色覚に障害がある人に『青色がわからない人が青組の応援をしないでください』なんて言葉を向けるか?」
「おあいこ、ってことか」と彼女は逆上するでもなく反省するように言った。「とにかく、涼の家族への憧れは、私のなかでどんどん大きくなっていった。この体に傷が増えれば増えるほど月島家の子どもになりたいという願望が強くなっていった。大きくなりすぎたその憧れは、憧れは――」
ユズがもうこれ以上は言いたくないといった様子でうつむいたので、俺は心の中でその先の言葉を継ぐことにした。
――憧れはいつしか、悪魔にかたちを変えていたの。
「あーやだやだ」彼女は顔を上げてぎこちなく笑った。「なんだか仕事に行きたくなくなっちゃった。あんたさ、今から私のことさらってくんない? そうしたら堂々と仕事をサボれるから」
俺は断固として首を横に振った。「そんなことしたらこの先日本で生きていけなくなる」
「いくじなし」
くすくす笑ったのもつかの間、ユズは窓の外に目をやってはっと息を呑んだ。視線の先には、きょろきょろとあたりを見回すスーツ姿の若い男がいる。
「やばい! マネージャーだ。私を探しに来たんだ! この店に入られると変に誤解されて、あんたに迷惑がかかっちゃう」
「俺はどうしたらいい?」
「なにもしなくていい。これから私がマネージャーを連れて仕事に戻るから、あんたは5分くらいしたら店を出て」
わかった、と俺は言った。
ユズは椅子から立ったけれど、なかなか出口には歩き出さなかった。そのまま低い声でこう切り出した。「私に付き合ってくれたお礼に、ひとつ忠告しといてあげる」
「忠告?」
「あんたのところに黛社長っているでしょ?」
「高校の先輩でもあるから俺たちはみちるさんって呼んでるが」
ユズはゆっくりうなずいた。
「あの人にはくれぐれも気をつけなさいよ。黛社長って、自分の事務所のタレントを売るためならどんな手でも使うって業界内では有名なんだから。犯罪すれすれのことくらいなら平気でやる。私だって黒い噂はいくつも聞いてきた。あんたたちが接しているのは、そういう大人だからね。まともな大人じゃないんだからね。モラルなんて言葉は“みちるさん”の頭にはないと考えて接した方が身のためよ。それじゃあ、大会の本番で敵としてお会いしましょうね。同い歳のプロデューサーさん」
そう言い残すとユズは、ポケットからしわしわの万札を無造作に出してテーブルに置き、店をあとにした。お代はよろしくね、ということなのだろう。
ふいにカウンターのマスターと目が合う。若いのになんだか大変だねあんた、とでも言いたげにマスターは老獪な笑みを浮かべ、肩をすくめる。
こんな俺でもまっとうな大人になれるんですかね、と好奇心から聞いてみたくもなる。いや、そもそも、まっとうな大人ってなんなんだろう? そんな人がこの現代にどれだけいるんだろうか?
すべての大人がまっとうならば、少なくとも、俺や柏木やユズみたいな苦悩を抱えた若者はいないはずなのだが。




