第55話 それを人は悪と呼びます 3
時刻は夜の11時をまわり、俺と月島は二階の彼女の部屋で横になっていた。
我々は高校案内のパンフレットで青空に向けてジャンプしているような健全かつ純真な青少年であるので、もちろん寝床を共にするわけにはいかない。
よってシングルベッドでは部屋の主である月島が、その隣に敷かれた布団では俺が、長旅の疲れを癒していた。
「さて神沢君。すっかり夜も更けましたが、東京滞在一日目はいかがでしたか?」
「いろいろありすぎて、正直混乱してる」と俺は正直に答えた。
「あはは。無理もないか」
「ただ、月島涼という人間の見え方が変わったのは間違いない」と俺は言った。「どうやら俺はこれまで、おまえのことを誤解していたみたいだ。なんていうか、こう、どんな時も要領よく立ち回ってきたんだと思っていた。トラブルや災難とは無縁だと。でも実はおまえもけっこう苦労してたんだな」
「そうなんだよ」なぜか月島は嬉しそうに声を弾ませる。「こっちの小学校にいられなくなってキミの街に行ったら、今度は変態野郎に犯されそうになるし、まったく、踏んだり蹴ったりだよ。可哀想な月島さん。気の毒な涼ちゃん。どう? 今日一日で私の評価が上がった?」
「どうしたらこの流れで評価の話になるんだよ?」
「だってキミ、苦労している女の子が好きじゃない」
月島が薄運のお嬢様を思い浮かべているのは明白だった。
「あのな。言っておくけど、俺はべつに苦労しているからっていう理由で高瀬に惚れたんじゃないぞ」
「それじゃあタカセヤの財産目当てか?」
「おまえの色は本当に澄んだ青かよ」
彼女はベッドでくすくす笑った。
「そういえば」と俺は言った。聞いておきたいことがひとつあった。「晩メシの時、俺には月島庵を継ぐつもりがないことを、おまえから家族の人たちに説明してくれたよな?」
「まぁそんなこともありましたね」
「あれはびっくりしたぞ。俺はてっきり、おまえも含む一家五人が連帯して俺を月島家に取り込もうとしてくると思っていたから。もしそうなったら五対一だろ? こっちは分が悪いなんてもんじゃない。勢いにのまれた俺は、『任せてください』とでも答えていたかもしれない」
「実を言うとね、あのあと、神沢がトイレに立った時とかに、うちの人たちはさんざん私を責めたの。『涼はいったいどこの娘なんだ』って。月島庵の娘だったら、涼も少しは説得にあたれというわけね。でも私には私の考えがあって、敢えて、家族とは別の立場をとることにしたの」
私の考え、と俺は思った。「というと?」
「私はね――」そこで月島は言葉を切って、一呼吸置いた。「これから私は、創業300年の老舗せんべい店に生まれた娘としてはあるまじきことを話す。だから神沢、約束して。絶対に口外無用ね」
「わかった、約束する」
月島はベッドの上でうなずき「私はね」と言い直した。「キミと一緒にいられるのなら、どんなかたちだっていいんだ。もちろん月島庵をふたりで切り盛りできるなら、それがいちばんいいよ? でも正直そうじゃなくても私は全然かまわない。神沢がサラリーマンで私が専業主婦。もしくは私が働いて神沢が家事をする。ふたりでラブホテルを経営する。サーカス団を立ち上げて世界中を旅して回る。新党を旗揚げして国政に乗り出す。とにかく本当になんだっていいんだ、私は。隣にキミさえいれば。
将来は獣医さんになりたいんだよね? それじゃあ私は動物看護師として不器用なセンセイをしっかり支えようかな。そして受付の若くて可愛い女の子に『人の旦那に色目を使わないでくれる?』って言いがかりをつけて困らせるのを生きがいにするの」
「やめてやれよ」と俺は言った。受付の子が不憫で仕方ない。
「泣かしてやる」と月島は冗談とも本気ともつかない調子で言った。「とにかく、私は、『私=月島庵』って神沢に思ってほしくないわけ。私とこの店を切り離して考えてほしいわけ。どういうことかわかる? もしキミが私のことを好きになってくれたとする。ソーリー高瀬グッバイ柏木、カモン月島。イエーイ。
でも、でもだよ? 『せんべい屋を継ぐのはどうしても俺はイヤだな。だからやっぱり高瀬か柏木にしよう』ってなったら、私としては、もうシャレにならないわけね。そうなったら私は、この忌々しい月島庵を焼き討ちするね。なにが300年の歴史だ。なにが伝統の味だ。なにゆえ私がたかがせんべいのために一度しかない自分の人生の幸せを手放さなきゃいかんのだ」
「幸せ」俺がその言葉を繰り返すと、彼女は体をこちらにほんのちょっとだけ寄せた。
「私のいちばんの幸せは月島庵がこの先もずっと存続することじゃない。キミと一緒に暮らして、夜はキミの隣で眠ることなの」
俺がなにも言えないでいると、彼女はベッドの上で何かを思い出したように手を叩いた。
「そうだ! そういえば小学校を転校した理由を最後まで話せたら、一緒の布団で寝るっていう話だった! 私はがんばって話せた。だから一緒に寝る」
言うが早いか月島は枕を持ってベッドから降り、こちらの布団にするする潜り込んできた。そして枕に頭を乗せ、俺の匂いを嗅いだ。
「うーん。幸せ」
まずいな、と俺は思った。月島とひとつの布団で寝て劣情を催さないわけがなかった。ましてや今夜は熱帯夜だから彼女はタンクトップにショートパンツという露出面の多い格好をしている。それに俺がいるのは東京であり今は夏休みだ。解放感だって少なからずある。これはあやまちを犯しかねない。16代目ができちゃうかもしれない。
俺の不安と期待と妄想を吹き飛ばしたのは、彼女の母親の声だった。京さんは一階から「涼!」と呼びかけていた。「まだ起きてる? もし寝てるなら起きてちょうだい!」
月島は慌てて布団から這い出ると、部屋の戸を開けた。
「ママ、どうしたの?」
階下の京さんは言った。「涼のお友達だという子が、玄関に来てるんだけど」
「トモダチ? 私の友達が来るわけないでしょ。今何時だと思ってるの?」
「でも……」京さんは困惑した声を出す。「お母さんには、嘘を言っているようには見えないわよ?」
「どこの誰だか知らないけど、怪しすぎるから、さっさと追い払っちゃって」
「あんた、なんてこと言うのよ。お友達に向かって」
「あのねママ。私の知り合いでこんな夜中に尋ねてくるような非常識な人はひとりも――」そこで月島は閉口し、髪をかき上げたまま固まった。彼女の心に浮かんでいる言葉を予想するのは難しくなかった。「ひとりだけ、いる」だ。そして気づけば、俺も固まっている。
「ひとりじゃないのよ」京さんは淡々とそう告げた。「二人組よ。どっちも女の子。涼の高校のお友達なんだって」
「終わった」と月島は独りごちて、力なく膝から崩れ落ちた。「私の高校二年の夏休みは、もう終わった」
「とりあえず、二人には上がってもらうわよ? 見たところ、悪い子たちじゃなさそうだし」
「ねぇ神沢」と月島は声を絞り出した。「お馬鹿さんの柏木はともかくとして、高瀬さんも一緒にいるわけでしょ? それでなんでこんな時間に人ん家に来るの? 高瀬さんもとうとう柏木に毒されておかしくなったの?」
「いや、そんなことはないと思うぞ」と俺は高瀬の名誉のために言って、彼女の視点に立ってみた。「二人が羽田に着いたのは、もっと早い時間だったんじゃないか? でも、ここに来る道中、柏木の『あれが見たいこれが食べたい』が発動したんだ。だからやむなく付き合った。柏木のわがままを聞いていたら、いつの間にか夜中の12時近くになっちまった。おおかた、そんなところだろう」
ほどなくして、一階がにぎやかになりはじめた。聞き覚えのある声がする。三人で会話している。一人は京さんで一人はどっかの高校の優等生でもう一人はどっかの高校の落ちこぼれだ。
招かれざる客の来訪は、この夏もこれまでの季節と同様、何事もなくすんなりとは決して終わらないことをバカンス気分の俺に教えていた。