第58話 今でも自分の色を出せないでいる 2
キャンパスをさらに奥に進むと、整備された並木道が姿を現した。植えられているのは鈴掛という名の広葉樹で、青々とした葉が夏の空を見事なまでに埋め尽くしていた。どちらからともなく俺たちはそこへ足を踏み入れた。
趣のある並木道を高瀬と歩いているのだからどうせなら未来について語り合った方が絵にも思い出にもなるのだろうけど、あいにく俺がこれからしなければいけないのは、過去の話だ。
「今から20年前」俺はそう切り出した。「当時高校生だったみちるさんは夜の街で、奇怪な格好をした老人に呼び止められた。老人は占い師だった。占い師は彼女にこう言った。あなた様はもうすでに“未来の君”に出会っております、と」
隣で高瀬は息を呑んだ。「それって、まさか」
「そう。みちるさんもまた、俺と同じように占われていたんだ」
「未来の君」と高瀬の唇は動いた。
「ただ一点だけ決定的に違う点があって」俺は歩く速度を少しゆるめた。「占い師は俺には“未来の君”が誰なのかそこまでは教えてくれなかった。でもみちるさんにはしっかり告げたみたいで――」
ここまで話せば、賢い高瀬が話の要点をつかむのは時間の問題だった。
「そういうこと、か」と言って彼女はぼんやり鈴掛の樹を見上げた。「みちるさんと私のお父さんは元恋人同士というだけじゃなくて、強い絆で運命的に結ばれていたんだ」
「ふたりは出会った時からやけに気が合ったというのも、ま、当然と言えば当然だ」
高瀬は小さくうなずいた。「“未来の君”、だもんね」
「パワフルでさばさばした敏腕女社長という世間の評判とは裏腹に、みちるさんは今でも内心でとても後悔しているみたいだよ。直行さんと同じ道を歩まなかったことを。少なくとも彼女は心のどこかで今の自分自身に物足りなさやむなしさを感じている。他人が羨むような地位や財産を築いたにもかかわらず。長い休みをとって世界中の海を航海することで、憂さ晴らししているんだ」
「なるほどねぇ」と高瀬は少し考えてから言った。「納得。三人の中で私だけがみちるさんに目の敵にされるわけだ。だってあの人にとってみれば、私という存在自体が目障りなんだもん。自分を幸せにするはずだった運命の男の娘。うん、いじめがいがあるよね」
高瀬が苦笑いするので、俺もつられて短く笑った。
「こればかりは本当のところはどうなのかわからないけどな。みちるさんは一癖も二癖もある人だから、もしかしたら俺たちがおよそ想像もつかない理由で高瀬をしごいてるのかもしれないし。ただひとつ言えるのは、あの人の目には高瀬は普通の16歳の少女としては映っていない。それだけは間違いない」
俺たちは無言で並木道を歩き続けた。俺はとくにこれといった考えもなく木漏れ日が落ちているポイントだけを選んで足を運んだ。奇しくも俺たちが生きてきた年と同じ数の光を踏んだところで高瀬が口を開いた。
「私のお父さんって、幸せじゃないのかな? 大企業ではないとはいえ一応地域では名の通った会社の社長で、休みの日には外車を乗り回してゴルフ三昧。どんなに遅くまでお酒を飲んで帰ってきても小言一つ言わない奥さん。自慢の二人の娘。仕事の愚痴を聞いてくれるボーダーコリー。不摂生していても一度も健康診断で引っかかったことのない丈夫な体。……私のお父さんって、幸せじゃないのかな? みちるさんと同じように、今の自分に物足りなさやむなしさを感じているのかな?」
「客観的に見れば充分恵まれた環境にいる中年男性だと思うけど」
その俺の意見は、タカセヤ社長の自慢の娘には聞こえていないようだった。
にわかに風が出てきて、高瀬のまっすぐな髪を揺らした。彼女は淑やかに髪を手でおさえて、神沢君は、と言った。「神沢君は、もし――」
意地悪な風は俺の心だけではなく鈴掛の木々をもざわめかせていた。俺は耳を澄ましたけれど、高瀬は「なんでもないや」と続けた。そして腕時計に目を落とし、慌てた。「いけない、もうこんな時間だ。一番大事な話が残ってるっていうのに!」
「一番大事な話?」
「そう、月島さんの家やスタジオでは絶対できない話があるの!」呆気にとられる俺をよそに、高瀬は来た道を戻り始めた。「神沢君、ついてきて」
♯ ♯ ♯
高瀬がその話の舞台に選んだのは、キャンパス内にある礼拝堂だった。礼拝堂というと俺のような信仰心も慈悲心も持ち合わせていない人間からすれば入りにくいことこの上なかったけれど、意外にも扉は開放されていて、誰の来訪も拒んではいなかった。
正面には厳かな祭壇があり、その上部には幾何学的な模様のステンドグラスがはめ込まれていた。壁際に備えられたパイプオルガンには埃ひとつ落ちておらず、きめ細かい手入れがなされていることを窺わせた。
高瀬は他に人がいないことを確認してこう切り出した。
「突然だけど、まなとって、覚えてる?」
「本当は忘れることができたらそれが一番いいんだろうけど、なにせ自分を退学させようと画策した奴の名前だからな。残念ながら覚えてるよ。周防まなと。春はずいぶん世話になった」
この先高瀬の口から語られる話が俺にとってあまり喜ばしくないものであろうことは、なんら想像に難くなかった。それでも耳を塞ぐことなく、俺は続きを待った。
「実は夏休みに入る前あたりから、私が家に帰るとまなとがいることが多くなって」
「高瀬の家に周防が?」
「そう。でも私に用があるわけじゃなくて、まなとは私のお父さんに会いに来てるの」
「またどうして」
「私が一向に提案を受け入れないから、まなと、私を飛び越してお父さんに交渉してるんだ。僕に優里とタカセヤを救わせてください、って」
「提案」俺はあのシスコン野郎の人を小馬鹿にしたような声色と口癖を思い出した。ふんっ、とキザっぽく鼻を鳴らす。「わからないなぁ。直行さん、優里を周防家に嫁に出す。たったそれだけのことでタカセヤとトカイの合併も政略結婚も白紙に戻せるんですよ? 僕には力がある。いいですか? この世界で最終的にものをいうのは、力なんです」
高瀬は笑うのを堪えていたが、5秒ともたず失笑した。
「すごい似てる。特に人の気持ちなんて度外視な感じが」
「俺もさんざん心を弄ばれたからな」俺は眉をひそめた。「というか、あいつ、諦めてなかったのか」
「全然。まなとって、ああ見えてもけっこう頑固なの」
高瀬の父親もどちらかといえば頑固な部類に入る。頑固者同士の取引だ。
「そしてここがこの話の一番肝心なところなんだけど」と高瀬は俺の目をしっかり見据えて言った。「お父さんね、まなとの提案を前向きに検討しているの」
「はぁ!?」礼拝堂にはおよそ似つかわしくない、頓狂な声が出る。二の句が継げない。
「お父さんね、私にこう言うんだ」高瀬は中央のバージンロードを祭壇のある方へゆっくり歩き始めた。『優里、どうせ高校卒業直後に誰かと結婚しなくちゃいけないのなら、私とほとんど歳の変わらない不細工な中年男より、同い歳でハンサムなまなと君の方がいいだろう?』って」
「なんだよそれ」と声を荒らげて俺は高瀬の後を追った。「そういう問題じゃないだろ。高瀬の気持ちはどうなるんだよ」俺の気持ちもどうなるんだよ。
「お父さんの中ではまなとって今でも『娘と昔いっしょに遊んでいた幼馴染み』っていうイメージが強いみたいで。だから彼には好意的なの。神沢君の弱みを握って脅すようなまなとの“裏の顔”を知らないんだよね」
「人を見る目がないな、社長のくせに」と俺は毒突いた。
「タカセヤの社長としてもまなとの提案は願ったり叶ったりなの」と高瀬は中立的な声で続けた。「それもそのはずだよ。長いあいだいがみ合っていたトカイさんといやいや合併しなくてもタカセヤ全九店舗の存続が保証されるんだもん。こんなにおいしい話はなかなかないよ。はじめのうちはお父さんも半信半疑でまなとの話を聞いていたけれど、周防家が私たちの街ではとてつもなく強い力を持っているのは動かしがたい事実じゃない? それでだんだん前向きな姿勢に変わっていって。今ではすっかり私とまなとを結婚させる気でいるみたいなの」
俺は祭壇の前で高瀬に追いついた。「そういえば俺たち、付き合ってることになってるよな? ほら、去年の冬にお父さんの前で恋人同士のふりをして、たしかそのままになってる」
「今でも交際してるものだと思ってるよ、お父さん。あれが演技だとは気づいてない」
「だったらなおさらおかしいよ」と俺は言った。「だって俺は冬にあの人に『おまえは将来、優里を幸せにできるのか?』って聞かれて『優里さんを幸せにできるのは、世界で僕ただ一人です』って答えてるんだぞ? もちろんそこには、トカイとの政略結婚を阻止してみせるという意思だって含んでる。俺のその覚悟を聞いてあの人は誇らしげな顔をしていた。それなのに、あんまりだよ。……周防との結婚を支持するなんて」
高瀬はきびすを返した。「お父さんは私たちの交際が長続きしないと予想してるの。『優里、初恋なんてうまくいかないもんだと昔から相場が決まってるんだ』って最近よく諭してくる」
「自分の初恋が実らなかったからって、なにも娘にそうやってわざわざ言い聞かせることはないのに」
「長続きしないと思われてもしょうがない部分もあるんじゃない?」そんな台詞を口にしながら振り返ると高瀬は、遠い目をしてステンドグラスを見上げた。「私という恋人がありながら、他の女の子と二人きりで東京へ行っちゃう彼氏。年頃の娘を持つ父親の九割九分は、そんな浮気性の彼氏を許せないでしょ」
「え」俺はうろたえた。「俺が月島と東京に来たこと、直行さんに話したの?」
「そりゃあ話すよ。だって地方の高校生が夏休みに私用で東京に何泊もするんだよ? 男の子ならいざ知らず、女の子には父親を納得させるっていう大仕事があるんです。
まずは一通り『行きたい』『だめだ』の押し問答があるじゃない? そこをクリアしたとしても次はどこに泊まるんだ、って聞かれるじゃない? 何かあったら困るから私は正直に月島庵って答えるじゃない? 月島庵ってなんだ、ってなるじゃない? 由緒あるおせんべい屋さんって私は答えるじゃない? 迷惑がかかる、やめなさいって親は言うじゃない? でも月島庵の娘さんと私の彼氏が東京にいっしょに行ったとなれば、また話は別じゃない? ね? 本当のことを言わなきゃ、私は東京に出てこられなかった」
ぐうの音も出なかった。Iー1グランプリが終わって街に帰ったら直行さんに文句の一つでも言いに行こうと思っていたが、どうやらやめておいた方がよさそうだ。どの面下げて私に会いに来た! と返り討ちにされるのがおちだ。
「話が逸れちゃったけど」高瀬は声を整える。「とにかく、まなとがお父さんに接触している。そしてふたりは意気投合している。だからそう遠くない時期にお父さんは私にまなととの結婚を真剣に考えるよう頼み込んでくる。必ず。今はそういう状況になっているってことを、神沢君にも知っておいてほしかったの。
当然ね、私はお父さんに頼み込まれても断るよ。たとえ土下座されても断る。だって大学に行って将来は翻訳家になりたいっていう気持ちを今日一日でより強くしたからね。そして信じてるからね、神沢君のこと。……何か質問はある?」
なぜこの話をよりによって礼拝堂などという場所で俺に聞かせたのかという疑問が真っ先に頭をよぎったけれど、それは口には出さなかった。高瀬には高瀬の考えがあるのだろう。
「いや、ないよ」
高瀬は小さくうなずいて、腕時計を見た。「あーあ。せっかく大学に来たんだから、学食でなにか軽く食べていこうと思っていたのに、時間がないや。もうすぐ3時だ。月島さんに神沢君を渡さなきゃいけない」
気まずい雰囲気の中、俺たちは礼拝堂の出口へ向かった。でも高瀬だけは途中で立ち止まった。どうしたのかと思い俺が振り返ると、彼女は石ころのように表情のない顔で「そっか」とつぶやいた。
「会社のためとはいえ娘を好きでもない男の元に嫁がせなきゃいけないなんて、考えようによっては全然幸せじゃないのかも。お父さん、“未来の君”といっしょになっていたら、娘のことで悩むことはなかったんだろうな」
俺はどんな相づちを打てばいいのかわからなかった。それでも高瀬にはいつもの表情を取り戻してほしかった。だからここで一芝居打つことにした。
「だめだ。腹が減った。月島には俺から『遅れる』って連絡しておくから、学食でなにか食べていこう」




