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【完結済】未来の君に、さよなら  作者: 朝倉夜空
第二学年・夏〈解放〉と〈アイドル〉の物語
202/434

第58話 今でも自分の色を出せないでいる 1

 

 みちるさんから電話がかかってきたのは、両国駅を降りて徒歩で月島庵に帰っている最中だった。


「本当にいいんですか?」と俺はその連絡を受けて聞き返した。

「いいのよ」と彼女は言った。そしてそうなるに至った経緯を手短に話した。


 通話が終わると月島が顔を近づけてきた。

「シャッチョさん、なんだって?」


「明日のレッスンが休みになった」と俺は言った。「ほら、スタジオの空調、いかれてただろ? 明日業者が入って修理するから、終日スタジオは使えないんだってよ」


 言い終わらないうちに、偏差値46のメンバーは歓喜の声をあげていた。正確に言えば柏木を除く二人がはしゃいでいた。高瀬は飛び上がって喜び、月島は小躍りした。そのまま万歳三唱でも始まりそうなムードだったけれど、我に返ったのか、高瀬が疑問を呈した。


「でも、本当に休んじゃっていいのかな? I-1グランプリの本番までもう一週間しかないんだよ? ただでさえ私たちには克服しなきゃいけない課題がまだたくさんあるのに」


「一日休むのが不安なら、場所を探して自主的に特訓するか?」と俺は言った。「ダンスの練習くらいなら近所の公園でもできるだろ?」


「休む」と高瀬は即答した。

「休む」と月島も続いた。

 

 しばらく待ってみたけれど、柏木は何も言わなかった。態度を決めかねているわけではなくて、俺の問いかけに応じることを拒んでいるのだ。事実、「柏木はどうしたい?」と月島に尋ねられると、彼女は「休もう」とほがらかに意思表示した。


「それじゃ決定だな」と俺はプロデューサーとして言った。「明日は午前中に店の手伝いをしたら、午後からはオフだ」


 三人娘は明日の午後をどう使うか話し合った。


 みんなで一緒に渋谷へショッピングに行くとか横浜で中華を堪能するとか浦安の夢の国で現実逃避するとか実にさまざまな案が出たけれど、結局は、完全自由行動ということで落ち着いた。どうやら彼女たちにはそれぞれ、すべきこと(・・・・・)があるらしかった。

 

「ねぇ神沢」と月島は言った。「明日、ちょっと付き合ってもらいたい場所があるんだ」


「私も」高瀬は慌てて挙手した。「神沢君と一緒に、したいことがあるの」


 ふたりは目を合わせてから、どちらからともなくゆっくり視線を柏木に転じた。当の柏木はといえば、我関せずとばかりに無言で歩き続けている。


「ねぇ晴香」と高瀬が声をかけた。「晴香は明日どう過ごすつもりなの?」

「ナイショ」と柏木は答えた。


 月島は言った。「私と高瀬さんで、神沢を自由に使っていいわけ?」

「人をフリークーポンみたいに言うな」と俺は一応抗議した。


「どうぞお好きに」と柏木は無表情でにべもなく返した。「あたしも明日は楽しむから、月島も優里も楽しんでね」


「それじゃあ高瀬さん。正午から3時までは神沢を貸すよ。3時以降は私が借りる。それでもよいかな?」

「うん、よいよ」と高瀬は言った。


 人をレンタカーみたいに言うな、と抗議しかけたが、馬鹿馬鹿しくなってやめた。どうせ何を訴えたところで、俺は明日のスケジュールを自由に決められないのだ。


 さて。フリークーポンやレンタカーのように雑に扱われるのは別にたいした問題ではない。そんなのはもうとっくに慣れた。


 それより重要なのは――心に留めておくべきなのは――柏木の様子がおかしいことに気がつかないほど、高瀬も月島も愚鈍ではないということだ。


 俺と柏木の間に一体何が起きたのか、両者からはまず間違いなく説明を求められるだろう。本当のことなど話せるわけがないし、かといって適当なことを言ってごまかせそうもない。はぁ、と俺は静かにため息をついた。明日を迎えるのが憂鬱で仕方ない。


 ♯ ♯ ♯


 高瀬がしたかったこととは、大学めぐりだった。


 読んで字のごとく都内にある大学を見学してまわるのだ。


「せっかく東京にいるんだし、都会の大学生気分を味わおう」と地方の女子高生は目をきらきらさせて言った。ただ、大学めぐりをするといっても、都内に大学は山ほどあるのだから、俺たちはどこをどういう順番で行くのかあらかじめ決める必要があった。


「神沢君は、見てみたい大学とかある?」と高瀬は出かける準備をしながら尋ねてきた。

 

 俺は少し考えてから有名な二大学の名を挙げた。大隈さんが設立した大学と福沢さんが設立した大学だ。するとどういうわけか彼女は時計を見て眉をひそめた。どうしたのと言ってほしそうだったので、「どうしたの?」と俺は言った。


「私、どうしても行ってみたい大学が三校あって」と高瀬は言った。「でも3時にはここに戻ってきて月島さんに神沢君を渡さなきゃいけないでしょ? 全部まわるには時間が足りないんだよね」

 

 ちなみに高瀬はどこに行きたいのか俺は尋ねてみた。彼女の口から出てきたのは、いずれも伝統的に作家や文化人を数多く輩出している大学だった。それで俺はすぐにピンときた。

「なるほど。翻訳家の先輩たちが見た風景や歩いた道なんかを、高瀬も身をもって知っておきたいというわけか」

 

 翻訳家志望のお嬢様はスマートに微笑んだ。「とっても有意義な休日の使い方でしょ?」

「それならそうと最初から言ってくれればよかったのに」


「だって私がその三校を選んだ理由を、神沢君に当ててほしかったんだもん」


 俺は苦笑した。「それじゃ、その三校を順番にめぐりますか」


 ♯ ♯ ♯


 所在地から校名から校風から校章に至るまでなにもかもオシャレなメソジスト系私立大学のキャンパスを一通り散策し終えた俺たちは、渋谷駅で山手線に乗って池袋まで行き、そこから最後の目的地へ向かった。


 ここが一番見てみたかったんだ、と高瀬が言うその大学もまたいちいちオシャレで、滋味ある赤レンガの建物が目を引き、校舎にはツタが絡まり、そしてほとんどの施設には横文字の別名が与えられていた。この大学では敷地内を飛ぶカラスですらなんだかオシャレに見えた。


「さすがにちょっと歩き疲れたな」と俺はキャンパスを少し進んだところで言った。

「もう疲れたの?」高瀬は呆れる。「神沢君、体力ないなぁ」


「気疲れもあるんだよ。三校ともイヤミなくらいオシャレだから、ずっと居心地が悪くてしょうがないんだ。なんとなく俺だけすれ違う人たちに笑われてるような気がするんだよな」

「気のせいでしょ」

 

 腕時計を見ながらどこかへとせわしなく駆けていく女子学生が俺の目に留まった。

「ほら見ろよ。あの人、サングラスをシャツの胸元にかけてるぞ。ああいう格好の人って世の中に本当にいるんだな。オシャレだなぁ。きっとこの後、オシャレな彼氏とオシャレなカフェでオシャレな会話をするんだろうな」


「人の話聞いてないな」と高瀬はつぶやいた。「わかりましたよ。それじゃあ、ちょっと座って休憩しよう。ちょうどそこにベンチがあるし」


 俺たちは飲み物を買ってからベンチに腰掛けた。目の前を行き交う学生は思いのほか多く、ともすると今が夏休み中であることを忘れてしまいそうだった。


「それはそうと神沢君。晴香と何があったの(・・・・・・・・・)?」

「え」俺は不意を突かれてたじろいだ。


 高瀬は顔を覗き込んでくる。「丸一日以上神沢君と目を合わせようともしなければ、話しかけもしない。それどころか存在を無視してる。完全に。そんな晴香、晴香じゃないよ。神沢君と晴香のあいだでただごとじゃない何かが起きた。違う?」

 

 ただごとじゃない何か。

 

 的確だ、と俺は感心した。みちるさんが柏木に「悠介の“未来の君”は優里だ」とのたまった。たしかにただごとではない。しかも厄介なことに、それは出任せなのだ。

 

 俺はダメ元でしらばっくれるしかなかった。

「あいつがあくびした時の顔がちょっとだけコモドドラゴンに似ていて、それを冗談半分で言ったら怒ったんだ」


「嘘」と高瀬はきっぱり言った。「神沢君は知らないと思うけど、晴香ね、昨日の夜中泣いていたんだよ。二階のベランダから夜の街を眺めながら、しくしく」


「そう……なのか」


「私は寝たふりしてたけどね。声をかけてほしくはなさそうだったから。晴香みたいなタフな娘がなんとかドラゴンに似てるって言われただけで、夜中に起きて泣いたりしないでしょ」


 思わずため息が漏れ出る。隠し事をしたり嘘をついたりすることに疲れている自分がいた。ふと俺は、もう何もかも洗いざらい打ち明けてしまいたい衝動に駆られた。


 でも大学生たちの笑い声がその衝動を押しとどめた。高瀬とふたりで大学にいるという現実を今の俺は忘れてはいけなかった。俺たちは「一緒に大学に進学しよう」と誓った仲なのだ。なにもわざわざよく晴れた日のキャンパスで「“未来の君”は柏木なんだ」と宣告することもない。


「たしかに高瀬の読みどおり、俺と柏木のあいだには、ちょっとややこしい事態が起きている。本来なら高瀬もそれは知らなきゃいけないことなんだと思う。でもどうしても、今は話せないんだ。どうかわかってほしい」


「今は」と高瀬は静かに繰り返した。「ということは、いつかは話してくれるってこと?」

 俺は小さくうなずいた。

 

 高瀬はペットボトルの茶を口に含んで、それから深く顎を引いた。

「わかった。そのいつかが来るのを待ってる」

「ありがとう」


「その代わり、この質問には今答えてもらおうかな」彼女はそう言った。「みちるさんが私にだけ特別厳しい理由、神沢君は心当たりがあるよね?」

「まぁ、あると言えばあるかな」


「教えて」


「聞かない方がいいと思うけど」

「大丈夫」

 

 俺はみちるさんが20年前に書いた日記の内容を思い出し、実は、と説明をはじめた。


「嘘でしょ? みちるさんと私のお父さんが昔付き合っていたなんて」


「本当だよ。二ヶ月に満たない短い期間ではあるけれど、たしかにふたりは高校時代、交際していたんだ」


「ちょ、ちょっと待って」高瀬はあからさまに動揺する。「でもさ、私のお父さんって、神沢君のお母さんに恋してたんじゃないの?」

 

 俺はうなずいた。「直行さんにもみちるさんにも、それぞれ本命がいた。でもその想いとはまた別のところで、ふたりは互いが気になっていたみたいだ」


「なにそれ」と彼女はまるで道に落ちているポルノ雑誌を見下すような顔で言った。「それで、どっちが交際を持ちかけたの?」


「あなたのお父上です」

「なにそれ」

 

 判官贔屓(ほうがんびいき)というわけではないけれど、直行さんの気持ちはわからないではなかった。「仕方なかったんじゃないかな?」と俺はとっさに直行少年をフォローした。「どんなに言い寄ってみても俺の母親は柏木の父親しか眼中になかったから、振り向いてくれそうになかった。対して、みちるさんとはとても波長が合ったらしい。アイドルとして活躍するくらいだからそりゃあ美人だっただろうし、一時的に心移りしたとしても、無理はない。若気の至りってやつだろ」


「神沢君、ずいぶんお父さんの肩を持つんだね」

「俺は一般論を述べただけだよ」


「どんな事情があっても、好きな人がいるなら一途に想い続けなきゃだめだって。それが恋した相手に対する最低限の礼儀でしょ」そう高瀬は主張する。父親の過去を責めているのだろうけど、これにはなんだか俺も耳が痛かった。

 

 おそるおそる隣を見てみれば、彼女は思案顔で首を傾げていた。


「なんとなくまだもやもやするんだよなぁ。みちるさんは私のお父さんと昔付き合っていた。それはわかった。でも、それだけが私につらく当たる理由? おかしいな。しっくりこないな。まだ他に何か理由があるんじゃないかな……」

 

 雲行きが怪しくなってきたので俺は本能的に口をつぐんだ。しかしやはりそれは逆効果だった。


「神沢君」と高瀬は抑揚のない声で言った。「お父さんたちのことで、まだ何か私に隠してること、あるよね」

 

 俺は意味もなくシャツのボタンをいじった。「これは、本当に聞かない方がいいと思うけど」


「大丈夫。これ以上何が出てきても私は驚かないから」

 

 俺の“未来の君”が誰なのか。それを高瀬が知るのはまたの機会に持ち越しとなったわけだけど、代わりに今日彼女は、どうやら実父の“未来の君”を知ることになるようだ。驚くに違いない。


「高瀬、少し歩こうか」と俺は立ち上がって言った。

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