第58話 今でも自分の色を出せないでいる 3
月島とは小田急線の成城学園前という駅の構内で落ち合った。
何事によらず格式張ったことが嫌いな彼女は普段、カジュアルな格好で出歩くことが多いけれど、今日に限ってはどういうわけか素朴で飾り気のないワンピースを着用していた。ワンピースの色はエーゲ海のように深い青で、人混みの中でも俺はすぐに彼女だと見分けることができた。
「よく池袋から電車の乗り換えを間違えずここまで来られたね。すごいぞ田舎者」
一言余計なんだよ、と言ってやりたかったけれど、約束の時間に遅れている手前、強くは出られない。「すまなかったな。待たせちまって」
「こちらこそごめんなさいねぇ。高瀬さんとの水入らずの東京デートを邪魔しちゃって」
「しかし今日も暑いな。予想最高気温35℃って、もうほとんど体温だろ」酷暑のなかイヤミなど聞きたくないので俺は話を逸らした。見れば月島は、小さな口でアイスキャンディーを食べている。「いいな、それ。うまそうだ」
そこでなぜか彼女は頬をふくらませて「コラ」と怒った。
「な、なんだよ?」
「私が棒状のものを舐めたり咥えたりしてるからって、変な想像しただろ」
俺は呆れるのを通り越して感心した。「月島さん、今日もごきげんなようで、何よりだ」
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「それで、おまえの“用事”ってなんなんだ?」
俺はスマートフォンを操作している月島に声をかけた。目的地までの道のりを確認しながら歩いているところを見ると、どうやら今俺たちが向かっているのは、彼女も初めて訪れる場所であるらしかった。
「まぁ行けばわかるよ」と月島はもったいつけた。「ていうか神沢。私の用事よりも柏木の用事を気にした方がよろしいんじゃなくて?」
「なんでだよ」
「神沢は高瀬さんとのデートを満喫していたから知らないと思うけど、柏木ね、今まで見たことないくらいオシャレして出かけて行ったんだよ。年頃の女の子が休日にめかし込んで釣り堀に伝説を作りに行ったり裁判を傍聴しに行くなんて常識的に考えてあり得ないわけでね。どこへなにしに行ったのか、キミは気にならないわけ?」
まったく気にならないといえば嘘になる。しかしながら正直なところ今の俺は周防まなとの件で頭がいっぱいで、そこまで考える余裕がなかった。
「べつに」と俺は答えた。「大会当日、偏差値46のメンバーとして舞台に立ってくれさえすれば、オフの日になにをしようがプロデューサーとしては知ったこっちゃないね」
「おやおや。ずいぶんと他人行儀ですこと。神沢も柏木も」
この流れだと他人行儀の理由を聞かれるだろうな、と俺は万全の準備をして身構えた。けれどいつまで待っても月島は一向に尋ねてこなかった。それがかえって俺を居心地悪くさせた。居心地の悪さが口を動かした。
「なぁ、俺と柏木のあいだになにがあったのか、聞いてこないのか?」
彼女はまるで興味がなさそうにスマホの画面を見ながら「どうせ」と言った。「“未来の君”がどうのこうのっていうくだらない話で一悶着あったんでしょ。そんなもん、涼ちゃんには無関係」
俺は曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。なんでもお見通しなのだ。涼ちゃんには。
月島が敢えて休日に行きたかった場所とは、奇しくも高瀬と同じく“学校”だった。とはいえ小洒落た私立大学ではなく、ありふれた公立の小学校であるが。
「おまえがこの場所に来たかった理由を当ててみよう」と俺は言った。思い当たることは一つしかなかった。「さては、あの先生に会いに来たんだな?」
「そういうこと」と月島は校舎を見て答えた。「私が通っていた墨田区の小学校から二年前に異動になって、今はここに勤めているんだって」
俺は月島の服装をあらためて確認した。
「だから真夏だっていうのにそんなフォーマルなワンピースを着てきたのか。もちろんワンピースの色にもきちんと意味がある。たしかその先生、おまえの色はきれいな青だって言って事件に関わってないことを信じてくれたんだよな?」
彼女は無言でうなずき、クールに人差し指をピンと立てた。
月島が会いに来たのは他でもない、今から7年前、彼女が転校を余儀なくされた事件の重要人物であり、また、人を象徴する色を見抜く不思議な能力を自身に授けた、当時の副担任だ。
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「やだぁ、すっかり大人っぽくなっちゃって」我々が応接室に入るやいなや、中にいた30歳前後の女性が近づいてきて、月島を抱擁した。「久しぶりだね。元気だった?」
「おかげさまで」と月島はいつになくもじもじして言った。「山本先生もお変わりないようで」
元副担任ははにかんで左手の薬指を示した。そこには指輪が光っていた。
「それがね、お変わり、あるのよ。私実はね、去年結婚して姓が変わって、今は『ハッシキ先生』って子どもたちには呼ばれているの。ハッシキってね、漢字で八つの色って書くのよ。八色。色の違いがわからないのに八色だなんて、なんだか皮肉めいた名字でしょう?」
果たして笑ってよいものかどうなのか俺は戸惑ったけれど、当の本人があまりにも屈託なく笑うものだから、つられてつい相好を崩した。もちろん険悪なムードにはならず、むしろ八色先生は、こちらに優しく微笑みかけてくれた。それで俺はこの人に好感を抱いた。
月島は彼女について「生まれながらに人を引きつける強力な磁力を備えていた」と評していたが、なるほど、会って数十秒でその一端が垣間見えたような気がする。
八色先生は色白なうえに小柄で、ぱっと見た印象ではいかにもひ弱そうだったけれど、なにげない仕草や顔つきにはそんな外見的特徴を補ってあまりある凜々しさがあり、教師として申し分のない器量を備えた人物であることを俺に教えていた。
少なくとも、色覚に障害を抱えているなんて、言われなければ絶対にわからないだろう。
先生は俺たちに椅子を勧め、自身も向かいの椅子に腰かけた。月島は席につくと同時にバッグから包装された箱を取り出し、「つまらないものですが」と常套句を述べてそれを両手で先生に渡した。
「まぁ! 月島庵のおせんべい? これずっと食べたかったのよねぇ。やっぱり一度受け持った子のお店ってなかなか行きにくくて。職業柄、本当はこういうおみやげ的なものは受け取っちゃいけないんだけども……今日は、いいよね? 夏休みだし」
「夏休みですし」と言って月島はうなずいた。
「さて」と言って八色先生は表情をきりっと引き締めた。「月島さん。積もる話もあるけれど、そろそろ本題に移りましょうか。高校生になったあなたが私に会いに来たのは、おそらく――」
「ユズの」月島は旧友の名を言いにくそうに挙げた。「城之内柚のことで先生に伺いたいことがありまして」
八色先生は〈やっぱりね〉という顔をした。とたんに声がくぐもる。
「城之内さん、今はアイドルとしてがんばっているのよね」
月島は東京に戻ってきてから今日に至るまでのいきさつを順を追って話した。一週間後のアイドル日本一を決める大会に“偏差値46”のメンバーとして出場すること。そこで自分もユズと同じ舞台に立つこと。レッスン中にユズが訪ねてきてふたりが7年ぶりの再会を果たしたこと。そして城之内柚という人物を象徴する色は一色ではなく複数存在したこと。
「人の色がわかる能力を私に与えてくれたのは、先生ですよね?」と月島は聞いた。
八色先生はしばらく無言で薬指の指輪をいじっていた。やがてかすかにうなずいた。
「無実の罪を着せるようなかたちで月島さんとお別れするのが副担任として忍びなかったの。せめてもの償いと餞を、と思って。……かえって迷惑だったかしら?」
「そんなことはないです」月島は窓の外を横目で見る。「世の中にいかに偽善者とペテン師とエセヒューマニストが多いかわかっただけでも、とても勉強になりました」
「まぁ」先生は教え子の歯に衣着せぬ物言いにいささか面食らったようだった。「それはそれは」
「ユズの話に戻ります」と月島は言った。「私が人の色をわかるようになってからユズとは初めて会ったわけなんですけど、ユズの色は最初、ピンクでした。ところがこのぶっきらぼう――名前は悠介といいます――と話をしているときには水色に変わり、さらに私と睨み合ったときには青に変わったんです。
こんな短時間でコロコロ色が変わる人なんて私、この7年間で初めて見ました。しかも三色とも、あまりきれいとは言えないくすんだ色でした。まるで黒の絵の具を何滴か垂らして混ぜたみたいな。そこでお聞きしたいんですが、小学生の頃のユズは、いったいどんな色だったんですか?」
「城之内さんの色」そうつぶやくと八色先生は手を組んで黙り込んだ。思い出すのに時間がかかっているというよりはむしろ、どんな言い方がふさわしいか考えているようだった。「それが、先生にもわからないの」
「え?」と、これは、俺が驚きの声をあげた。
「あの子はとにかく不思議な子でね、たとえば学級委員長の村崎さんはその名の通り鮮やかなバイオレットだったんだけど、村崎さんとクラスのことで話し合ってる時は城之内さんも紫系統の色になるし、黄土色の担任に勉強を教わっている時はあの子もそれに近い色になるの。その他にも赤、白、金、銀……いろんな色が見えたわね、ええ。でもなかでも一番よく見えたのは青。それはなぜか、月島さんにはわかる?」
隣で月島はシニカルに笑った。
「私と一緒にいる時間がもっとも長かったからじゃないですか?」
「そう。つまりね、城之内さんは他の人の色に合わせて自分の色が変わるタイプなの。あたかもカメレオンが環境に合わせて擬態するみたいに、ね」
俺は頭で情報を整理した。
「なぁ月島、俺の色って、やっぱり今でも水色なのか?」
月島は目を細めた。「くもりガラス越しに見る朝の空みたいな」
「そうか。だから俺にライブのチケットを渡そうとした時のユズの色は、水色だったのか」
「私と対峙していた時は青だった」
「それじゃあピンクというのは、誰の色なんだ? 俺たちの中にピンクはいないだろ?」高瀬は情熱的な赤で、柏木は燃えるようなオレンジだったはずだ。なんだか戦隊ヒーローものの配役をしているような気分にもなってくる。
「桂桃子」月島はそう答えた。「あの日、ユズはミックスジュースの他のメンバーも引き連れてスタジオに来たでしょ? モモコとイチカ。モモコはピンクだった」
「なるほど。桃子でピンクなら覚えやすい」合点がいったのもつかの間、すぐに新たな疑問が湧いてきた。八色先生を見据えてそれを口にする。
「城之内柚自身の色というのは、ないんですか? たとえばカメレオンは、枝の色や花の色に合わせて変幻自在に色を変えることができますけど、きちんと地の色というのはあるじゃないですか。だいたいは緑っぽい色ですよね。それで言うと彼女にも地の色があってもおかしくないと思うんですけど」
「それがね、わからないの。城之内さんはいつも誰かの色に染まっていたから」
「そういう人ってけっこう多いんですか? その、自分の色がない人」
「決して多くはないわね」と八色先生は答えて、ゆっくり指を折っていった。「私が過去に見てきた子どもたちのなかでは、城之内さんも含めてせいぜい三人ほどね」
月島は椅子の上で前傾姿勢をとる。「その三人に、何かしら共通点のようなものはありませんでしたか?」
「そうねえ。共通点ねえ。強いて挙げれば――たった三人だからこれは偶然かもしれないけれど――人の顔色を必要以上にうかがう子だったってところかしら」
「ユズはそんなしきりに人の顔色をうかがうような子だったのか?」と俺は月島に聞いてみた。
「言われてみればたしかに」と彼女は言った。「思ったことはズバズバ言う反面、私に限らずいろんな子の機嫌を取っていた。きっと常にクラスの中心人物であり続けるために」
八色先生が続いた。「なんだか焦っていたわよね、城之内さん」
「何がそこまでユズを駆り立てたんだろう?」と俺は疑問を口にした。「だってユズは当時から容姿が良ければ性格も明るくて、そのうえ歌やダンスまで得意だったんだろ?」
だからこそ数年後、飛ぶ鳥を落とす勢いのアイドルになり得たのだ。
「おまけに実家が金持ちで親父は奉仕活動に熱心な篤志家と来てる。人気者を絵に描いたような小学生だ。別に媚びを売るような真似をしなくたって、クラスの中心にいられたんじゃないかな?」
俺がなんの気なしにそんな疑問を投げかけると、応接室にはある種の緊張が走った。なにかまずいことでも言ってしまっただろうか?
その沈黙を埋めたのは、月島だった。
「ユズがむやみやたら人の顔色をうかがうようになったのは、ひょっとして、家庭環境のせいではないですか?」
八色先生はイエスともノーともとれる角度に首を傾げた。
「月島さんは、どこまで知っているの? 城之内さんのご家庭について」
「ユズがまだ幼稚園に通っていた頃、お母さんが病気で亡くなって、ユズをかわいそうに思ったお父さんが後妻を迎えたまでくらいは。でもユズは新しいお母さんにうまく馴染めなかったようでした……」
八色先生はうなずいて、眉のあいだにしわを寄せた。
「お父様とその新しい母親――いわゆる継母よね――とのあいだには再婚してすぐ子どもができてね。それ以来、継母は何かにつけて城之内さんのことをいじめるようになったの。それも抜け目なくお父様がいないのを見計らって。城之内さん、学校では笑顔を絶やさなかったけれど、家ではとても私の口からは言えないようなひどい仕打ちを受けていたみたい。その継母に」
どうしようもない母親だな、と俺は思った。もっとも、俺の母親だって引けを取らないが。
「やっぱり」と月島は言った。「一度だけ背中から腰にかけてアザがあるのを見たことがあって。本人は自転車で転んだって言って笑っていたけど、運動神経抜群のユズが転ぶなんて――ましてあんな大きなアザができるような転び方をするなんて――ちょっと考えられなくて。それはつまり……」
先生は月島の目を見て静かにうなずいた。
「もくろみが外れたお父様だけど、自分がいないあいだに家で何が起こっているかは、うすうす感付いていたみたいね。それでも継母をとがめたり城之内さんから事情を聞いたりということはしなかった。それどころか子どもが産まれてからは――女の子だったというのもあると思うけど――あからさまに愛情の対象を新しい奥さんと娘さんの方へ移していった」
頼りない父親だな、と俺は思った。もっとも、俺の父親だって勝るとも劣らないが。
「しだいにユズは家庭内での居場所をなくしていったんですね」と月島は言った。
これはあくまでも私の推測に過ぎないんだけど、と前置きして先生は語りはじめた。
「城之内さんは家のなかで自分の居場所を確保するため、お父様や継母はもちろんのこと、果ては腹違いの妹さんの顔色までもうかがっていたんじゃないかしら? そして彼らに少しでも気に入られようと、みずからを必死で押し殺していた。幼い子どもにとって家に居場所がないというのは、ある意味、肉体的な痛みよりもつらいものだから」
いつしか俺は薄幸のアイドルに同情していた。
「そう考えていくと、躍起になってクラスの中心に居続けようとした理由もおのずと見えてくるような気がしますね」
月島が続く。
「ユズにとってクラスの中心は、なにがなんでも死守しなくちゃいけない“自分の居場所”だった……」
先生は吐息を漏らした。
「家庭でも学校でも人の顔色を見て可能なかぎり自分を消すことが――言い換えるならば、自分の色を消してまで他の人の色に合わせることが――城之内さんが生きていくほとんど唯一の方法だったのね」
俺は体の色を次々に変えるカメレオンをイメージした。
「まさに『生きるための擬態』というわけか」
月島はうなずいた。
「そしてユズはトップアイドルとして不動の地位を得た今でも自分の色を出せないでいる」




