第56話 地図なき航海の先に 3
別れ際にみちるさんは「東京に滞在中、なにか困ったことがあったら私を頼りなさい」と優しく声をかけてくれた。俺の嗅覚は“困ったこと”に関しては実に敏感なので、そろそろなにかしら新しい問題が持ち上がりそうなニオイはぷんぷんしていた。
だから「その時はお願いします」とそれに切実な声で答えておいた。もちろん母の友人の手を煩わせることなくこの東京旅行を終えることができれば、それが一番良いのだが。
voyageエンターテインメント本社のロビーで柏木と、四ッ谷駅で高瀬と合流して三人で墨田区の月島庵まで帰ってきたわけだけど、電車内のムードの悪さといったらなかった。柏木も高瀬もまぁ不機嫌だった。釣り革をつかんでいる人はみんなサンドバッグですとインチキ催眠術師に唆されたらどちらも本当に殴りかかるんじゃないかという気がしたくらいだ。
柏木がスカウトとの面接において芳しい結果を得られなかったであろうことは、彼女らしからぬ奥行きのない目を見れば明らかだった。そして高瀬が出版社との打ち合わせにおいて喜ばしい提案を引き出せなかったであろうことは、彼女らしからぬ潤いのない声を聞けば明らかだった。
ふたりは月島庵に着くなりリビングの壁に力なくもたれかかって「はぁぁ」と嘆息した。一方月島は相も変わらず二階の自室に籠もってふて腐れており、俺はいったいどうしたらよいものか途方に暮れてしまった。時計は3時を指していた。夕食まではまだだいぶ時間がある。
所在なくたたずむ俺に助け船を出してくれたのは、月島の母親だった。京さんは店の仕事に区切りをつけると俺の元にやってきて、近所のスーパーまでお使いを頼めるかな? と言った。夕食はとんかつにするつもりでいたのだが肝心の食用油を切らしていることに今気づいたらしかった。
もちろん俺は二つ返事で請け負った。何もせずゴロゴロしていてもみちるさんの話を思い返して気が重くなるのは目に見えていたし、また、買い出しのための外出は、三人娘の誰かと一対一で話をする絶好のチャンスでもあった。話すべき事柄は例によって山積している。家の中では話せないことも青空の下でなら話せるかもしれない。
俺はまず月島を誘ってみた。行かない、と彼女はすげなく答えた。俺は次に柏木を誘ってみた。行かない、と彼女はにべもなく答えた。俺は最後にダメ元で高瀬を誘ってみた。彼女はちょっと迷ってから「行こうかな」と答えた。行こうよ、と俺はほっとして言った。
♯ ♯ ♯
京さんに教わったスーパーで油を買ってから、目についた小さな公園で油を売ることにした。
ベンチは先客で埋まっていたので、俺たちは空いていたブランコに隣り合って腰かけた。すごい久しぶり、と言って高瀬はブランコを漕ぎ始めた。彼女はしばらく無邪気に遊んだ。弾んだ声を出して都会のブランコを楽しんだ。
電車に乗っていた時と比べると、だいぶ機嫌は直ったと判断してよかった。外に連れ出して正解だった。「四谷の街はどうだった?」と俺はそれとなく水を向けてみた。
「すごくいいところだったよ。落ち着いていて“大人の街”って感じで」
高瀬は体操選手みたいに華麗に着地を決めると、スマートフォンを取り出して俺に見せた。画面に表示されていたのは高瀬自身の自撮り写真だった。別名“ソフィア”ともいうミッション系私立大学の門をバックにして、彼女は微笑んでいる。
「ちょっとだけ寄り道したの。翻訳家を目指すなら、どうしてもこの大学は一度見ておきたかったから」
「ここの外国語学部は、有名だもんな」
高瀬はうなずいて、再度ブランコに座った。ただし今度は漕がなかった。
「そろそろしなきゃいけないよね。小説の話」
「聞かせてくれるかな」と俺は言った。
「出版社で待っていたのは30歳くらいの男の人」彼女はそう切り出した。「編集者というよりは、なんだか株のトレーダーみたいな雰囲気のある人だった。その人が言うには、なんでも新人賞の最終審査はもう終わったらしくて、あとは受賞作を発表するだけっていう段階なんだって。でも今年は過去に例を見ないほど不作で、大賞にふさわしい作品はひとつもなかったそうなの」
俺は当然の疑問を口にする。「『未来の君に、さよなら』も?」
「駄目出しされましたよー」
苦笑いすると高瀬は、トレーダー風が口にしたという総評を話し始めた。
「公平な目で見て、表現力も語彙力も展開力も及第点に達していると言える。テーマは高校生の恋愛劇というありきたりなものだが、現役の女子高生が男子高生の揺れ動く心情を描くのは手法として新鮮で、似たり寄ったりな作品が多いこの手のジャンルに新しい風を吹き込むことに成功している。読み手をぐいぐい引き込む魔力もある。読後感も良い。
ただ、ここが致命的な問題点なのだが、なにがなんでもこの作品を世に出したい、一人でも多くの人に読ませたい、そういう貪欲な積極性――言い換えるならば、小説家の魂からほとばしる情熱とでも呼ぶべきもの――は感じ取ることはできなかった。いくら上手く書けていても、魂なき作品を大賞に推すわけにはいかない。
そして最後にその編集者さんはこう言ったの。『僕はこの作品を読むと不思議なことに、なんだか絵画のレプリカを鑑賞しているような気になるんだ。まるで他の誰かが書いた作品をあなたが書き直したかのようだ』」
俺は素直に感心した。実際高瀬は、20年近く前に柏木恭一と俺の母が協力して仕上げた作品を現代風にリライトしたのだった。
「編集者ってすごいんだな。そこまで見抜けるのか」
「見抜けるんだね」高瀬は息を静かに空へ吐き出す。「そんな眼力のある人に『小説家の魂がない』なんて言われちゃったら、もうどうしようもないじゃない? 半年の努力が水の泡だよ。だから私は、もう席を立って帰ろうとしたんだ。でもそこで編集者さんはこんな言葉をささやいてきたの。『新人賞、欲しいんだろう? あげるよ。その代わり、ひとつ、取引をしようじゃないか』」
「取引?」と俺は聞き返した。そこには確かにダーティーな響きがあった。
高瀬はトレーダー風が語ったその内容を話し始めた。
「大賞にふさわしい作品はひとつもなかった。それは事実だ。ただ弊社としては“受賞作なし”とするのはどうしても避けたい。なぜならばこの出版不況とも呼ばれる冬の時代にあっては、新人賞の発表というのは、世間の関心をこちらに引きつけられる数少ない機会だからだ。
最終選考に残った六編の中から、むりやり大賞を選び出すこともできなくはない。しかし昨今の読者の目は肥えている。どれを選出しても大賞レベルに達していないと彼らはすぐに見破るだろう。そうなれば新人賞自体の箔が落ちることになる。どうするのが一番よいのか、結論がなかなか出ず、議論はかつてないほど紛糾した」
そんななか、ある突飛なアイデアが議場に飛び出した。
それを発案したのは、審査委員長を務めるベストセラー作家だった。彼はなにげなく見た『未来の君に、さよなら』の作者プロフィールから閃きを得ていた。
西暦20○○年生まれの16歳、鳴桜高校在学中。
「いっそのこと、“現役女子高生作家”と銘打って売り出すのはどうです?」と彼は提案した。「もしこの娘のビジュアルが良ければ、どんどん顔を公開してもらう。なんなら水着姿で作品を宣伝したっていい。マスコミはすぐに飛びついてくる。そうすれば間違いなく本は売れます。普段は小説を読まない人間の興味だってそそるはずです。
いいですか。小説は読者がいてはじめて小説として認められるんです。こう言っちゃあ身も蓋もないですが、中身なんてどうだっていいんです。大賞にふさわしくない無価値な作品ならば、こちらで付加価値をもたせてあげるんですよ」
俺は無意識のうちにブランコの鎖を強く握りしめていた。
「これから話すことは、私の妄想じゃないからね。勘違いしないでね」と高瀬はこそばゆそうに続けた。「編集さんは私の全身を見てこう言ったの。『我々が想像していたよりもはるかにあなたは美しい。清楚で知的でスタイルも良い。一目見て確信した。その美貌ならば世間の注目を集めることができる。本は売れる。売上げが良ければ『大賞にふさわしくない』などという雑音はそのうち自然にかき消える。我々もあなたも読者も誰も損をしない。
そこで、物は相談なのだが、我々が思い描いているプロモーションに協力すると約束してくれないだろうか。場合によっては水着でメディアの前に出てもらうこともあるかもしれない。あるいはバラエティ番組に出演して、たいして面白くもないお笑い芸人相手に『ずっと応援してました』と媚びてもらうこともあるかもしれない。
それでもいいのなら、我々は『未来の君に、さよなら』を満場一致の大賞受賞作として華々しく世に送り出そう」
俺は思わず天を仰いだ。
「出来レースにしてやる代わりに、アイドル活動のようなことをしろ。それが“取引”というわけか」
「そうなの! それじゃあ小説家なのかアイドルなのかわからないじゃない!?」
高瀬の怒声は、ベンチで寝ていた浮浪者を飛び起こさせる。
「私は我慢できなくてすぐに言い返したの。私はアイドルみたいなことがしたくて睡眠時間を削ってまで半年ものあいだこの小説を書いてきたんじゃないんです! 不正をしなければもらえない新人賞なら要りません! こっちから願い下げです! だいたい!」息継ぎ。「だいたい、『小説家の魂』ってなんなんですか? あなたは私の作品からはそれを感じないと指摘しました。はい、そうなんでしょう。実際、そんな立派なものは私にはないんでしょう。では魂を持たない16歳の私にこの取引を持ちかけてくるあなたはどうなんですか? 編集者の魂があるんですか!? 水着で宣伝? そんな馬鹿げた売り出し方を思いつく審査委員長の大先生の方が、小説家の魂がないように私には思えます!」
痛快だな、と思って俺は忍び笑いした。あたふたと狼狽するトレーダー風が目に浮かぶ。「キレちゃいましたか」
「キレちゃいましたねぇ」高瀬はかわいらしく泣き真似をした。「ごめんね、神沢君。獣医学部に進むための学費を稼ぐまたとないチャンスだったのに。私の悪い癖だ。プライドが邪魔して冷静でいられなかった」
「謝ることないよ」と俺は即座にいたわりの言葉をかけた。「若さや女を売り物にして読者を獲得するのがどうしても許せなかったんだろ? 高瀬は小説に真剣に向き合っていた。それなのにこんな取引を持ちかけられたら、腹が立って当然だよ」
「でもさ、惜しいことしたよねぇ? 副賞とそれから印税で、いくら稼げただろう?」
「もしかして、取引に応じなかったことを後悔してるのか?」
「時間が経てば経つほど」高瀬は否定しなかった。「今から四谷に戻って、『がんばります』って言ってこようかな」
「いや、もう遅いでしょ」
「ビジネスとして私が割り切っちゃえばいいだけの話じゃない?」
「何言ってるんだよ」
俺はブランコから降りて高瀬の正面にまわった。
「いいか、考えてもみろよ。もし今回この提案を受け入れてビジュアルに頼った売り出し方をしちまったら、その事実はこの先ずっと高瀬についてまわるんだからな? 高瀬がようやく見つけた将来の夢はなんだ? 翻訳家になることだろ?
たとえ夢が叶って翻訳家になれたとしても、その事実がある以上、世間からは少なからず色眼鏡で見られるんだぞ? 『裏で何か取引があったんじゃないか』って勘繰られて、どんなに優れた翻訳をしても正当な評価を得られないんだぞ? それは高瀬が望む未来なのか? 違うよな? 高瀬自身の未来のことを考えるなら、こんなふざけた提案は突っぱねて正解だよ」
「私の未来、か」彼女はため息まじりにつぶやく。「そこまで考えてなかった」
「とりあえず、お疲れさん」と俺は労をねぎらった。「初めてのチャレンジで最終選考まで残ったんだ。上々じゃないか。自信をもっていい」
「そう……だよね」高瀬はうなずく。「他にも賞金の出る新人賞はいっぱいあるし、また応募してみるよ」
「次もやっぱり『未来の君に、さよなら』で挑戦するのか?」
「そのつもりでいる」と彼女は答えた。「でも、ちょっとのあいだ、小説とは距離を置こうかな。編集者さんも言っていたけどさ、小説を書くうえで私には決定的に何かが足りていないんだよ。その何かの正体を突き止めなきゃ、どこの賞に応募しても結果は同じだと思うし。だから小説は少しお休み。この夏は遊ぶ」
それがいい、と俺が賛同すると、遊ぶぞー! と高瀬は東京の空に宣言してブランコを再度漕ぎ始めた。
俺は老占い師がみちるさんに送ったという助言を思い出さずにはいられなかった。
「不完全な地図を持っているあなたの旅に、元々きちんとした一枚の地図を持っている者を同行させてはならない。行き先が不明瞭となり、旅は途中で頓挫してしまう――」
高瀬はきちんとした地図を持っている。俺は持っていない。
実際に現状では、俺が彼女の足手まといになってしまっている。
高瀬の夢の実現に俺は必要ない――。そんな声が頭をよぎる。




