第54話 相棒が生きていた証を残すためにも 3
「紹介するのが遅くなっちゃったけど、同級生の神沢悠介君です。パチパチパチ」
暑さがさっぱりひかない午後7時過ぎ、俺は一階の居間で月島家のご家族と対面している。俺に対する歓迎度の高さは、広い座卓に所狭しと並べられた豪勢な料理の数々が物語っていた。
座卓の中央ではいかにも高級そうな寿司が競い合うように輝きを放ち、その隣ではやはりいかにも高級そうな牛肉が鍋の中でぐつぐつ良い具合に煮えていた。
あまりにも豪勢な晩餐は俺の表情をこわばらせたけれど、左隣から月島が「黙ってないで何かしゃべって」という風に脇腹を小突いてくるので、どうにかして笑みを浮かべた。
「ええと」とぎこちなく口を開く。「ただいま涼さんのご紹介に与りました、神沢悠介と申します。これから数日間、よろしくお願いします。平素より涼さんには本当にお世話になっておりまして――」
「リラックスリラックス!」月島の祖父が両肩をぐるぐる回して俺の言葉をさえぎった。「あのな悠介。結婚式でジョークのひとつもまともに言えん小男のスピーチみたいなもんはおまえさんに求めておらん! 悠介! ここをマイホームだと思って、くつろいじゃってオーケイだ!」
向かいの席であぐらをかいてくつろいじゃっている祖父は、昼間と同じようにアロハシャツこそ着てはいたが、さすがにカウボーイハットは脱いでいた。
剥き出しになった頭にはうぶ毛の一本も残されていなかった。見事な禿げ頭だった。しかしそれでも彼がどこか若々しい印象を人に与えるのは、横文字を多用する口ぶりと派手なアロハシャツのせいだろう。血色も良い。そして孫娘と同じように頭の形も良い。
「お話はおいおいするとして、まずは食べましょうよ」月島の母親がそう提案すると、父親も「肉が硬くなるといけない」と続いて瓶ビールを開栓した。
そのようにして東京一日目の夕食は始まった。
順番は前後するけれども、祖父が「ここをマイホームだと思って」と言った時に月島以外の面々がいっせいに深くうなずいたのを俺は見逃していなかった。まるであらかじめそうするのを示し合わせていたかのようだ。
本気だな、と俺は思った。彼らはこの場所を本気で俺のマイホームにするつもりなのだ。
目の前のごちそうに浮かれて迂闊なことを口走ったりしないよう、俺は気持ちを引き締めた。めったに食べる機会のない本場の江戸前寿司だからといって、舌鼓を打っている場合ではない。
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「いやあ、中トロやアワビも絶品でしたが、こっちも最高ですね。なんていうネタなんですか?」
寿司はすこぶる美味かった。ほっぺたが落ちそうだという常套句を聞く度、それは大袈裟すぎやしないかと冷笑していたが、俺が間違っていた。この世には本当に存在するのだ。ほっぺたが落ちそうなほど美味いものが。
「へぇ」質問に反応したのは月島の父親だ。「シンコの味がわかるなんて、悠介君もなかなか通だね」
聞き覚えがなかった。「シンコ?」
「出世魚で、もう少し大きくなるとコハダと呼ぶのよ」
母親が引き継いだ。どうりで美味しいはずだ、と知ったかぶりをしつつ俺は、この中年夫婦の顔を覚えようと努めた。けれども二人にはこれといった外見的特徴がなく、明日の朝にはどんな顔だったか思い出せそうになかった。
大型スーパーの衣料品売り場のチラシでこういうタイプの顔をよく見る。モデルになるくらいなのだから容姿は決して悪くないのだが、見る者の記憶にはなぜかほとんど残らない。
なにはともあれ、若き日の彼らが互いに惹かれ合ったから、一度見たら忘れられないほど多くの特徴を備えた美人がこの世に生を受けたわけだ。そしてこうして俺が不覚にも老舗せんべい店に取り込まれつつあるわけだ。
「ねぇパパ」と無特徴なご両親から生まれて17歳になった娘は言った。
「あの趣味、まだ続けてるの?」
「参ったなぁ」父親はばつが悪そうに首をかく。「悠介君にはあまり知られたくなかったんだけどな」
座卓の向こうで祖父がガハハと豪快に笑った。
「こいつはな、女の尻ばかり追いかけておるんだ」
「ああひどいなぁ。そんな言い方ないじゃないですか、お義父さん」たじたじになりながらも父親は、悠介君、僕はね、と自身の趣味を語りだした。「アイドルが好きなんだよ。若い頃は追っかけもやっていたくらいの筋金入りのアイドル好きさ。今はライブや握手会に行くのが精一杯だけど。そういうわけで、アイドルのことならなんでも聞いてくれてかまわないからね!」
「アイドル、ですか」
「アイドルだよ」
「はぁ」あいにく聞くことなんてなかった。
「ひとつお願いがあるんだけど」とアイドル好きは言った。「悠介君、僕にビールを注いでくれないかな?」
すかさず母親が口を挟む。
「あなた、よしなさいって。未成年の子にそんなこと頼んじゃだめでしょう?」
「いいんですよ」と俺は双方のメンツを立てるようにやんわり言った。めったに食べる機会のない本場の江戸前寿司を腹一杯食べられることを考えれば、それくらいお安い御用だ。ビールの瓶を持ち、腰を浮かせて、お酌をした。我ながら如才のない酌だった。
「すごいじゃないか。ビールと泡の比率が完璧だ」父親は喉を鳴らして飲む。「うん、うまい!」
「あのねパパ。神沢は、居酒屋でアルバイトをしているの」
そのなにげない月島の説明は、どういうわけか祖母の逆鱗に触れたようだった。
「これ、涼! 男の人を苗字で呼び捨てにするとは何事ですか! ごめんなさいね、悠介さん。涼にはあたしからあとで厳しく言っておきますから」
悠介さん。今さら月島にそう呼ばれてもかえってくすぐったいものがあるが、それを言い出せるような雰囲気でもない。普段は誰に何を言われても鼻であしらう月島も、今だけは神妙な顔つきで控えている。俺はいまいち状況が飲み込めずきょとんとしていた。そんな俺に声をかけたのは母親だった。
「悠介君、びっくりしたでしょ? おばあちゃんはね、『男の人を立てろ』って子どもの頃から躾けられてきたから、私や涼がちょっとでも男性に失礼な言動をとると今みたいに怒るの。もうそんな時代じゃないのに。おばあちゃんは古いのよ」
「あんたはまたすぐそうやって年寄りを馬鹿にして。まったく、親の顔が見てみたいね」祖母は自嘲気味につぶやくと、あらあらオサムさんビールがないじゃない、と言って娘婿のためにかいがいしく台所へ向かった。
この家に来る前、「ばあさんは私には厳しいけど神沢に厳しく接することはあり得ない」と月島が言っていたが、なるほど、その時彼女はまさにこういう光景をイメージしていたのだろう。そして月島の父親はオサムという名前らしい。俺はオサムを頭でいろんな漢字に変換した。区役所で治水を担当しているだけに治かな? と安直な発想が浮かび、口に出してみた。それがまずかった。
月島に尋ねたつもりだったのに、オサムさん本人が「よくわかったねぇ!」と興奮してしまい、それから自分がいかに墨田区民の平穏な暮らしに寄与しているかを、まさに水を得た魚のように滔々と語った。
俺は4パターンくらいの相づちを順番に打ち、寿司を堪能しながら時間が過ぎるのを待った。手持ちぶさたになるとビールを注いであげた。
すると見るに見かねたのか母親が治さんの熱弁を遮った。
「あなた、酔っ払ってひとりでべらべら喋らないの。悠介君が困ってるじゃない」
そんなことないですよ、と俺が良い子ぶるより先に治さんが言い返した。
「なんだよー。今日はずいぶん突っかかってくるなぁ。ちょっとくらい羽目を外したっていいじゃないか。僕だって涼や悠介君と会えるのをずっと楽しみにしていたんだから」
母親はあからさまに苛立っていた。
「だいたい、恥ずかしくないんですか。いい年をして自分の娘と同じ歳くらいのアイドルに夢中になって。よくこのふたりの前で『アイドルのことならなんでも聞いて』なんて言えますね?」
「別にいいじゃないかよ!」と治さんはムキになった。「人がどんな趣味を持とうが、人の勝手だろう? 僕は実際に彼女たちから元気をもらって、それで毎日の仕事をがんばれるんだ。別にやましいことはしてないわけだし、君にとやかく言われる筋合いはないよ。お義父さんとお義母さんからもなんとか言ってやってくださいよ」
祖父はうなずいた。「何をカリカリしとるんだ。夜風に当たってリフレッシュしてきたらどうだ?」
祖母も続いた。「治さんは立派に区役所でお勤めをしているんです。文句を言ってたらバチが当たりますよ」
「そもそもあなたがお店を継いでくれれば――」母親はそこまでつぶやくと、横目でこちらを見て咳払いし、口をつぐんだ。彼女が心の中で続けたであろう台詞を想像するのは難しくなかった。
まだ高校生の涼にお婿さんを探すよう頼む必要もなかったのに、だ。
後継者問題はこの一家にとって切実なのだな、と俺は痛感する。
相変わらず暑がっている俺のために月島の祖母が窓を開け放ってくれたけど、ぎくしゃくした空気までは外に出ていかなかった。
祖父と治さんは重いムードを嫌ったのか、いつしかテレビで野球中継を観戦していた。ふたりは応援している東京の球団に点が入るたび歓声を上げ、その都度月島の母親は面白くなさそうに眉をひそめた。
「おい」と俺はたまらず隣の月島に耳打ちした。「なんか、すまんな」
「なんでキミが謝るの?」
「いや、俺がもう少し気の利いた受け答えをしていたら、こうはならなかったかもしれないだろ?」
「そういうのを結果論というのだよ」
「はぁ」
「ここに来る前も言ったけど、ママもパパも驚くほど普通の人なんだって」月島はさらに声のボリュームを絞った。「ママは酔って悪乗りする旦那さんをお客さんに見せたくない。世間一般の女と同じように見栄っ張りなのね。パパも妻に言い負かされる姿をお客さんに見せたくない。世間一般の男と同じように格好つけなのね」
思い当たる”お客さん”は一人しかいなかった。「やっぱり俺のせいじゃないか」
「なんか、すまんな」と月島は誰かの真似をして言った。
そこで会話は途切れたけれど、俺としては誰かと喋っている方が気が楽だった。相手は月島しかいない。手頃な話題を探す。祖母が「ミヤコ、お醤油を取ってちょうだい」と言うのを聞いて、これだ、と膝を打った。
「なあ月島。お母さんは、ミヤコさんっていうのか?」
「漢字一文字でね」と彼女は答えた。
「都市の都?」
「そっちじゃなくて、もうひとつあるでしょ」
「なるほど」俺はうなずく。「京都の京だ」
「東京の京、と言え」
怒るポイントがよくわからない都会っ子を尻目に俺は、治さん、京さん、お願いですから仲直りしてくださいと念じた。あいにくその祈りは届かなかったけれど、話のネタは見つかった。
「月島。おまえの名前の秘密に俺は気づいたぞ」
「名前の秘密?」
「涼っていう名前はご両親の名前が合わさって出来ているんだな」俺は手の平に指で涼の字を書いて本人に見せた。「ほら、治からはさんずいを、ミヤコさんの京はそのまま使って涼だろ?」
「ああっ!」と月島は柄でもなく素っ頓狂な声を上げた。「本当だ! 今まで考えたこともなかった!」
「えぇ?」俺は困惑する。
「ねぇママパパ!」と月島はそのままの語勢で呼びかけた。「私の名前に、ふたりの名前が入ってるって知ってた?」
彼らはまずぽかんとして、それから俺がそうしたように手の平に”涼”の字を書いた。
「本当だ!」と治さんは娘と同じことを言った。
「考えたこともなかった」と京さんは娘と同じことを言った。
「えぇ?」と娘は困惑した。「それじゃあ、偶然?」
「なんとなく、だよなぁ?」
「なんとなく、よねぇ」京さんはうなずく。「ママとパパが辞書を見ていて、『あ、この字いいよね』ってなってそれで決まり。書きやすいし」
そこで、どあっふぁっふぁ! と祖父は豪快に笑ってから、娘夫婦を交互に見た。
「おまえたち。つまらん意地を張ってないで、これを機に仲直りせんか。辞書を見ていて“涼”の字が目に留まったのはきっと、互いの良いところを受け継いで生まれてきてほしいと心のどこかで願っていたからだ。その願い通り、涼はこうして立派に成長したじゃないか。おまえたちは恵まれた夫婦なんだぞ」
「ごめんね」も握手もなかったけれど、彼らからわだかまりが消えたことは、表情を見れば明らかだった。治さんは父親の、京さんは母親の顔になっていた。
「それにしても涼。よく名前のことに気づいたな」
そう言ったのは祖父だ。彼はグッジョブとでも言いたげに片目をつむって親指を立てる。
「この話題にならなければ、ママとパパはずっと口をきかんかったかもしれんぞ?」
祖母がすかさず手を振った。
「あなた。涼じゃないんですよ。名前のことに気づいたのは、悠介さんなんですよ」
「なんと!」と祖父はおったまげた。「悠介だったのか! でかした。お手柄だ! グレイトだ! もはや悠介は、月島家になくてはならない存在だな!」
どあっふぁっふぁ、と笑う月島庵の大黒柱とうっかり目を合わせると、「よし、今からせんべいの焼き方を教えてやる。レッスン・ワンだ」とかなんとか言い出しかねない雰囲気があった。
なので俺は、視線を荒野のような禿げ頭からゆっくりテレビへ移した。野球の試合はすでに終わったらしく、ヒーローインタビューが行われている。アナウンサーの「初めてのお立ち台です」との呼びかけに「僕なんかがヒーローになっていいのかな」と移籍してきたばかりの選手は気まずそうに答えていた。
俺もまさに同じような心境だった。はからずも月島家の今日のヒーローになってしまった。
「悠介君、遠慮しないでいっぱい食べるのよ」と機嫌が直った京さんは言う。
「そうだよ。いっそ、ビールも飲んじゃう?」と治さんが言う。京さんは怒らない。
どうしたことだろう。
この一家のなかに早くも俺の居場所ができつつある。
居心地はそれほど悪くない。




