第55話 それを人は悪と呼びます 1
「主な登場人物はみんな女」と月島は話し始めた。「とりあえず最初に覚えておいてもらわなきゃいけないのは、ユズっていう女の子。この子と私は幼稚園の頃から仲良しで、よくお互いの家に遊びに行ったりしていた。
ユズのお父さんは建築会社の社長。慈善活動に熱心であちこちに寄付をしていたということもあって、このあたりではそれなりに顔の知れた有名人なのね。もちろん家は豪邸。それも“大”のつく豪邸。避妊具メーカーの社長が女の子に『ナマでヤらせろ』ってムリヤリ迫るわけにはいかないのと同じように、建設会社の社長が掘っ建て小屋に住むわけにはいかないものね」
おまえ親御さんの前でなんちゅう例えを持ち出すんだ、と慌てふためく俺をよそに、彼女は平然と続けた。
「ユズは底抜けに明るい性格で、ルックスも良くて、誰に対しても自分の意見を物怖じせず言う子だった。勉強はお世辞にも得意とは言えなかったけど、それでも運動はそこらの男子よりできたし、歌やダンスのレッスンを受けていたせいか声はよく通って身のこなしもきびきびしていた。そんなわけで彼女は常にクラスの中心人物だったのね。ええと……キミはそういう女子を、うまくイメージできる?」
勉強はできないが他はハイグレードな女。身近にひとりだけ、その条件にあてはまる人物がいる。「柏木を思い浮かべればいいのかな?」
「似てないことはないけど」と言って月島は五秒ほど考え込んだ。「決定的に違うところがある。柏木は何もしなくても自然と人が寄ってくるでしょ? たぶんあの子には生まれつき人を引き付ける強い磁力みたいなものが備わってる。でもユズはそうじゃない。ユズは人の注目を集めるための努力をしていた。その努力をちょっとでも怠れば彼女は磁力を発揮することができなかったの。今思えば、歌やダンスもその努力の一環だったんだろうね」
できるだけ目立たないように息を潜めるようにして生きている俺には、そうまでして周囲の関心を得たいユズの気持ちはおよそ理解できなかった。もっとも、ユズにしてみても俺のことは理解できないだろう。
俺は言った。「とにかくスズ・ユズは仲良しコンビだった」
月島は空笑いした。「すんばらしい。お利口さん。よく過去形にしました。まあ、なんとなくわかるよね。そのコンビのあいだに何かがあったということくらいは」
その何かが起きたのは小学4年生の時だった。スズとユズは2年ぶりに同じクラスになり、ふたりはその喜びを分かちあった。ユズはクラスで中心的な立ち位置を――月島の表現を借りれば努力をして――獲得し、引っ込み思案なスズはそんな親友をほんのちょっとだけ羨ましく感じていた。
月島は言った。「うちの小学校は少人数教育を実践していたから、先生は各クラスに一人いれば充分だったんだけど、私たちのクラスには副担任が置かれることになったのね。新卒の女の先生。その副担任は視覚に障害があって、視力は人並み以上にあるんだけど、色の判別ができなかったの」そこで彼女は寿司桶を見やり、残っていたまぐろとたまごとイカを順番に指さした。「この三つのネタ、何色に見える?」
「赤、黄色、白」と俺は感じたままを答えた。
「だよね。でもね、その先生にはどれもほとんど同じ色に見えてしまうの。色の違いがわからないというのは、教師の仕事をするうえで――まぁどんな仕事でも多かれ少なかれそうだろうけど――大きなハンデだよね。
たとえば板書ひとつとっても、子どもたちにわかりやすいようにチョークの色をその都度工夫して使い分けたりするのは難しい。社会の授業でどうやってフランスとイタリアとアイルランドの国旗の違いやらその成り立ちを説明する? 図工の授業でどうやって子どもたちの書く絵の色使いを指導する? 考えられる困難は、挙げればきりがないよね」
「それでもその人は、小学校の先生になりたかったんだ?」
「障害があるからといって夢を諦めたくなかったんだって」
こういう話を聞くとちょっとやそっとのことじゃ弱音を吐けないな、と身が引き締まる。
「なるほど」と俺は言った。「それでその先生は、特別にまずは負担の少ない副担任として働くことになったわけだ」
月島はうなずいた。
「副担任はすぐにクラスの人気者になった。ほんわかとした雰囲気を持っていて可愛らしくて、とにかく人当たりが良かったの。なんて言えばわかりやすいかな。『うたのおねえさん』って感じ? 子ども向け番組でいるでしょ。いつもニコニコしていて決して闇を見せない人。実際ピアノはプロ級の腕前で、私たちのリクエストに応えて即興でどんな曲でも弾き語りしてくれた。休み時間や給食の時間になると、いつも副担任の争奪戦が繰り広げられた。そう、この先生も柏木と同じように、生まれながらに人を引き付ける強力な磁力を備えていたの」
トラブルの匂いが漂ってきた。
「となると、心中穏やかじゃないのがいるな、ひとりだけ」
月島は満足そうに口元を緩めた。
「いくらなんでもあからさまに副担任に反抗的な態度をとるような真似はしなかったけれど、ユズは私にだけ不満をこぼしはじめた。最初のうちは『あの先生算数教えるのヘタだよね』とか『もう少しハキハキ喋れないかな』とか、同じ児童として共感できないこともないような陰口がほとんどだった。でも、クラスの関心がユズから副担任に移っていくにつれて、『あのシャツにあのチノパンを合わせるのは色がわからないから?』っていう風に、それは差別的な傾向を帯びるようになっていった。
自分のポジションを奪った人間に対する妬みが――いや、もっと踏み込んだ言い方をすれば、自分が努力をしてやっと掴んだものを苦もなく手中にしている人間に対する憎しみが――ユズ自身も制御できないほど大きくなっているのは、私の目には明らかだった」
俺にはひとつだけ確認しておきたいことがあった。
「おまえはその副担任のことをどう思っていたんだ?」
「私はべつに嫌いじゃなかったよ」と彼女は即答した。「かといって進んで近寄りもしなかったけど。これは本当に偶然なんだけど、副担任は教師になる前からうちのせんべいのファンだったらしくて、『あの月島庵の娘さんなのね』って言って、私をかわいがってくれたの。もちろんえこひいきにならない範囲で。そんな人を嫌いになる理由がないでしょ?」
スズの親友のユズがハンディキャップのある副担任に強い敵意を抱いていた。それがどうしてスズの不幸につながるのだろう? 起承転結でいえば“転”がこの先にあるはずだ。文字通り月島を転校に追い込んだ“転”だ。
俺は集中して耳を傾ける。
「事件は運動会を目前にした秋に起こった」と月島は言った。「私たちの小学校の運動会では慣例として、応援団の児童だけじゃなく、その年に新しく着任した先生も応援合戦に参加することになっていたの。応援合戦って、わかる?」
俺は胸の前で腕を振った。「”フレーフレー赤組”ってやつだろ?」
「おそろしく覇気のない応援団だな」
「悪かったな」
「話を戻すね」と月島は俺の文句を聞き流した。「もちろん私たちの副担任も新卒だから応援合戦に加わるわけだけど、当の本人は張り切って放課後の練習に参加していた。色の見え方が人と違うからといって特別扱いされなかったのが嬉しかったのかな。私たちは青組だから青組の応援練習ね。教室内での話題はもっぱら、副担任が本番でどんな応援を披露するのか、そのことばかりだった」
そんな状況にユズは鬱憤を募らせていった、と俺は頭で付け足した。
「運動会の前日。帰りのホームルームに現れた担任と副担任はいつになく険しい表情をしていた。担任も女ね。五十代のベテランで決して悪い人ではないんだけど、なんだかいつも何かに苛立っているみたいにむすっとした顔をして、そのうえ尋常じゃなく厳格だったから、子どもたちにはあまり好かれていなかった。担任は黒縁メガネのレンズの向こうでまぶたをぴくつかせていた。何かただならぬことが持ち上がったと私たちはすぐに察した。『正直に名乗り出なさい』。それが担任の第一声だった。そして手にはノートを持っていた」
「ノート?」と俺は聞き返した。
「ああ、説明が遅れたね。副担任は授業中に気づいたことや反省点なんかを大学ノートに書き記していたの。障害を持ちながらも小学校の先生として生きていく術を記録していたのね」
「教師の鑑だ」俺はうなずいて、話の続きを促した。
「『いったい誰がこんなひどいことをしたんですか!』。担任はノートを掲げて、正直に名乗り出なさいと繰り返した。ノートには張り紙がしてあって、そこにはこう書かれていたの。『空の青さも海の青さもわからない人が青組の応援をしないでください」
「むごいな」
「むごいよな」と月島は言った。
十分経っても二十分経っても副担任のノートに張り紙をした犯人は名乗り出なかった。担任としても事態が事態だけに「今回は大目に見ましょう」と看過するわけにはいかず、ホームルームは我慢比べの様相を呈してきた。
沈黙が三十分続いてあくびをする児童もちらほら出てきたところで、担任はついに伝家の宝刀を抜いた。「誰がやったかわかるまで皆さん帰しません」という例のやつだ。もちろん子どもたちはそれを聞いてうんざりした。担任は一度言い出したら後に引かない強情な性格であることを知っている。四十分が過ぎた。「いいかげんに名乗り出ろよ」「やったのは○○じゃないのか」というような声もぽつぽつと出始めた。クラスの誰もが疑心暗鬼になっていた。
ただ二人――犯人とスズを除いては。
スズは親友の横顔を見つめながらこう思った。ユズは憎しみを抑えられなかったんだ、と。
「ユズはしれっとしていた」と月島はその時のことを回想した。「あまりにも平然としていて、私は犯人が他にいる可能性も考えなきゃいけなかったくらい。ユズは表向きは副担任と仲良くしていたから、みんなの疑いの目が彼女に向くことはなかった。ただ私は見てしまった。ショックからか副担任が目眩を起こして足元が覚束なくなった時、ユズの顔にうっすら笑みが浮かんだのを」
先にしびれを切らしたのは担任の方だった。彼女は本格的な犯人の割り出しに着手した。副担任の証言によれば、昼休みの時点ではまだそのノートはどこにでもある何の変哲もない大学ノートだった。私が張り紙に気づいたのは午後の授業が終わった直後ですと彼女は泣き出しそうな声で言った。
その日の午後の授業は選択制で、担任・副担任を含めた全員が教室の外に出払っていた。しかしながらノートだけは副担任の机の中にあった。つまり午後の授業中に確実なアリバイのない人物が容疑者ということになる。誰かが犯行に及ぶため教室に戻ったのだ。
スズの予想通り、ユズにはアリバイがなかった。活発なユズは体育を選択していた。同じく体育を選んでいた他の児童が口を揃えて言うには、ユズはキックベースボールの試合中に体調不良を訴えて10分ほど体育館から姿を消したとのことだった。
ユズ本人もそれを認めた。またその10分のあいだに誰とも会っていないことも彼女は打ち明けた。ただし事件への関与は、強い口調とシリアスな表情で一貫して否定した。その気迫たるや、「体調が思わしくないのにどうして保健室に行かなかったの?」という疑問を担任が喉の奥へ引っ込めざるを得ないほどすさまじいものだった。
「クラスにはユズの他にもう一人、アリバイが確保できない児童がいたの」月島はそう話して、俺を試すように間を設けた。
「まさか」唾を飲み、隣を見る。正解、と彼女は言った。
「私が選択していたのは家庭科。あの日は調理実習で、クッキーを作ることになっていた。どんなクッキーにするかはそれぞれの班に委ねられていて、私たちの班はチョコクッキーを作ろうと前もって決めていたのね。A子ちゃんは薄力粉、B子ちゃんは卵って感じでみんなで材料を持ち寄ることも。それで私の担当はチョコだったんだけど、いざ調理が始まったところで肝心のチョコを教室に置き忘れてきたことに私は気づいたの。私は慌ててチョコを取りに教室まで戻った」
「ひとりで?」俺の顔は引きつった。
月島はうなずいた。「家庭科室と教室を往復しただけだからせいぜい5分くらいだけど、その間私はひとりだった。アリバイがあるかないかと聞かれれば、まあ、ないよね。さらに都合が悪いことに、私はユズとは違って、『教室に戻っている』という事実があるの」
「ついてない」
「まったくだ」月島は自嘲するように口の端を歪めた。「こうして浮かび上がった容疑者二人を担任は席から立たせた。我慢比べ第2ラウンドだ。私はユズの様子をちらちら窺っていたけれど、逆にユズは決してこっちを見なかった。なんだかもう二度と私と目を合わせないと決意を固めたみたいだった。教室の外が急に騒がしくなりだしたのは、私たちが立たされて一時間が経った頃。
見ればいかにも高そうなスーツを着た男の人を校長と教頭が必死になだめている。スーツ男は校長たちの制止を振り切って教室に入ってきた。担任はあらかじめ各家庭に『今日はこういう事情で子どもの帰りが遅くなる』とメールで伝えていたんだけど、それを知ったユズのお父さんが怒鳴り込んできたのね。『うちの娘にかぎってそんなことするわけないだろう!』って」
”親馬鹿”という言葉の適切な解説文を思いつけない辞書の編集者がもしいるなら聞かせてやりたい話だ。呆れるのを通り越して可笑しくなってくる。
月島は続けた。「担任はユズにはアリバイがないことを父親に言った。そしたら父親は血相を変えてこう切り返した。『その時ユズは自分と電話で話をしていた。だからユズは犯人じゃない!』って」
「めちゃくちゃだ」
「めちゃくちゃだよ」月島は肩をすくめる。「ツッコミどころが多すぎる。でもね、ユズのお父さんは有名人でしょ? あちこちに多額の寄付をしてるでしょ? 発言力も影響力もそんじょそこらの父兄とは比べものにならないほど大きいの。だから担任としても無下に扱えなかったの」
「保身か」と俺はつぶやいた。
「担任も家族を養っていたし」と言って月島は膝を抱え、体育座りをした。「とにかく、ユズパパのその発言は教室のムードを一変させた。気がつけば犯人は月島だという雰囲気になっていた。IQ180の天才少年探偵がクラスにいれば『ちょっと待った』と私の無実を証明してくれたかもしれないけど、そんなスーパー小学生がいるのはあいにく漫画かアニメの世界なのよねぇ。そんなわけで副担任のノートにえげつない張り紙をした犯人は私という審判が下りましたとさ。めでたしめでたし」




