第58話 今でも自分の色を出せないでいる 4
城之内柚の話が一段落つくと、月島と八色先生は7年の空白を埋めるようにしばしのあいだ雑談に花を咲かせた。
先生は教え子を見て目を細めた。「それにしても月島さん、美人になったわねぇ」
「やめてくださいよ」月島は顔を手で扇ぐ。「お世辞でもうれしいですけど」
「お世辞じゃないわよ。本当にきれいになった。その青のワンピースもとてもよく似合ってる」先生はそこでこちらへ視線を転じた。「今あなた、『この人はどうして視覚では色の違いを区別できないのにワンピースの色が青だとわかったんだろう?』って思ったでしょう?」
「ええ」と俺は戸惑いつつも正直に答えた。
「調和していたから。月島さんの体の輪郭にぴったり合ってる。美しさを引き立てている」
能力を持つ人はたとえ鏡を見ても自分の色はわからないらしいから、月島の色がわかる人がいるとすれば、それは八色先生だけのはずだった。そこで俺は質問してみた。
「やっぱり月島の色は、今でも澄んだ青なんですか?」
先生はチャーミングに微笑んで、肩をすくめるような仕草をした。
「それがね、もう私は、人の色も見えなくなっちゃったの」
「ええっ?」月島は目をぱちくりさせる。「だって今、この青のワンピースと調和しているって……」
「月島さんはいつかの時点で色が変わるようなタイプではないから。きっと今でも無垢でピュアな青よ」
「色がわからなくなったのには、なにかきっかけのようなものがあったんですか?」と俺は言った。
先生は言った。
「つい半年前、男の子を出産してね。それからというもの、人を見ても心に自然と色が浮かんでくることはなくなったの。私、すごく楽しみにしていたのよ? 自分の子どもがいったい何色をまとってこの世に産まれてくるのか。他のお母さんたちがどんな色のベビー服にしようか楽しそうに選ぶのと同じように。
それなのに産声をあげる我が子を抱いたその瞬間、私の世界から色が消えたの。完全に。それまでは取り上げてくれた産婦人科の先生や看護師さんの色はきちんと心で見えていたのに」
「どうしてもお子さんの色が知りたいのなら、私が会ってみましょうか?」と月島は提案した。
「いいのいいの」先生は苦笑する。「もし神様がいるとして、そして、人の色を見抜く力がその神様に与えられたものだとしたら、出産と同時に色が消えたのはおそらく、『もうおまえにはこの力は必要ないんだぞ』っていう神様からのメッセージだと思うから。今ではもう色のない人間関係に、すっかり慣れたわ」
♯ ♯ ♯
「ところで月島。どうしてあの先生との面会に俺を同行させたんだ?」
小学校からの帰り道、俺はずっと気になっていたことを聞いてみた。応接室では結局俺は、その理由をひとつとして思いつけなかった。
「なぜかって?」月島はワンピースの裾がひるがえるほど回転して天を仰いだ。「それはね、君とこの遙かなる空を見たかったからさ」
俺は反応に困った。「なんでミュージカル風?」
「失敬」と月島は言って、恥ずかしそうに咳払いした。「そうねぇ。涼ちゃん、一人だと心細かったんだよねぇ」
「心細かった?」どうやら今度は、芝居ではないようだ。
「ほら、中学の時の馬鹿げた事件があって、あれで私の色が変わっちゃったんじゃないかって不安だったの。普段は人の色を『どす黒い』だの『ヘドロみたい』だの言ってさんざん扱き下ろしている当人が実は汚く濁った色でした、なんて、とんだ笑い話でしょ?」
馬鹿げた事件――14歳の彼女に降りかかった暴行未遂事件だ。話題が話題だけに俺は慎重に言葉を選んだ。
「でもさ、よかったじゃないか。おまえの色は今でも澄んだ青みたいだし。八色先生がそうやって言うんだから間違いないよ」
「まぁ、そうだね」
信号が赤になったので、俺たちは立ち止まった。目の前の横断歩道を引率の保育士にしたがって20人ほどの子どもたちが手を挙げながらぞろぞろと横切っていく。その光景はいやでも俺たちの目に入る。今この時も月島には一人一人の色が見えているんだなと思うと、なんだか不思議な気分になった。なにせ十人十色どころの話ではないのだ。それはどんな心地がするものなのだろう?
子どもたちは思い思いの色の帽子をかぶっている。赤・青・黄色・緑・橙・紫・白――。たとえば俺などはそれを見てきれいだ、カラフルだ、と感じる。それでは彼女はどうか? 我々凡人が帽子の色を見てなんらかの感興を覚えるのとはまたわけが違うのだろうか?
「先生、もう普通の人になっちゃったんだなあ」隣で月島はどこかしみじみとつぶやいた。
「能力がなくなって落ち込んでるかと思ったら、案外スッキリしていたよな。むしろ肩の荷が下りたみたいだった」
「男の子を出産してね。それからというもの、人を見ても心に自然と色が浮かんでくることはなくなったの」月島は小声で先生の台詞をなぞった。そしておもむろに空を見上げた。「そっか。子どもができると、普通の人に戻れるかもしれないんだ」
「戻りたいのか?」
「よし神沢」と言って月島は俺の肩に手を置いた。「ホテルに寄って一発ヤってから帰ろうか」
「やめなさい。園児たちに聞こえたらどうするんだよ」
人の色が見えるからといって、人生バラ色かといえば、あながちそういうわけでもないらしい。




