第53話 満開の桜を咲かせて 3
お読みいただきましてありがとうございます。
「第二学年・春」の物語、最終回です。
高瀬と競い合った期末テストが終わって数日が経ったある日の昼休み、俺は図書室の隅の席で読書に耽っていた。幽霊騒ぎは一件落着したものの、どうしてもひとつだけ腑に落ちない点があり、それを一学期中に解明してスッキリと夏休みを迎えたかったのだ。
手がかりらしい手がかりになかなか恵まれず、新しい本を持って自分の席に戻ったところで「ぎゃっ!」と俺は素っ頓狂な声を発し立ち上がった。
机の向こうから毒々しい色のカエルが跳ねてくれば、誰だって驚く。でもそれはよく見れば、精巧に作られたカエルのおもちゃだった。図書室中の視線が俺に突き刺さっていた。そして机の向こうには俺を驚かせた犯人がいた。
「ゲロゲーロ」と小声で言って月島はカエルのおもちゃを回収した。「図書室ではお静かに。少しは場所柄をわきまえないとね?」
面と向かって言い返すのも馬鹿馬鹿しかったので、俺は黙って着席し、持ってきた本を読み始めた。
「学校中探したんだよ」月島は向かいの席に座る。例によって悪びれる様子はない。「まさか図書室にいるとはね。どうした。読書に目覚めたか?」
「そんなんじゃねぇよ」俺は本を閉じて背表紙を月島に見せた。
「幽霊と民俗学」彼女は途端に青ざめる。
「俺たちが夜間捜査中に西階段で遭遇した嘆きの女生徒、あれは日比野さんの変装ではなかったから、実は本物の生霊なんじゃないかっていう話になっただろ? でも俺はやっぱり納得いかないんだよ。生霊だろうが死霊だろうが、俺は霊なんて信じないからな。あの夜、西階段に現れたのはいったい何者なのか。それを突き止めるまで俺の闘いは終わらない」
月島の端正な顔が歪む。「悪いことは言わないから、これ以上首を突っ込むのはやめなって。昔から『触らぬ神に祟りなし』とも言うわけでね。結果的に退学せずに済んだんだから、それでいいじゃない」
「おまえは気味悪く感じないのかよ? 毎日通う高校の一角に正体不明の女がいるんだぞ? 俺は嫌だね。おちおち自習もできん。それに万が一――あまり考えたくないけど――あれが本物の生霊だとするならば、お祓いなり除霊なりして、霊には去ってもらわなきゃいけないだろ」
「ゲロゲーロ。好きにしーろ」と月島は突き放すけれども、一向に席を立つ気配はなかった。どうやら彼女の用件を聞かないことには、調べ物は捗らなそうだ。
「それで、学校中を探し回ってくれたみたいだけど、俺に何の用だよ?」
「神沢のことが、好きなの」
「は?」
「嘘だよ」月島は咳払いする。「いや、嘘じゃないけど。……ええとね、今日は、これを渡しに来た」
月島が机の上に置いたのは、チケットのようなものだった。飛行機の絵が、書かれている。
「東京行きの航空券」と彼女は事務的に言った。「夏休みに私と一緒に実家へ来てもらうから」
「ちょっと待てよ」と俺はすかさず返した。「なんでそうなるんだよ?」
「ああ、言ってなかったっけ。花見の時に女四人で料理対決したでしょ。手作りのお弁当で。あの優勝者には、誰か一人に言うことを聞いてもらえる権利がプレゼントされるの。それを今こうして行使しているのです」
それでやけに四人とも熱が入っていたのか、と納得している場合じゃなかった。
「なんだよそれ。言っておくけどな、俺は将来的におまえの実家のせんべい屋を継ぐ気はないぞ。俺はモップの眠るこの街で獣医になると決めたんだ。だから――」
「図書室ではお静かに」と再びたしなめて彼女は俺の口を手でふさいだ。そして航空券を俺の制服の胸ポケットへ忍ばせると、カエルのおもちゃを回収して去って行った。
彼女のスマートな後ろ姿を眺めながら、俺はゲロゲーロと口に出してみた。あのカエルのいたずらが、嘔吐を伴う発作に打ち勝った男に対する月島流の祝福であることくらい、鈍感な俺だってわかっていた。
月島は決して悪い子ではないのだが……。ゲロゲーロ。
♯ ♯ ♯
図書室にあった幽霊関連の本を読み漁ってもまるで埒が明かなかったので、俺は当時の事情をよく知る松任谷先生に何か良い手立てがないか相談することにした。
俺の中では”困った時の松任谷先生頼み”は問題解決の切り札として定着しつつある。
松任谷先生はさんざん他の教師の悪口を言った後で「いっそのこと黛さん本人に会ってみればいい」と提案した。黛みちるというのが、20年前の生徒会が嘆きの女生徒のモデルとした女性の名前であるらしかった。
先生はさっそく彼女の家に電話をかけてくれた。残念ながら黛みちるさんはすでにこの街から離れていたが、彼女の母親でいいのなら話を聞かせてくれるということだった。先生は俺に確認するでもなく独断で面会の約束を取り付けてしまった。そうしてあれよあれよという間に俺は、黛先輩の実家へ向かうことになった。
黛先輩の実家の一軒家に着くと、俺は居間に通された。
なんだか無理矢理押しかけるようなかたちになってしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、「みちるの後輩さんとお話しできるなんて嬉しいわ」と先輩の母親が含みなく微笑んでくれたことで、俺はほっとして出されたカステラをいただいた。
先輩の母親は60代前半に見えた。白髪もなく皺も少ないので、もしかすると50代かもしれない。いずれにせよ、俺からすれば祖母でもおかしくない歳の人だ。そして難聴であるらしく、耳には補聴器をつけていた。
「みちるのことで聞きたいことがあるんですって?」と先輩の母親は言った。
ここで「実はですね、みちるさんの生霊が――」と切り出すのだけはいただけなかった。娘の生霊が校舎に棲み着いているかもしれないと聞いてどこの母親が良い気分になるだろう? 俺は慎重に言葉を選んだ。
「僕は訳あって、20年前に鳴桜高校で起きた事故のことを調べているんです。みちるさんが遭った事故です。当時交際していた男子生徒と一緒に階段から転落したのだと松任谷先生はおっしゃっていました。その件について、もう少し詳しく聞かせていただけますか?」
先輩の母親は両手の指を組んだ。「あれはみちるにとって忘れられない出来事でしょうね。天野君は――交際していた書道部の男の子ね――あの転落事故のせいで書道家になる夢を諦めなくてはいけなかったのだから」
「たしか天野さんは、書道の世界では将来を嘱望されていたんですよね?」
「そうよ。なにせ神童と呼ばれていたくらいなの。私も彼に会ったことがあるけれど、名声を鼻にかけるわけでもないし、礼儀は正しいし、おまけにハンサムで、娘の交際相手としては文句のつけようがなかったわね」
そこで先輩の母親は何かを思い出したように手を叩いて、隣の部屋に行った。居間に戻ってきた彼女が持っていたのは一枚のカラー写真だった。
「たしかこれは、遠足の時のものなんだけれど、みちると天野君が一緒に写っている唯一の写真よ。クラスの他の子たちも写っていてわかりにくいのはご愛敬ね」
その写真はどこかの川原で撮られていた。ジャージを着た十人ばかりの生徒たちがバーベキューの最中にあり、中央のコンロでは、肉や帆立やとうもろこしが焼かれている。
「右の方で睦まじく紙コップで乾杯している男女が天野君とみちるよ」
そう言って先輩の母親が写真を差し出してきたので、俺は会釈してそれを受け取り、注意深く全体を見てみた。
俺が驚いたのは――息が止まるほど驚いたのは――みちるさんが西階段にいた嘆きの女生徒に瓜二つだったからでも天野さんが童話の世界から抜け出してきた王子みたいな美男子だったからでもなく、母・有希子の顔がそこにあったからだった。写真の左隅で「何が悲しくてわざわざ外でご飯を食べなきゃいけないのよ」と言いたげな仏頂面をしている。
でもべらぼうに綺麗だ。仏頂面であってもべらぼうに綺麗な人なんてそうそうこの世にいるものじゃない。少なくとも俺は自分の母親以外でそんな人は高瀬しか知らない。すなわちそれは間違いなく母の高校時代の姿だった。もっとも今は北陸の地で別の子の母親をしているけど。
例の闘いがまた始まるかもしれない、と俺は喉に手をあてて警戒した。しかし結局何も起きなかった。どうやらもう完全に発作を克服したと考えていいらしい。モップ、ありがとう。俺は安堵して写真を観察し続けた。
やはり、と言うべきか、母以外の見知った顔もそこにはあった。彼女の隣で大きな肉の塊にかぶりつくガタイの良い少年は柏木恭一であり、甲斐甲斐しく火ばさみで炭を足す精悍な面構えの坊主頭は、高校球児だった高瀬父だろう。帆立の焼け具合をいかつい顔で確かめているのは現在俺が働く居酒屋「握り拳」のマスターだ。なんだか昔も今も同じようなことをしている。
「どうかしたの、難しい顔をして?」と先輩の母親は言った。
「なんでもありません」と答えて俺はぎこちなく笑った。
先輩の母親も微笑んだ。「おばけでも写っているのかと思って心配したわ」
写っていたのはおばけ以上に理解不能な自分の生みの親だが、さしあたってそれは伏せておいた方がよさそうだ。話がややこしくなる。
「みちるさんと天野さんの顔はわかりました」
俺は写真を一旦テーブルに置いた。
「二人は本当に仲が良さそうで、まさに理想のカップルといった感じですね」
「それがそうでもないのよ」と先輩の母親は言いにくそうに言った。「天野君はみちるのことを一途に好いてくれていたみたいだけど、みちるにはどうにも小さい頃から移り気なところがあってね。実は他にも気になる男の子がいたの」
「気になる男の子?」初耳だった。「それは誰なのかご存じですか?」
「私には名前は教えてくれなかったわね」先輩の母親は10秒ほど考え込んだ。「でも、おそらくその写真に写っている誰かじゃないかしら。遠足のような学校行事では、みちるは決まってここに写っている子たちと一緒に班を作っていたから」
俺は再び写真を手にとった。男子は天野さんを除けば柏木恭一、高瀬父、それからマスターの三人だ。すなわちこの中の誰かがみちるさんの乙女心をくすぐっていたことになる。
「みちるが言うにはね、そのもう一人の方もみちるに気がないわけではなかったらしいの。だから天野君とは良好な仲を保ちつつ、そっちの男の子ともそれなりに懇意にしていたみたいよ。それで『お母さん、私どうしたらいいんだろう』って真剣な顔で相談してくるものだから、私もさすがに呆れちゃってね。『せっかく鳴桜みたいな進学校にいるんだから、異性のことばっかり考えてないで、少しは勉強しなさい!』って叱ったものだわ」
これは俺も耳が痛いわけだが、それよりなにより、聞き逃してはいけなかったのは「もう一人の方もみちるに気がないわけではなかった」という情報だ。これはいったいどういうことだろう? 柏木恭一にしろ高瀬父にしろ、俺の母に心底惚れ込んでいたはずなのだが。恭一に至っては母と交際していたのだ。それともその誰かとはマスターなのだろうか?
いやそれはないな、と俺は即座に首を振った。いつも世話になっているマスターには悪いけれど、断崖絶壁から削りだした岩石みたいな容貌が少女の繊細な心を射止めるとはとうてい思えなかった。となればその誰かとはやはり柏木恭一か高瀬父なのだ。俺の母をめぐって争ったふたりなのだ。
「一度整理させてください」と俺は言った。「みちるさんは二人の男子のあいだで揺れていました。一人は書道家を志していた天野さんで、もう一人はこの写真に写る誰かです。みちるさんは悩んだけれど最終的には天野さんを選び、交際が始まりました。ところが不運な事故がふたりを襲います。天野さんはみちるさんをかばった際に負った麻痺により書道家になる夢を諦めざるを得なくなり、またみちるさんも自責の念に駆られました。ふたりは高校を退学し、そして別れた」
先輩の母親はうなずいた。
「もっと細かいことが知りたければ、みちるが当時つけていた日記を見てみる?」
「いいんですか? 僕なんかが見ても」
「いいのよ」先輩の母親は補聴器を軽く触った。「あの子、母親の耳がこういう状態なのに、遠くへ行ったままちっとも帰ってきやしないんだから。『耳の具合はどう?』っていう電話のひとつも寄越さないのよ。そんな薄情な娘に日記を見ただけで恨まれる筋合いなんかないわよ。さあ、ついていらっしゃい。みちるの部屋まで案内するわ」
俺は従順に先輩の母親のあとをついていった。みちるさんの部屋は二階にあった。
壁には昔一世を風靡したものの、今はボーカルが若い歌手に手当たり次第噛みつくだけの俗物に成り下がったロックバンドのポスターが貼ってあり、テレビ台の中には何世代も前のゲーム機が埃とともに眠っていた。カレンダーは20年前の12月のままだった。
こんなレトロな空間にいると、なんだか生まれる前の時代にタイムスリップしたみたいな気分になる。
「たしか二年生に上がった頃からみちるの悩みは強くなっていったの」先輩の母親は勉強机の引き出しから一冊の分厚い日記帳を取り出し、前から三分の一くらいのところをめくった。「このあたりから読むといいんじゃないかしら」
「ご覧になったことはあるんですか?」と俺は聞いてみた。
「見ようと思えばいつでも見られたけどね。思い留まってやめたわ。だって思春期真っ盛りの娘の日記よ? 何が書いてあるかわからないじゃない?」
「何が書いてあるかわからないものを、僕が見てもいいんですね?」
「ええ、どうぞ」と先輩の母親はあらためて快諾した。「まぁ20年前のことだもの。人でも殺していない限り時効でしょ」
俺は日記帳を受け取り、心の中で「先輩すみません」と謝ってから、中身を読み始めた。
〈4月7日 くもり 二年生のはじまり。鳴桜はクラス替えがないから、またみんなと一緒でうれしい〉
みんな。それは写真に写っていた面々のことを指しているのだろうか。次に目に留まったのは、この記述だ。
〈4月13日 晴れ 変な日だった。というか変な夜だった。今夜のことは誰にも言えない。あーやだやだ。早く寝ちゃおう〉
変な夜? いったい何があったのだろう? 先を読んでみてもその夜のことは詳しくは書かれていなかった。
〈5月10日 雨 天野君はさすがだ。テレビ局の取材が来てもモノオジせず堂々としている。最高に格好良い〉
〈5月24日 晴れ 一年の時から感じてたけど、アイツとは気が合う。話していて楽しい。ナルホド〉
おそらくこのアイツというのが、天野さん以外の気になる異性なのだろう。実名を書かないところに、みちるさんの後ろめたさを感じる。そして、何が「ナルホド」なのだろう? わからない。保留。ここから“アイツ”に関する記述が増えていく。
〈6月2日 くもり アイツは何事にも積極的だ。天野君もあれくらい押しが強ければなぁ……〉
〈6月11日 晴れ 一年の女子生徒がアイツに告白してフラれた。ざまあみろと思っている自分がいる〉
〈6月20日 晴れ 思いきって髪型を変えてみた。クラスのみんなは幽霊みたいって言うけど、アイツが褒めてくれたからいいや〉
“アイツ”一色の6月だ。しかし果たしてそれが柏木恭一なのか高瀬父なのかはいまだ判然としない。俺の知る限りどちらも積極的な性格ではあるし、さりげなく『その髪型、似合ってるよ』とかなんとか言いそうだ。
7月に入り、写真にも残っていた遠足の日が来る。
〈7月14日 晴れ 遠足。やっぱり天野君の隣にいると落ち着く。彼の隣は居心地がいい。それにしてもユッキーはどうしていつも行事の時はつまらなそうなんだろう。それでも男子にモテるとかずるくない???〉
ユッキーって誰だ? と俺は首を傾げた。持ってきた写真を見てみる。言うまでもなく楽しいはずのバーベキューでつまらなそうにしているへそ曲がりは、母・有希子しかいない。
ユッキー。
母はどうやら、みちるさんにユッキーと呼ばれていたらしい。同じ班になるくらいだし、二人はある程度親しくしていたのだろう。
母とみちるさんが一本の線でつながったことで、俺の胸はざわめきはじめていた。俺はこの日記を見るべきではなかったのかもしれない。何かとんでもないことがこの先に書いてある。そんな気がしてならなかった。
しかし好奇心が指を動かして、次のページを繰っていた。
〈8月1日 雨 夏休みが終わったら、どっちかに決めよう。でもアイツはユッキーのことが好きなんだよね? フクザツ〉
〈8月14日 晴れ 夏祭りの帰り、アイツに強引にキスされて「付き合おう」って言われた。初めてのキスだったのに……。雰囲気にのまれて深く考えず「いいよ」って返しちゃったけど、よかったのかな?〉
急展開だった。内容が内容だけに先輩の母親が近くにいると気まずかったが、彼女はちょうど鼻歌まじりに部屋の掃除を始めていたところだった。助かった。
〈8月28日 くもり 市民ホールで書道部の発表会。天野君見たさに他の学校からも女子が来る。キャーキャーうるさいっつーのバカ女ども。でも気持ちはわかるのだ。私も声援を送ったのだ。天野君一人がズバ抜けて輝いていたもんね。やっぱり格好良い。彼は、天才だ〉
〈9月9日 雨 天野君に「アイツと付き合ってるんだって?」と聞かれる。「そんなことないよ」と答える。みちるの嘘つき〉
〈9月15日 台風 私は気持ちをとればいいの? それとも……〉
〈9月22日 くもり 春先の、あの変な夜のことが忘れられない。〉
また変な夜だ、と俺は思った。半年近く経っても忘れられないなんて、よっぽどだ。4月13日の夜にみちるさんはどんな体験をしたというのだ。
〈9月29日 雨 決めた。やっぱり私は天野君が好きだ。自分の気持ちに嘘はつけない。向こうも私のことが好きなはず。アイツとは別れて天野君と付き合おう〉
〈9月30日 快晴 今日から天野君の彼女になりました! ←って誰に話してる!?笑笑 悩みまくったけど、よかったんだよね? だってこれはアイツのためでもあるんだから。アイツの心にはユッキーがいる。本当に好きな人と結ばれた方がいいに決まってる。今日でアイツのこともあの夜のことも、忘れよう。うん〉
〈10月8日 くもり 試験勉強を一緒にするため天野君がこの部屋に来る。でも息抜きのはずのゲームで盛り上がっちゃって全然勉強にならない。書道をやっているだけあって天野君は手がエロい。コントローラーさばきについつい見入ってしまう。あのきれいな手で体を触られたら……(←アホかおまえは!)。むりやりベッドに押し倒されたらどうしようってドキドキしたけど、天野君にかぎってそれはないよね。キスくらいならOKなのになぁ……〉
10月はみちるさんにとって、かつてないほど充実した一ヶ月だったようだ。天野さんの部活がある日は終わるまで待って一緒に下校し、部活がない日は他の高校生カップルと同じようにゲームセンターで時間と小銭を浪費したり映画館へ恋愛映画を観に行ったりした(天野さんさえ隣にいればありきたりな三流映画でも胸に響いたらしい。恋は偉大だ)。
有頂天になっていたみちるさんを悲しみの底に沈ませる事故が起きたのは、11月最初の日のことだった。
〈11月1日 最悪だ。階段を踏み外した私を守ろうとして天野君が利き手の右手に大ケガをしてしまった。救急車で運ばれてそのまま入院。どうしてこうなっちゃうの……〉
〈11月2日 天野君のお見舞いに行く。天野君のお母さんが怒って本人に会わせてくれない。どうしようどうしよう〉
〈11月4日 天野君が学校に来る。包帯に巻かれた右手が痛々しい。天野君は「大丈夫だよ」って言ってくれたけど……〉
〈11月10日 包帯が取れる。でも右手がしびれてノートがとれない。箸も持てないからゴハンすら食べられない。全部私のせいだ……〉
〈11月13日 こっそりゴミ箱を蹴りとばす天野君を見てしまう。そうだよね。むしゃくしゃするよね……〉
〈11月17日 天野君のマヒが治らない。そして私に対する周囲の視線が冷たくなっている。こんなことなら私がケガをすればよかったんだ〉
〈11月28日 天野君が学校に来なくなって一週間。家に電話をかけても取り次いでくれないし、訪問しても会わせてくれない。あの西階段が憎い〉
〈11月30日 天野君が自主退学した。もうイヤだ、なにもかも〉
日を追うごとに弱くなっていく筆圧が、みちるさんがいかに憔悴して11月を過ごしたかを物語っていた。10月以前と比べるとまるで別人がこの日記を書いているみたいだ。
俺はページをめくって12月の記述を読みはじめる。〈12月1日 私が――〉その先に書かれていたことは俺の両目を見開かせ、総身を粟立たせた。気づけば俺は日記帳を床に落としていた。
先輩の母親が掃除の手を止め、こちらを案じる。「大丈夫です」と答え俺は日記帳を拾う。そして12月のページをもう一度開く。深呼吸し、文字を目で追っていく。今さら見なかったことにできるわけでもない。
〈12月1日 私が占いを信じなかったからこうなったんだ。“未来の君”を選ばなければ必ず不幸が訪れるとあの占い師は私に忠告した。私はわかっていた。私の“未来の君”が天野君ではなくアイツ――ナオユキであることを。それなのに私は天野君への想いを断ち切れず、ナオユキと別れて天野君を選んだ。愛があれば運命に打ち勝てると信じていた。私が馬鹿だった。私が天野君の夢と未来を奪ってしまったんだ。ごめんね、天野君。本当に本当にごめんね……〉
全身を黒マントで覆う奇怪な男に占われたのは俺と俺の母、それから柏木恭一だけではなかったのだ。みちるさんもまた、“未来の君”についての予言を与えられていたのだ。
俺は日記帳を机に置いて代わりにポケットから財布を取り出し、中から一枚の名刺を抜き取った。「株式会社タカセヤ 代表取締役社長 高瀬直行」とそこにはある。去年の秋、直行さん本人から渡されたものだ。やはり間違いない。みちるさんがアイツと呼んでいたのは――みちるさんの“未来の君”は――高瀬の父親だ。
日記中にたびたび出てきた「変な夜」とは、みちるさんが占い師に呼び止められた夜であり、直行さんと気が合うことについて彼女が「ナルホド」と納得していたのは、相手が運命の人――“未来の君”だからだろう。
しかしみちるさんがより強く心を惹かれたのは、別の男だった。
俺は日記帳を再び手に取り、〈12月1日〉の記述を何度も何度も読み返した。一言一句漏らさず頭に叩き込むまで繰り返して読んだ。
読めば読むほど俺の心臓の鼓動を加速させたのは、「“未来の君”を選ばなければ必ず不幸が訪れる」の一文だ。俺自身はそこまではっきりと占い師に断言されたわけではない。
しかしながら、“未来の君”と共に生きることを選ばなかった青年期の母・有希子と柏木恭一に――そして二人の配偶者に――およそ幸せとはいえない十数年が待っていたのも否定しがたい事実だった。だからこそ彼らはその十数年のすべてをかなぐり捨てて、元の鞘に収まったのだ。それでは、と考えると、まるで四方の壁が迫ってくるような錯覚に陥る。
それでは、俺はいったいどうすればいいのか?
これは認めたくはないけれど、認めざるを得ないけれど、高瀬優里という想い人が俺の“未来の君”である可能性は著しく低い。俺の母と柏木恭一が生みだした小説・『未来の君に、さよなら』がそれを裏付けている。
つまるところ、俺と高瀬は運命の絆で結ばれてはいないのだろう。それにも関わらず俺が高瀬と同じ道を歩む選択をすれば、彼女が苦労してせっかく見つけた翻訳家になるという夢を、台無しにする結果を招きはしないだろうか? 20年前、天野さんが書道家を目指すうえでは致命的なケガを利き手に負ってしまったのと同じように。
俺は翻訳家という職業の魅力を語って瞳を輝かせる高瀬を思い出し、ため息をついた。
運命の神様はどうやら、そう易々と俺と高瀬が夢に向かうことを許してはくれないようだ。
「あの、ちょっといいですか」と俺は振り返って先輩の母親に声をかけた。「みちるさんは遠くに行ったままちっとも帰ってこないということでしたが、今はどこに住んでいるんですか?」
彼女は窓を開けて空の彼方を見つめた。「東京よ」
「東京――!」
俺の右手はひとりでに制服の胸ポケットに伸びていた。そこには図書室で月島が勝手に入れた東京への航空券が入っていた。
導かれている、と俺は立ち尽くして思った。運命に導かれている、と。
こうなったら行くしかないじゃないか。東京へ。
俺はこの夏東京に行く。そして是が非でも黛みちるという人物に会って、本人から直接詳しい話を聞かねばならない。日記の文面だけではわからない点も多々ある。彼女の口から語られる言葉は、俺が歩むべき未来を選ぶにあたって、大きなヒントになるはずだ。
どこの誰が執筆しているのかは知らんが俺の複雑怪奇な物語は、真夏の東京において新しい局面を迎えることになりそうだ。東京から遠く離れた地方都市で生まれ育った俺としては正直なところいまひとつピンと来ないが、このややこしい物語を紐解くためならたとえ世界の果てでも行ってやる。そんな気分になっていた。
外から吹き込む風には、たしかに夏特有の気怠い匂いが混じり始めていた。
第二学年・春〈終〉