第57話 目を覚ますとそこには新しい世界が広がっていて 3
「涼が昨日までとは全然違う。動きにキレがある」
隣で女社長は目を見張った。
「ねぇ悠介。さては私の知らないところで、何かあったでしょ?」
月島が城之内柚と7年ぶりの対面を果たした翌日、俺はスタジオでみちるさんと共にダンスの練習を見守っていた。月島を発奮させた出来事があるとすればそれは、疑いの余地なく前日のあまり感動的とはいえない再会なのだろうが、ここで城之内柚の名を出すのはなんとなく好ましくない気がした。
それに月島の例の能力について一から説明するのはおそろしく億劫だった。だから俺は「さぁ?」とお茶を濁すことにした。「優勝賞金で買いたいものでも見つけたんじゃないですか?」
「買いたいもの」とみちるさんはオウム返しした。「なんだろうね?」
「なんだと思います?」
「愛とか?」
「愛って、買えるんですか?」俺はびっくりして聞き返した。
みちるさんは戯けて肩をすくめる。おちょくられていると遅れて気がつく。
「話は変わるけどさ」と彼女は表情を引き締めて言った。「もう本番まで一週間しかないわけだし、そろそろセンターを決めなきゃいけないよ。どうする?」
俺は目を瞬いた。「どうするって、僕が決めるんですか?」
「当然でしょ。自分の肩書きを忘れた? 君は“偏差値46”のプロデューサーなのよ? 悠介が決めなくて誰が決めるの」
「はぁ」
「センターはね、ただ単に中心でパフォーマンスをすることだけが役割じゃない。ステージから降りてもそのユニットのまさに顔となる存在じゃなきゃいけないの。人気が出るも出ないもセンター次第と言っても過言ではない。悠介の目から見て“偏差値46”の顔にふさわしいと思う娘をひとり指名しなさい」
こいつは難しいぞ、と俺はたまらず唸った。同じ名を持つポジションでも野球の中堅手やバスケットの5番を決めるのとは違って、アイドルのセンターには足の速さや背の高さのような明確な判断材料が存在するわけではない。実にさまざまなこと――目に見えることとそうでないこと――を総合的に勘案して決める必要がある。
当然ながらすぐには決められなかった。誰をセンターに抜擢してもメリットとデメリットがあった。そして選ばなかった二人から決して好ましくない視線を向けられるであろうことは、想像に難くなかった。
気づけば俺は踊る三人と同じくらい汗だくになっていた。
「おーい悠介、ひどい顔してる」
そのみちるさんの指摘で俺ははっと我に返った。
「あまり難しく考えすぎちゃダメだって。こういうのは理屈より直感を大事にした方がうまくいったりするんだから」
直感、と呼べるようなものはあいにくなかったけれど、理屈抜きでセンターを決めて良いのなら、こんなに簡単なことはなかった。だって純粋に俺が見てみたい娘を選べばいいのだから。責任のあるプロデューサーとしてではなく、一人の観客として。あるいは彼女の世界一のファンとして。
「選考に私情をはさんじゃ、さすがにまずいですよね?」と俺はダメ元で聞いてみた。
「べつにいいんじゃない?」とみちるさんはあっさり答えた。「プロデューサーの個人的な好き嫌いで立ち位置を決めるなんて昔から実際によくある話だし、それで結果的に成功しているアイドルもいるんだから、えこひいきもあながち捨てたもんじゃないのかもよ?」
それを聞いて俺はだいぶ楽になった。
「誰をセンターに選んでも空中分解するリスクはあるんですよね、多かれ少なかれ」
「そうそう。こればかりはどう転ぶか私にもわからない」と言ってみちるさんは、人さし指をピンと立てた。「ただ、ひとつ確実に言えることは」
「言えることは?」
「指名された娘は、悠介に対して、とっても良い感情を持つでしょうね。誰かに期待されるっていうのは、うれしいものだから。どんなかたちであれ」
「そんなもんですかね」
「そんなもんよ」みちるさんはうなずいた。「もしかしたら、プロデューサーとセンターができちゃったりして?」
「センターに選んだ娘と恋人になれるんですか?」と俺はびっくりして聞き返した。
みちるさんは戯けて肩をすくめる。おちょくられていると遅れて気がつく。
♯ ♯ ♯
「はいみんなそこまで」
みちるさんは曲を止めると、手を叩いて三人に招集をかけた。
「ご苦労様。少し休んで、と言いたいところだけど、プロデューサーからとっても大事な発表があるから。心して聞くように」
あとは任せたよ、という風にみちるさんは俺の肩にタッチして後ろに退いた。
「ええと、今から、“偏差値46”のセンターを指名しようと思う」
声が上ずり、脇汗まで出てくる。そんな俺とは対照的に、三人は凛としていた。どうやら彼女たちよりも俺の方が緊張しているらしい。誰を指名するかは自分の中ですでに確定していたけれど、落選した二人へのせめてもの情けとして、最後の瞬間まで悩み抜くふりをすることにした。十秒が経った。俺は言った。
「高瀬、頼んだ」
奇しくも高瀬は三人の真ん中に立っていた。そしてまるで貴族に混じって舞踏会に来ていた召使いが王子にダンスを誘われたように窮屈そうに縮こまっていた。
「え……私?」
俺は王子ではないがうなずいた。
「いろんなことをトータルで考えた上で出した結論だ。Iー1グランプリで俺たちみたいな無名ユニットが奇跡を起こすためには、高瀬がセンターを務めるのが最善だと俺は判断した。みちるさん、いいですね?」
「異存はないわよ。プロデューサーの言うことは絶対だもの」
それが決して揺るがぬ決定事項であることをみちるさんが強調すると、高瀬は責任の重さを刻みつけるように手を胸元にあて、月島は無表情でスポーツドリンクを飲み、柏木は静かに髪を結び直した。
俺は一悶着起きることを想定していたので、ほっと胸を撫で下ろした。めったなことでは感情を表に出さない月島はともかくとして、柏木の性格を考えれば、ふてくされて誰彼かまわず八つ当たりしてもちっともおかしくなかった。
ところが彼女の暴れ馬っぷりは鳴りを潜めている。柄でもなく高瀬の脇に回ることを納得してくれたのだろうか? だとしたら大会本番までの残り一週間は俺にとって過ごしやすい日々となるのだが。
でももちろん柏木は納得なんかしていなかった。彼女はちゃんとこの決定に腹を立てていた。
「ちょっと、何考えてんの悠介!」と柏木がすさまじい剣幕で食ってかかってきたのは、高瀬と月島が近くのドラッグストアへ買い出しに行った直後のことだった。「なんでよりによって歌もダンスも上達が遅い優里がセンターなの? 意味わかんない! 誰が見たってセンターはあたしでしょ! センターが優里じゃ、Iー1グランプリで勝てないって!」
「とりあえず、落ち着いてくれ」
一応なだめてみたけれど、効果がないことは、経験則からわかりきっていた。
「これが落ち着いていられる? きちんと納得のいく説明をしてよ!」
俺はため息をついた。そして横目でみちるさんの様子をうかがった。彼女はコーヒーを飲みながら我関せずとばかりにスマートフォンをいじっていた。
「忘れてもらっちゃ困るけど」と俺はやむなく口を開いた。「高瀬は伝説のアイドルグループ“トラベリング”不動のセンターだったみちるさんの娘として大会に挑む。本番で歌う楽曲だってトラベリングが20年前に歌っていたヒット曲だ。そこまでトラベリングの名前を借りておいて、高瀬をセンターに据えなかったら、かえって不自然だろ。見ている人たちだってがっかりするはずだ。トラベリング2世という話題性を最大限に活かすためにも、センターは高瀬が担うべきなんだ」
我ながらもっともらしい説明だった。少なくとも筋は通っている。だから口達者な柏木もこれには反論できない。
「安心しろ」と俺は続けた。「スカウトの目に留まるかどうかを気にしているのなら、その点は心配いらない。おまえの発する輝きが本物ならば、立ち位置がセンターだろうがそうじゃなかろうが、目の肥えた業界人は放っておかないはずだ。必ず大会の後で声がかかるだろう。アイドルデビューして、輝かしい未来が開けるといいな」
「好きだから」と柏木はやけに低い声でつぶやいた。「好きだからっていう理由で、優里をセンターに選んだんじゃないでしょうね?」
「そんなわけないだろ」と俺は言った。
「あたしの目を見ても違うって言える?」と柏木は言った。
「言えるよ」と俺は彼女の目が明るいブラウンのビー玉だと思い込んで言った。
柏木は黙り込んでしばし俺の顔をまじまじと見た。それから視線をコーヒーカップ片手にそしらぬ顔でくつろぐ女社長の方へ転じた。
「みちるさん! 悠介から何か聞いてませんか!? どうしてあたしじゃなくて優里がセンターなんですか? 悠介は絶対何か隠してます! あたしにはわかるんです!」
面倒くさがり屋のみちるさんのことだから、よもやまともに取り合うことはないだろう、と楽観視していた俺が馬鹿だった。
よくよく考えれば面倒くさがり屋である以前に母の旧友は、腹の底が読めない人だった。食えない人だった。曲者だった。なにしろ昔の男の娘を自分の娘として売り出すなんてことを平気で立案・実行する人だ。そんな所業に及ぶのは、悪魔的な人間か人間的な悪魔しかいない。
そんな悪女がなんのためらいもなく言い放った台詞は、無論俺にとって歓迎すべきものなどではなかった。絶妙なバランスの上に成り立っていた俺や高瀬や柏木や月島の関係を根底から揺るがすものだった。
「悠介。本当のことを言わなきゃもう晴香は納得しないって。晴香、いい? 一度しか言わないからよく聞きなさい。悠介が優里をセンターに選ぶのは必然なの。そりゃあえこひいきくらいするわよ。だって、悠介の“未来の君”は、優里なんだから」
俺はみちるさんが何を言っているのかすぐには理解できなかった。耳から入ってきた情報をそのまま受け入れてよいのかどうか脳が判断を下せずにいるらしかった。あべこべな数式を見た時より機能が麻痺している。
みちるさんがとんでもない爆弾発言をしたのだと俺が気づいたときにはすでに、柏木の顔は紅潮しきっていた。そして彼女は俺に背を向けると足早にスタジオの出口へと向かった。
みちるさんに発言の真意を問い質すのが先か、それとも柏木の後を追うのが先か、考えるまでもなかった。俺は全速力で駆け出した。
スタジオのある二階と一階をつなぐ階段の踊り場で柏木に追いつき、「待ってくれ」と俺は彼女の右手を後ろから掴んで叫んだ。
「放してよ!」柏木はすぐに俺の手を振り払った。「そういうことだったんだ! センターを優里にした理由どころかなにもかも全部納得いったよ! “未来の君”が誰なのかわかったんなら、正直に教えてくれればよかったのに! なんで隠して期待を持たせるようなことするの!? 最低!」
「違うんだ! 頼むから話を聞いてくれ!」
「聞きたくない!」
柏木はせっかく結んだ髪が乱れるほど頭を激しく振ると「悠介なんか大嫌い」と言い残して、階段を下りていった。
俺はその場でただただ立ち尽くすことしかできなかった。彼女の姿が見えなくなっても、最後の言葉だけは頭の中で幾度となく繰り返されていた。
数え切れないほどの人に嫌われてきた俺だけど、「大嫌い」なんてことを面と向かって言われたのは、これが初めてだ。




