第56話 地図なき航海の先に 1
「今日も暑くなるんだから、朝からしっかり食べておかないとバテるぞ?」
俺の東京滞在二日目の朝は、月島の機嫌を直すことから始まった。月島はふてくされていた。一階へ下りて皆と一緒に朝食をとるよう説得する俺とは目も合わせず、自室のベッドの上で体育座りしている。
「ゴハンなんかいらない」と月島は壁に向かって答えた。
「今朝のおかずはおまえの大好物の辛子明太子だってよ」と俺は彼女の背中に向かって言った。「おまえが帰省するっていうんで、わざわざお母さんが博多から取り寄せてくれたんだ」
「いらない」
俺はため息をついた。
「やっぱり、高瀬と柏木がここまで来たのが面白くないのか?」
月島は小さい背中を丸めた。愚問だ、とたぶん顔に書いてある。
俺はカーテンを開けて朝の光を部屋に取り込んだ。
「実家に帰ってきてまであの二人の顔を見ながらメシなんか食いたくないっていう気持ちもわかるけどさ、二人とも五日間はこっちにいるつもりだぞ。そのあいだずっとそうやってハンガーストライキみたいなことを続けるのかよ」
「なにさなにさ」と月島は小声で話し始めた。「たまには私が神沢とふたりきりになったっていいじゃない。たった五日間くらいなんだっていうのさ。高瀬さんや柏木は神沢と同じクラスなんだもん、私よりずっと一緒にいられる時間が長いでしょうが。東京に用があるならホテルに泊まればいいんだよ。なんでよりによってうちに来ちゃうのさ」
一階で柏木が笑っている。というか、馬鹿笑いしている。持ち前の人懐っこさを発揮して、早くもこの家に溶け込んでいるらしい。月島のぼやきは続いた。
「この五日のあいだに、神沢といろんなところに出掛けたり、美味しいものを食べたりするのを楽しみにしてたのにさ。あの二人が来たせいで何もかもパー。いいさいいさ。神様は高瀬さんや柏木の味方なんだ。うちの家族ですらああやってもう柏木と打ち解けちゃってる始末。私の味方なんてどこにもいないのさ」
「東京でおまえがしたかったこと、全部は無理にしても、時間を見つけてどれかひとつでも叶えるようにするから。それじゃあ、だめかな?」
「だめ」と彼女はきっぱり答えた。「高瀬さんと柏木を隅田川に蹴り落として、何事もなかったようにみっちり私に付き合ってくれなきゃ、イヤ」
「ムチャ言うなよ。なぁ、頼むから、機嫌を直してくれよ。せっかくの夏休みだぞ? 俺にできることならなんでもするから」
「じゃあ、墨田区役所に婚姻届を出してこい」
「18歳になってないから受理されないって」
俺が途方に暮れて窓の外の見慣れぬ風景をぼんやり眺めていると、階下から聞き慣れた甲高い声が聞こえてきた。
「悠介も月島もそろそろ下りてきなさいよ! あたしなんかもうゴハン三杯もおかわりしてんのよ!」
乾燥した笑い声が月島の口元から漏れる。
「柏木さんもああ言ってますんでね。私みたいな気難しい女にはおかまいなく、どうぞごゆるりと、朝ごはんを食べてきてくださいな」
お願いだからそっとしておいて、と彼女は抑揚のない声で付け足し、俺のこれ以上の説得を拒んだ。
言わずもがな月島家に生まれた娘は優里でも晴香でもなく涼である。
なのでその涼自身が部屋に籠もって出てこないとなると、俺としては肩身の狭さを感じずにはいられなかったのだが、黛みちるに会うべく外出しやすくなったのもまた事実だった。
「涼のことは私たちに任せて、みんなで東京見物でもしていらっしゃいよ」と京さんが気を使ってくれたのだ。涼があんな状態じゃ、うちに居たって悠介君たちは退屈でしょ、と。
とはいえ我々にはそれぞれ、物見遊山をするより先にやるべきことがある。
そんなわけで俺と柏木は代々木にある芸能事務所“voyageエンターテインメント”を、高瀬は四谷にある出版社を訪ねるため、三人で両国駅から総武線に乗り込んでいた。
「そっか。月島、けっこう凹んでるんだ。かわいそうに」柏木はいけしゃあしゃあと言って、つり革を持ち替えた。「で、正直、悠介的にはどうなの? あたしたちがこっちに来ない方がエンジョイできた?」
どう答えても俺には何の得もない質問だった。
「それにしても、この三人で東京にいるっていうのも、なんだか不思議な気分だよな。見ろよ、あのビルなんか、俺らの街の市役所の三倍はあるぞ」
「ごまかしたな」と柏木はもちろん見抜いた。
「ごまかしたね」と高瀬はもちろん確信した。
気まずいったらないので俺は話を逸らすことにした。
「それにしても柏木、すごいな。芸能事務所の人の目に留まるなんて」
「困っちゃうよねぇ」と柏木は俺の狙い通り悦に入った。「葉山君の話だと、あたしと会ってみたいって言ってくれた人って、これまで何十人もアイドルを発掘してきた敏腕スカウトなんだって。見る人が見ればわかっちゃうんだなぁ、才能って」
高瀬は白眼視するでもない。「それじゃあ今日の話次第では、晴香、アイドルになるかもしれないんだ?」
「まぁ、向こうが『どうしても』って頭を下げるなら、ないがしろにはできないでしょう? 現役女子高生アイドルとして華々しくデビュー。あらまぁ。悪くないわ」
夢見心地に浸る柏木を見ていると、ひとつの疑問が湧いた。
「仮にアイドルになったとして、高校はどうするんだよ?」
「へ?」
「へ? じゃないよ。鳴桜高校だよ。芸能事務所に所属してアイドル活動をするとなると、それはもう正真正銘、仕事だろ? 学費のためのアルバイトさえ校則で認めないうちの高校が、アイドル活動なんて許すわけないだろ」
柏木の顔が一瞬にして老け込んだように見えた。
「さてはおまえ、そこまで考えてなかったな?」
高瀬は苦笑する。
「アイドルだと、高校にばれないのはまず不可能だしね」
ここで俺は母校への恨み節か引退宣言(デビュー前だが)を聞くことになるだろうと予想していたので、「学校やめる」と柏木が真顔で言い切ったのには、心底驚いた。「アイドルとしてデビューするなら、あたし、高校をやめて東京で一人暮らしをはじめる。生半可な気持ちじゃ芸能活動なんかできないし」
高瀬も目を白黒させる。「ちょっと晴香。それ、本気で言ってるの?」
「本気本気」と柏木は言った。「だって『みんなの未来は俺がなんとかするから』って誰かさんが言ってたけど、一向になんとかなりそうな気配がないじゃん。だったらもう自分で自分の人生を切り開くしかないよね」
俺はふたりの顔を見ることができない。その誰かさんだってそれなりにがんばってると思うのだが。
♯ ♯ ♯
高瀬は四ッ谷駅で降り、俺たちは代々木駅で降りた。
”voyageエンターテインメント”の社屋は代々木駅から歩いて三分ほどのところにあった。それは五階建てのこぢんまりとしたいかにも実務的な性格を有したなんの遊び心もないビルで、芸能事務所というよりはむしろ生命保険会社の自社ビルのようだった。華やかなスターたちを支える裏方は、目立つことをあまり好まない人種なのかもしれない。
「ところで、悠介は何しにここまで来たの?」
柏木は手で真夏の日射しをさえぎり、ビルを見上げた。
“未来の君”の謎を解き明かしに来たんだ。正直にそれを“未来の君”に打ち明けるわけにはいかなかった。
「ちょっと野暮用があってな」
ここで「詳しく話しなさい」と迫られたら面倒だったが、柏木の関心はいつしかビルに向いていた。彼女は一階のロビーをしげしげ見つめ、何かを確信したように大きく目を見開いた。
「やっぱりそうだ! あれ、ハシリューだよ!」
「ハシリュー?」俺は混乱した。頭の中では日本史の教科書が開かれている。「なんで消費税が5%に上がった時の総理大臣が代々木の芸能事務所にいるんだよ?」
「何わけのわかんないこと言ってんの! 今の時代“ハシリュー”といえば、大橋隆之助に決まってるでしょうが。売り出し中の人気若手俳優!」
どちらかといえば大御所役者みたいな名前だなと思いながら俺も、ロビーを注視してみた。目鼻立ちのくっきりしたとびきりハンサムな青年が、パンツスーツ姿の女性と話しながら自動ドアを抜けてくる。大橋隆之助とそのマネージャーなのだろう。
大橋隆之助は背が高く色白で、ナチュラルなパーマと中立的な顔立ちが見事に調和していた。その端正なマスクで彼が星の数ほどの異性を虜にしてきたであろうことは、なんら想像に難くなかった。
「大橋さーん!」柏木は黄色い声を上げる。「いつもテレビの前で応援してまーす! がんばってくださーい!」
マネージャーは「彼には指一本触れさせない」と言わんばかりにすかさずハシリューを保護し、タクシーを止めて彼を車内に押し込んだ。それでもハシリューはタクシーの後部座席から柏木の姿を認めると、マネージャーの目を盗んでやさしく微笑みかけた。それは俺が男をやめたくなるくらいさわやかな笑みだった。その微笑みは当然の作用として、上京してまだ24時間も経たない乙女をうっとりさせた。
ハシリューを乗せたタクシーが見えなくなっても柏木はぼーっと立ち尽くしていた。
「おーい」と俺はそんな彼女に声をかけた。
柏木はやっと我に返ると、品定めするような目つきで俺の顔をくまなく見た。そしてこう嘆いた。
「大トロ寿司を食べた後にカッパ巻きは食べられないよなぁ」
俺は腹を立ててもよかった。「どういう意味だよ」
♯ ♯ ♯
ビルに入りロビーを進み受付でそれぞれの用件を話すと、俺は三階の応接室へ、柏木は二階のミニスタジオへ行くよう案内された。
「さすがのあたしも緊張してきたみたい」と柏木は言う。実際、身震いしている。
「なあ柏木」俺にはひとつ確認しておきたいことがあった。「もし本当にアイドルとして活動することになったら、あの話は、どうするつもりなんだ?」
「あの話? どの話?」
「居酒屋だよ。春に明るく話していたじゃないか。あたしの夢は決まった。悠介と一緒に居酒屋を経営することだ、って」
「へぇ、覚えていてくれたんだ」
「忘れるわけないだろ」忘れるわけ、ない。「いくらバイタリティのあるおまえでも、居酒屋の女将とアイドルの掛け持ちは現実的に考えてムリだろう?」
柏木は俺に背を向けて窓からしばらく代々木の街を眺めた。それからつぶやいた。
「その夢、白紙撤回しよっかな」
「それは」俺は慎重に口にすべき言葉を選んだ。「それは、アイドルを優先するということか?」
「あのね悠介」と柏木は振り返って言った。「これだけは言っておくよ。あたしがいつまでも待ってくれる”都合のいいオンナ”だと思っていたら、大間違いだからね。あたしにだってあたしの人生があるんだからね」
俺は何も言えなかった。柏木もこちらの言葉を求めていなかった。
「それじゃあまたあとで」と彼女はさっぱりした声で言い残し、駆け足でミニスタジオへ向かった。
ひとり残された俺はため息をついた。そして柏木の背中に心で声をかけた。おまえは都合のいい女なんかじゃない。なぜならおまえは俺の“未来の君”なんだから。




