第55話 それを人は悪と呼びます 4
背中に翼が生えていれば窓から夜空へ飛び立ってそのまま行方をくらますこともできたけれど、あいにく俺は天使でも悪魔でもないので、結局は二人が二階に上がってくるのをただ立ち尽くして待つしかなかった。
「あっ」柏木は俺を見つけるなり目を見開いた。「見て見て優里、悠介がいるよ!」
「本当だ!」高瀬は口に手を当てた。「”たまたま”って、こういうことを言うんだね」
俺はため息をついた。「君たち、そのわざとらしい芝居をやめなさい」
高瀬によれば、今日はもう夜も遅いし月島の祖父と父親は酔っ払って熟睡しているから、京さん以外の家族への挨拶は明日の朝食時にすることになったらしい。
二人は旅行用バッグを部屋の隅に置くと、月島のベッドに腰掛けてくつろいだ。一方俺と月島は居心地の悪さを隠せず、しきりに体を掻いたり髪を触ったりしていた。
「ねぇ優里。あたしたちが東京に着いてからここに来るまで、話しかけてきた男って何人いたっけ?」
「十人くらいじゃない?」高瀬はまんざらでもない様子だ。
柏木はデニムスカートから伸びる長い脚を組む。
「品川でラーメン奢ってくれたお兄さん、カッコ良かったよねぇ! 身長が190cmあってモデルみたいで」
「そうそう」高瀬の口元がゆるんだ。「日本人とイギリス人のハーフなんだってね。格好良いだけじゃなく、レディファーストもさりげなくできて素敵だった」
聞き捨てならなかった。放火犯と子捨て女のハイブリッドである俺は「おいおい」と口を挟んだ。「ちょっと良い男に声をかけられたからって、簡単についていくなよ。危ない奴だったらどうするんだ」
柏木は肩をすくめた。「大丈夫だって」
「本気で心配してるんだ」俺は眉をひそめた。「いいか、見てくれが良かろうがそうじゃなかろうが、気配りができようができまいが、頭の中では口に出すのも憚られるような際どいことを考えているのが男という生き物なんだぞ。二人共もうガキじゃないんだから、それくらいわかって行動しないと」
「つまり」高瀬は能面のような顔で俺を見ていた。「神沢君の中にも『とても口には出せないような考え』があって、月島さんと東京に来たということ?」
「そういうわけじゃないよ」と俺はどぎまぎして言った。「とにかく、ナンパしてきた誰かと、連絡先を交換したりしてないだろうな?」
「してませんって」柏木がいやに丁寧に答え、敷かれたままの布団に目を落とした。「恋人でもない女の子と一緒の部屋で寝ている悠介が思いつくようなやましいことは、あたしたち、なーんにもしていません」
高瀬がこれ以上顎を引けないというくらい深くうなずいたところで、ようやく月島が口を開いた。
「あのね、これだけは言っておくけど、神沢はちっとも悪くないから。私が神沢をムリヤリ東京まで連れてきたの。私にはこの店の後継ぎを高校卒業までに見つけるという大事な使命があるわけだけど、今はもう二年の夏でしょ? そろそろ一人くらい店を継いでくれそうな男の子を家族に会わせないと、私の顔が立たなかったんだよ。たとえ気休めだとしても家族を安心させたかったというのもある。そういう気苦労わかる? 老舗せんべい店に生まれた娘はいろいろと大変なのだよ。だから、神沢を責めるのは、お門違い」
「べつにはじめから悠介を責めるつもりなんかないけど?」柏木は髪を指にくるくる巻きつける。「だって誰とも付き合っていないんだもん。どんな娘とどこに行こうが悠介の自由じゃないの。いったい誰に悠介を責める権利があるの?」
俺の胃は痛んだ。そのつっけんどんな口調がすでに責めている、とは思っても口には出せない。
「そろそろ種明かししてよ」と月島は言った。「なんで今日、私と神沢が東京に――それも私の実家に――来ることがわかったの? 私たちはみんなの前で東京の”と”の字も出さなかったはずだし、旅行の準備だって、ばれないよう細心の注意を払って進めてきた。なのになんで?」
「きっかけは本当に些細なこと」
よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに柏木は急に早口になる。
「夏休みに入る一週間前あたりからなんか妙だったよ、悠介も月島も。悠介が体育のあとに食べようと思ってとっておいたきなこメロンパンをあたしが盗み食いしても悠介はあんまり怒らないし、月島に挨拶代わりの必殺カンチョーをお見舞いしても殺気のこもった視線を返してこないし。とにかくなんだかふたりとも、あたしに対して変に優しかった。さてはこいつらなにか隠してるなとあたしは直感した」
俺と月島はため息をついた。
「隠し事を暴くため、さっそくあたしは『夏休み中に勉強を教えてくれないかな』って悠介と月島に別々にお願いしました。するとふたりとも同じ日から同じ日まで都合がつかないって言うじゃないですか。五日間。さて高瀬さん。この一致は、たまたまなんでしょうか?」
「より詳しい調査が求められるところですね」と高瀬は聞き手の役割を忠実にこなした。
「詳しい調査、しましたよ。悠介君。あなた、ここ数日スーパーでの食料品の買い物を控えていましたね?」
たしかに控えていた。真夏に五日間も家を空けるとなれば食べ物が傷んでしまうからだ。俺は渋々うなずいた。
「月島さん。あなた、新しいキャリーケースを購入しましたね? 五日分くらいの着替えが入りそうなのを」
月島は唇を噛んでうなずいた。
「これだけ情報が揃えば、秘密を暴くのはもう難しいことじゃないですね。夏休みのあいだの五日間、悠介と月島はふたりだけでどこか遠いところへ行く。どこへ行く? そういえば春のお花見の日に月島は『夏に実家に帰る』的なことを言っていた。はい調査終了」
皮肉のひとつくらい言ってやりたかった。
「その探究心と思考力を学業に注げば、おまえの人生はもっと豊かになるのにな」
「しかし君たちも暇人だねぇ」と月島は言った。「私を妨害するために飛行機に乗ってわざわざこうして東京までやってくるんだから。貴重な高校二年の夏休みだよ? 他にやることないわけ?」
それに反応したのは高瀬だった。
「月島さん、なんか勘違いしてる。どっちにしろ私たちには、東京に来なきゃいけない理由があったの」
「東京に来なきゃいけない理由?」俺は思わず復唱した。
柏木はうなずいた。「あたしにはあたしの理由。優里には優里の理由」
「伺いましょう」と月島は言った。
先に答えたのは高瀬だ。
「これは月島さんには初めて話すね。実は私、小説を書いていて、完成した作品を新人賞に応募していたの」
高瀬が執筆していた小説――それは『未来の君に、さよなら』のリライト版に他ならない。俺は耳をすまして次の言葉を待った。
「今は選考中なんだけど、その新人賞を主催している出版社の担当さんから私に連絡があって、『会って直接話したいことがある。もし時間が許すなら本社まで来てくれないか』って言うの。それで私は親にもきちんと本当のことを話して、本社のある東京に行くことにしたんだ」
俺は出版業界の事情に精通しているわけじゃないけれど、常識的に考えて、新人賞に落ちた旨を当人に面と向かって言い渡すなんてことはあり得ないはずだった。何百何千という玉石混淆の応募作の中から少数の光るものと多数のそうでないものに選り分けるのが新人賞の選考なのだ。多数の落選者をひとりひとり呼び立てていたらそれこそきりがない。
となれば、高瀬を敢えて呼び出した出版社には、それ相応の前向きな意図があると推し量れる。これは期待していいのかもしれない。
「高瀬さんが小説を、ねぇ」月島は前髪を払う。「で、出版社の担当とは、いつ会う約束をしているの?」
「明日の午前中。だから、今の時点でけっこうドキドキしてる」
「それじゃあ寝坊するといけないし、そろそろ寝る準備をしよっか」と月島は言った。
「そうだね」と高瀬は言った。
「待て待て待て」柏木はふたりのあいだの空間を手刀で切る。「そういうお笑いのノリは要らないから。寝るのはあたしの理由を聞いてからにしなさい」
月島は目をこすった。「手短にお願いね」
柏木は目を輝かせた。「去年の夏休み、あたしたちはバンドを組んで夏フェスの舞台に立ったじゃない? 元いたバンドから除け者にされた憐れな葉山君を助けるために。
その葉山君が言うには、なんでも、たまたまフェスの映像を見ていた東京の芸能プロダクションのお偉いさんがあたしのことを気に入っちゃったんだって! 『このボーカルの娘は原石だ!』って。それで葉山君経由であたしに連絡してきて、一度会ってみたいって言うの。もうジッシツ的にスカウトだよね、これ。
あたしとしてはそりゃあもう、来るしかないでしょ東京へ。諸君。あたしのサインをもらっておくなら、今のうちだよん?」
脳天気に高笑いする柏木とは対照的に、俺は妙な胸騒ぎを感じていた。その胸のざわめきは芸能事務所の名前を尋ねるよう命じてくる。俺は指示に従って柏木に質問した。彼女はボエ、ボア、ボイ……と言い淀み、結局は事務所の名前を記した紙を俺に手渡した。紙を見た途端、俺は愕然とした。
そこには「voyageエンターテインメント」とあった。それは他でもなく、俺がこうして東京に来てまで話を聞きたかった人物・黛みちるが勤めている会社だった。
例によってなにかしら面倒なことが起きそうな予感がする。