第53話 満開の桜を咲かせて 2
「話をする場所は、ここじゃなきゃだめだったんだね?」と高瀬は”ここ”を強調して言った。
「ここじゃなきゃ、だめだったんだ」と俺は彼女のトーンを真似て答えた。
俺たちはモップが眠る桜の木のすぐそばにあるベンチに腰掛けていた。
空はどこまでも青く、たとえモノクロカメラで撮影したとしても空だけは青く写るんじゃないかという気がするくらいだった。そんな風によく晴れた土曜のさくら公園は、夏間近の陽気に誘われた大勢の市民で賑わっている。
「それで」隣で高瀬は気持ちよさそうに背伸びをした。「話って、なに?」
俺は息を大きく吸いこんだ。「格好つけた言い方をすれば、未来のことなんだ」
「未来」と高瀬は神妙に繰り返した。
俺はしっかりうなずいた。
「高瀬も知っての通り、俺の夢は大学に行くことだった。その夢があったからこそ、中学時代の苦難にも耐えてこられたし、進学校の鳴桜高校にも入学することができた。ただ、大学でこういう勉強がしたいとか、将来この職業に就きたいとかいう明確な目標があったわけじゃなく、とにかく大学と名のつく機関に入りさえすればそれでいいと思っていた。
でも進路指導担当だったカンナ先生にこう言われて俺ははっとしたよ。『大学を終着点にしてはいけない。あくまでも通過点と捉えなさい。大学のその先を考えながらこれからの高校生活を過ごしてみて』と。たしかにそうだよな。人生は22、3歳で終わりじゃない。その先だってまだまだ続く。大事なのは目先のことよりも、20年後30年後、自分がどんな人間になっているかなんだ。
『大学に行く』という漠然とした夢が生きるうえで原動力になったのはもう過去の話で、未来を生きていくためにはその夢をより具体的にする必要があったんだ。それで俺はこの春、カンナ先生の言いつけを守って大学のその先を考えながら毎日を送っていた。
でもそう簡単にはやりたいことも就きたい職業も見つからなかった。なにせ俺には元々、どうにも冷淡なところがあって、世の中をこう変えたいとか誰かの役に立ちたいとかいう志向をどうしても持つことができなかったんだ。そんな自分に変化が起きていると俺が気づいたのは、モップが死んで何日かが経った頃だよ」
高瀬は微笑んだ。
「見えたんだね、大学のその先が」
俺は深くうなずいた。そして彼女と視線を合わせ、こう打ち明けた。
「俺は将来、獣医になりたい」
高瀬はゆるやかにモップの墓へ目を移す。「獣医さん」
「それもただの獣医じゃない。捨てられる犬や猫を一匹でも減らすよう社会に働きかけていく、そんな獣医に俺はなりたいんだ」そう表明して俺も桜の木の下を見つめる。そこに眠る相棒を思うと、感情が暴れそうになる。「モップみたいな可哀想な犬を、もうこれ以上増やしちゃいけない」
高瀬は無言で何度かうなずいた。俺は心のうちを話し続けた。
「もちろん俺一人が声を上げたところで、この世の捨て犬捨て猫をゼロにできるわけじゃない。俺のやることに対しある人は無意味だと笑うかもしれない。ある人は売名行為だとからかうかもしれない。またある人は偽善者だと罵るかもしれない。でも俺はどんなに笑われても誰かに何を言われても、この道を進みたいんだ。
モップを捨てた奴への怒りが、動物医療やペットビジネスの在り方に対する疑問が、モップを亡くした悲しみが、モップを救ってやれなかった悔しさが、そしてモップへの感謝が――そんな何もかもが――この道を進めと俺に命じている。俺がやらなきゃ誰がやるという使命感さえある。こんな強い気持ちになったのは、初めてだ」
高瀬は俺の言葉を噛みしめるように間を置いた。
「神沢君がそういう気持ちになったのは、モップを看取った獣医さんの存在も大きいでしょ?」
「よくわかったな」と俺は感心した。「たしか柴田先生っていうんだっけ? あの人、モップを一目見てもうなにをしても劇的な回復は望めないと見抜いていただろうに、そんなことはおくびにも出さず懸命に最後まで治療にあたってくれた。そのうえモップが逝った後に俺たちを優しい言葉で慰めることも忘れなかった。あの人のそういう姿勢が、後になってどれだけ俺の悲しみやつらさを和らげてくれたかわからないよ」
高瀬は意外そうな顔をする。「それでも六月中はずっと泣いていたよね?」
「モップを看取ってくれたのがあの人じゃなきゃ、来年の六月だって泣いていた」と俺は自嘲気味に笑った。「とにかくさ、俺もあんな大人になりたいと心から思えたんだよ。ろくでもない大人も世の中には多いけど、あの獣医さんやカンナ先生みたいに尊敬できる大人もいるんだよな」
「なるほどねぇ」高瀬はいつになく納得していた。考えてみれば、彼女の方こそろくでもない大人に悩まされている。「神沢君の話をまとめると、やっぱり、大学は目指すっていうことだよね?」
「これでようやくまともな進路希望調査票を提出できる」俺はカンナ先生の困り果てた顔を思い出して心で謝った。「俺の第一志望は、鳴大の獣医学部。そして夢は、獣医になることだ。この夢を叶えるのは決してたやすいことじゃない。でもたとえ何年かかっても、挑戦を続けたいと思っている」
それを聞くと高瀬は、無造作に前髪を整えたりワンピースの胸部のボタンを触ったりした。しばらく経って口を開いた。「私、応援するよ」
気づけば俺はベンチから立ち上がっていた。「本当か?」
「応援する」と彼女はまるで二人だけの部屋に鍵をかけるように繰り返した。「私、今ね、大人になった神沢君がうちのボーダーコリーを診察しているところを想像してみたの。そうしたら思いのほか様になっていて、悪くないなって思ったんだ。うん、向いてるんじゃないかな。獣医さんのように専門的な知識や技術を身につけて、それを活かす仕事が神沢君には合ってるよ」
「そう言ってもらえると、どんな困難も乗り越えられるような気がする!」俄然張り切りだした俺を高瀬は「ただし」とたしなめた。
「神沢君も柴田先生を見てわかっていると思うけど、獣医さんの仕事は動物の病気を治すことだけじゃない。飼い主と心の通ったコミュニケーションをとることだって大事な仕事だよ。獣医さんになりたいのなら、勉強をがんばるだけじゃなく、無愛想な面もちょっとずつ治していかないとね?」
「励みます」と頭を垂れるほかない。痛いところを突かれた俺は、さっそく愛想笑いを見せて再びベンチに座った。
「いい機会だから、今度は私の決意を聞いてもらおうかな」と高瀬が切り出したのは、俺がいつか開業するであろう動物病院の名前の候補を三つに絞った時だった。
「高瀬の、決意?」
「前にちらっと話したじゃない? 将来なりたいものがわかりかけているって。あれからだいぶ経つけれど『やっぱり私にはこれしかない』って思えるようになったの。持てるようになったんだ、決意」
いかなるニュース速報よりも興味がそそられた。「聞かせて」
彼女は表情をきりっと引き締めた。
「私がやっと見つけた夢。それはね、翻訳家になること」
翻訳家、と俺は思った。そしていっそう耳をすました。
「自分の道を決めるうえで、神沢君の課題が物事を冷めた目でしか見られなかったことだとすると、私の課題は優秀なことだった」
俺はうなずく。高瀬はシニカルにうなずく。
「まわりがそう持て囃すから優秀という言葉を使ったけど、私は自分を優秀だとは思っていない。全然。どんなテストでも80点や90点は取れる。でも100点には手が届かない。どんなコンクールでも学校や市レベルでは金賞が取れる。でもそこから少し上のレベルになると入賞することすらできない。
そういう私の特性は、どちらかといえば、器用貧乏という方が正しいと思う。いろんなことを80点90点でこなせるから、逆に何が自分に合っているのかよくわからない。どれも向いているようでどれも向いていないと感じてしまう」
俺は聞いているしるしに顎を引いた。
「100点を取れなくて自己嫌悪に陥りかけていた私を救ってくれたのが、これ」
高瀬は横に置いていたバッグから何かを取り出した。それは『未来の君に、さよなら』の冊子だった。
「新人賞に応募するためこの作品を一般受けするようリライトしていく中で、私はふと気づいたの。『小説の書き直しは100点の仕上がりを求められていないんじゃないか』って。
そもそもね、100点の書き直しなんて存在しないと私は思うの。だってそうでしょ? 私版『未来の君に、さよなら』をもし原作者である晴香のお父さんに読ませたら、『おいおい、姉ちゃん。ここはこういうつもりで書いたんじゃねぇぞ。出直してきやがれ!』って怒られるところが絶対あるはずだもん。
同じ国の人が日本語で書いた作品を書き直す場合でさえそうなんだから、外国の人が外国語で書いた作品を翻訳するとなると、なおさらだよね。その作品で作者が本当は何を言いたいかなんて、作者の頭の中を覗いてみなきゃわからない。でもそんなことはできない。
そういう意味では――これは私の都合の良い解釈かもしれないけど――翻訳って、80点なら上出来で、90点ならもう大成功っていうものだと思うんだ。100点なんてはなから無いんだから。そう、翻訳家は、コンスタントに80点や90点を出せる私に向いている職業なの」
高瀬は柏木恭一とは面識がないはずだが、声真似はやけに特徴を掴んでいて、可笑しくなる。
「それになにより」と彼女は続けた。「既存の物語を自分の言葉で書き換えるっていうのは、他にはない面白さがあるよ。言語力だけじゃなくいろんな分野の知識が問われるから、器用貧乏の私にはうってつけなんだ」
緻密かつ客観的な自己分析からそこまでの結論を導き出せたなら、それはもう100点をあげてもいいのではないか、と俺は思った。満点だよ、と。なにはともあれ、愛の名のもとに逃避行して多くの人を傷つけた柏木恭一と俺の母ではあるけれど、悩める一人の若者に道を拓くきっかけを与えたのも、たしかなようだった。
俺は肩の力を少し抜いた。「それじゃあ、高瀬の第一志望も決まりだな」
「私の第一志望は、鳴大の文学部。文学部で、小説や外国語について学びたい。これで私もいつカンナ先生が帰ってきても、顔向けできる」
俺は理系で高瀬は文系か、とぼんやり考えていると「これからは本気になって俺と一緒に大学を目指そう」と高瀬が低い声でつぶやくので、俺は泡を食った。
「な、なんだよ突然」
高瀬はいたずらっぽく笑った。
「ちょうど今から一年前だよね。神沢君がヒカリゴケの洞窟でそう言ってくれたのは。そこから大学を目指すって決めて、途中いろいろあったけど、ようやくここまで来たんだね」
「そうだな」本当に、本当に、いろいろあった。「今日からリスタートだな」
「一年半後には大学入試だよ。がんばろうね」
「未来のために」と俺は高瀬の顔を見て言った。
互いの決意を確かめ合った俺たちは次に、どちらからともなくモップの思い出話をした。高瀬はこの春の冒険の証として、モップの桜色のリードと、それから花見の時にみんなで撮った記念写真を実習棟三階の秘密基地に飾ることを決めた。
写真はともかくとして、リードに関しては俺にとっても文字通り冒険の証だった。モップと歩けば街はいつもと違って見えた。知らない道もたくさん共に歩いた。青大将に出くわして戦うこともあれば、反社会的組織の取引現場を目撃して逃げ出すこともあった。モップとの散歩は、いつだって冒険だった。そして楽しかった。
「どうしたの?」とうつむき加減の俺に高瀬が声をかけてきた。
「うん。土の中っていうのは、どんな心地がするものなんだろうとふと思ってさ」
高瀬は顔を上げた。「モップはもう土の中じゃなく、あの桜の木にいるよ」
「そうなの?」
「春に桜があれだけ綺麗な花を咲かせるのはね、木の下に眠る屍体からたっぷり栄養をもらっているからなんだって。梶井基次郎がたしかそう書いていた」
梶井基次郎。現代文の教科書で見覚えがあった。「さすが、未来の作家先生」
「翻訳家、だってば」高瀬は得意げに指を立てた。「さぁ、そろそろ行こっか。なんだか神沢君、このままだとまた泣いちゃいそうだし。それにね、数学でちょっとわからないところがあるから、今から教えてほしいんだ。再来週にはもう期末テストが始まるもんね。近くにマルゲリータの美味しいカフェがあるからそこでいい? おごるよ」
「わかった」と俺は腹をさすりながら請け合った。間違いなく腹は減っていた。腹が減るのは生きている証だ。そしてあの発作を克服した証だ。モップが死んでから俺は、一度たりとも吐いてはいなかった。
俺たちはベンチから立ち上がり、公園の出入り口へ向けて二人で歩きはじめた。十歩ほど進んだところで、背後からの風にモップのあの激烈な口臭が2%くらい含まれているように感じ、俺は立ち止まった。もちろんそれは気のせいだった。でも俺は高瀬に断って後ろを振り返り、まぶしいばかりの緑に彩られた桜の木に「なあモップ」と心で語りかけた。
「高瀬はああ言ってるけど、俺はもう泣かないよ。俺たちは前に進む。それぞれの夢を叶えるために。でもな、そこは厄介事に好かれる体質の俺のことだから、きっと順風満帆にはいかない。これからもきっとこの両手では扱いきれないほどの問題が俺を苦しめると思う。でも俺は負けない。ただ絶対に負けないっていう自信もない。まったく、情けないな。どうしようか。そうか、おまえがいたな。なあモップ。来年の春も必ずここに来るからさ、その時はどうか、満開の桜を咲かせて、駄目な俺に力を与えてくれ。背中を押してくれ」
それだけ伝えると俺は深呼吸して向き直り、高瀬と歩調を合わせて再び歩き出した。
背後では暖かい春風に揺られた枝葉が、若々しくそして優しい音をたてていた。




