第56話 地図なき航海の先に 4
「みんなに話があるんだけど」と柏木が言い出したのは、夕食もあらかた終わり京さんがスイカを切りはじめた時のことだった。
月島は機嫌が直らないらしく、依然として二階の六畳間に籠城している。
京さんは包丁を持つ手を止めた。
「それは、悠介君や優里ちゃんだけじゃなく、私たちも聞いていいお話なの?」
柏木はうなずいた。
「というか、涼のご家族にこそ聞いてもらわなきゃいけない話なんです。みなさんの協力と理解が絶対に必要になるので」
月島家の人々は顔を見合わせた。俺と高瀬も顔を見合わせた。この夏のトラブルメイカーは俺たちだけでは飽き足りず、月島家まで面倒に巻き込むつもりなのだろうか。
「今日あたしは代々木にある芸能事務所に行ってきました」と柏木は姿勢を正して話し始めた。「そこのスカウトさんに一度会ってみたいって言われていたので。そのスカウトはアイドル担当で、あたしがステージで歌っている映像をたまたま見て興味を持ったとのことでした。面談は小さなスタジオで始まりました。一対一でした。あいさつと自己紹介が済むと、スカウトの男の人はあたしに次々と質問をしてきました。趣味は? 特技は? 家族構成は? はじめての東京はどう? そういう当たりさわりのない質問です。あたしはできるかぎり明るく、はきはきと、時には冗談を交えてそれに答えていきました」
初対面の人間とすぐに打ち解けることにかけては、柏木の右に出る者はそうそういない。なにしろ彼女は、バスで隣に5分だけ座った老婆から近々結婚する孫娘の仲人をしてくれないかと頼まれる女だ。
柏木の当意即妙の受け答えは、スカウトに好印象を与えたに違いなかった。果たして、「とても良いムードで面談は進みました」と彼女は言い添えた。
そんななごやかな雰囲気が一変したのは、スカウトの最後の質問に柏木が答えた直後だった。将来の夢を尋ねられた柏木は、アイドルになることですと返した。スカウトは椅子の上で退屈そうに背伸びをして、独り言のようにこうつぶやいた。
こりゃとんだ見込み違いだったな――。
もちろん空気は凍てついた。「どういうことですか?」と柏木は発言の真意を尋ねた。「あのね」とスカウトは無表情で言った。
「あのね、君がフェスで歌っている映像を見た時に僕は衝撃を受けたんだよ。もうかれこれ15年近く磨けば光りそうな女の子に片っ端から声をかけて僕はメシを食ってきたわけだけど、あんな経験は初めてだ。なんといっても君はもうすでに光を放っていたからね。それは長年アイドルのスカウトをしている人間だけがわかる光だった。強い光だった。僕はどうしても君に会ってみたくなった。そしてその光を直に感じてみたかった」
柏木は反射的にスタジオの壁に目をやった。そこは鏡張りになっていた。目が合った少女はどことなく焦燥感にかられているように見えた。
「実際の君が発する光はやはり強力だった」とスカウトは淡々と続けた。「しかしながら君のその強い光は例えるならば“街灯”のようなもので、自分の足元ともう一人分くらいのスペースならば明るく照らせるのだが、遠くの場所を照らすことはできない。アイドルとして大成するために必要なのはね、ずっと遠くまで届く光なんだよ。名も知らぬ誰かの――迷える誰かの道を無償で照らすような光だ。そう、言わば“灯台”のような光だね。というわけで、残念ながら君は、アイドルには向いていないよ」
柏木は俺たちの顔を見渡した。
「正直あたしは、なにがなんでもアイドルになりたいというわけではありませんでした。なれたらラッキー、くらいの軽い気持ちで今日、芸能事務所に行ったんです。でもスカウトにそんな風に言われて、悔しかった。すごくすごく悔しかった。せめて歌だけでも聞いてくださいとあたしはお願いしました。けれどもスカウトに時間の無駄だよって鼻であしらわれて、そこで完全に心に火がつきました。アイドルになりたいと強く思いました。アイドルになってスカウトを見返してやると誓ったんです」
「でもね晴香ちゃん」と治さんが声をかけた。「アイドルになるといっても、スカウトさんとのコネクションがなくなってしまったら、もうお手上げじゃないかな? それとも渋谷や原宿でうろうろして、他の会社のスカウトに声を掛けられるのを待つのかい?」
「そんなの、あたしらしくないですよ」柏木は不敵な笑みを浮かべると、どこからともなく折り畳まれた紙を取り出し、テーブルの上で広げた。それはテレビ番組のポスターだった。二週間後の放映が予告されている。生放送だ。
「アイドル日本一を決める“Iー1グランプリ”。これに挑戦します!」
「Iー1グランプリ?」
芸能に疎い俺でもわかったのは、それが”IDOL”の頭文字をとって名付けられたコンテストだということくらいで、それ以外――大会のあらましや趣旨がどういうものであるかということに関しては、およそ見当がつかなかった。
「『挑戦します!』って言うけど、柏木。おまえはどこの芸能プロダクションにも所属していないんだぞ? そんなズブの素人がこの大会に参加できるのか?」
「わかってないなぁ悠介。あたしが今から順を追って話すから」
得意げに、おほん、と喉の具合を整える柏木を手で制したのは月島の父だ。
「『Iー1グランプリ』の説明なら僕に任せて」と筋金入りのアイドルオタクである治さんは出しゃばった。「アイドルと一口にいってもね、最近は実にいろんなタイプの子がいるんだよ。なにもテレビで歌やダンスを披露する子だけがアイドルじゃないんだ。敢えてフリーランスで活動して『型にとらわれないアイドル』を志向する子たちがいれば、地方に拠点をかまえて、地域の活性化を担う子たちもいる。会社員やプロレスラーとの二足のわらじを履く子だっている。
とにかく今は、日本中のそこかしこにアイドルがいるような時代なんだ。それじゃあ果たして、どのアイドルが最も優れているかテレビの生放送で一発決めようじゃないかと企画されたのが、この『Iー1グランプリ』というわけさ」
俺はポスターを見てみた。たしかにそこには『すべてのアイドルの頂点へ』という謳い文句が躍っている。
「そしてこの大会最大の特徴は、なんと誰でもエントリーできるところなんだ」
治さんの弁舌は熱を帯びてくる。
「年齢も国籍も実績も活動歴もファンの数も問われない。求められているのはただひとつ。アイドルとして輝きたい――その熱いハートだけ。だからもちろん晴香ちゃんのように芸能事務所に属していない子でも門前払いされることはないんだ。海女さんだろうが修道女だろうが歯科助手だろうが、我こそはと思う人なら誰でも挑戦可能なのさ」
「素人でも参加できるかどうかと、グランプリを獲れるかどうかは、また別の話ですよね?」
盛り上がりに水を差すようだけど、俺はそう指摘した。
「だって昨日今日ダンスの練習を始めたばかりの新米アイドルが、テレビに出ている現役バリバリのアイドルに勝てるわけないじゃないですか。相撲なら新弟子が横綱に挑むようなものですよ」
「それがね、第一線で活躍しているトップアイドルたちは、そろってエントリーを見送っているんだ」
「へぇ。どうしてなんですか?」高瀬は教室で授業を受けているかのようでもある。
アイドルの先生は答えた。
「一般の子たちと同じステージに立つなんてトップアイドルのプライドが許さないだとか、生放送だと普段は口パクなのがばれちゃうからだとか巷ではいろいろ言われているみたいだけど、僕が思うに、事務所の意向が大きいはずだ。彼女たちがグランプリを獲っても『そりゃそうなるよな』と世間にさほど驚かれないけれど、もし獲れなかったら、『なんだ、大したことないんだな』と幻滅されてしまう。するとこれからの活動にも差し障りが出てくる。それを考えたら、不参加は賢明な判断だよ。だから『Iー1グランプリ』は、アイドルの登竜門的な色合いが濃くなっているんだよね」
高瀬は納得したようにうなずいた。
「それに晴香が挑戦するんだ。私、応援するよ。がんばってね」
柏木は不服そうに口をすぼめた。
「なに他人事みたいに言ってんの? 優里も出るんだよ!」
「ええ!?」高瀬と俺の声は見事に重なった。
「ねぇ優里。あたしと優里とそれから月島で三人組ユニットを組んで、Iー1グランプリに出場しようよ。あたしたちなら日本一のアイドルになれるって!」
「むりむりむりむりむり」高瀬は激しく両手を振る。「晴香や月島さんはともかく、私はアイドルになるなんて絶対に無理! だって去年のフェスでは私もステージで歌ったのに、スカウトさんの目には留まらなかったんだよ? それは私にはアイドルの素質がないってことだよ」
「またまた謙遜しちゃってぇ」柏木の顔にはずる賢い笑みが浮かんだ。「前にあたしと一緒に歌番組を見ていたら人気のアイドルグループが出てきて、優里、その時こう言ったよね。『なんでこの子たちって特別かわいいわけじゃないし歌も下手でそのうえ頭も悪そうなのにこんなに売れてるの? 意味わかんない。男って簡単に騙されるんだね。これなら私たちの方がよっぽど良いアイドルになれるよ』。……優里。心の奥底では実は、アイドルに憧れがあるんじゃないの?」
「どうしてそういうのをここでバラしちゃうかな」高瀬は否定しなかった。否定したところで――なにしろ相手は柏木だ――墓穴を掘る結果になることがわかっていたのだろう。
まぁ俺としても、高瀬がいつどこでどんな毒を吐こうが今更さして気にしない。
黒さがあってこその高瀬さんだ、という観念が自分の中で成熟しつつある。
「あ、そうだ!」
柏木はここぞとばかりにわざとらしく手を叩いた。
「言い忘れていたけど、グランプリに選ばれると賞金がもらえるんだよねぇ。涼パパ。優勝賞金がいくらか教えてあげて」
「ほい来た!」
あうんの呼吸で治さんが口にした金額は、俺が予測した額の十倍だった。桁がひとつ多い。初競りの夕張メロンを四年連続で落札したってお釣りがくる。思わず息を呑む。高瀬と目が合う。考えていることは――イメージした賞金の使い道は、ふたりともおそらく同じはずだ。
「優里」柏木はいやに甘くささやく。「今日の様子だと、小説の新人賞に落選したみたいだし、要るんじゃないの? おカネ」
高瀬は真剣な顔つきでしばらく黙考した。それから言った。
「神沢君。私、アイドルになれるかな?」
「えっ!?」
派手な衣装に身を包んでスポットライトを浴びる高瀬の姿は、ボクシンググローブを装着してシャドーに励むガンディーと同じくらい想像するのが難しかったけれど、かといってここで俺は後ろ向きな答えを口にするわけにはいかなかった。なぜなら高瀬がこういう質問をしてくる時は、もうすでに腹が決まっている時なのだ。彼女が聞きたいのは、前向きな言葉だ。
「なれると思うよ。アイドルになった高瀬を俺は見てみたい」
「そっか」彼女はさもやれやれ仕方がないなといった風に前髪をかき上げた。「よし、やってみよう」
それにしても、と思い俺は実際に発言する。「それにしても、俺たちは今までバンドやら探偵やらいろいろやってきたけど、この夏はついにアイドルか。今回ばかりはさすがに俺の出る幕はなさそうだな」
そこで気色ばんだのは柏木だ。
「ひとりだけ高みの見物をしていられると思ったら、大間違いだよ。悠介には悠介にしかできない大仕事があるんだから!」
「おい待て。俺はアイドルなんて柄じゃないぞ。盆踊りですら足をくじいて満足に踊れないのに、観客を惹きつけるパフォーマンスなんかできるわけねぇよ」
「笑わせないでよ。誰がアイドルになれって言ったの。悠介にはあたしたちのユニットのプロデューサーになってもらうから」