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【完結済】未来の君に、さよなら  作者: 朝倉夜空
第二学年・春〈愛情〉と〈幽霊〉の物語
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第52話 このつらさだけは、大人になっても覚えておくんだよ 6


「手は尽くしたんだけどね」

 柴田医師は慣れた所作でモップの心臓の停止と筋肉の硬直をたしかめた。そして静かに合掌した。

 

 高瀬は顔をくしゃくしゃにして泣き、モップの亡骸に手を這わせた。はっきりとは聞き取れないが、よくがんばったね、というような言葉を何度もかけている。


「モップはいったい何の病気だったんですか?」と俺は尋ねた。それは、答えを聞くのが恐くてずっと胸にしまっていた質問だった。

 

 柴田医師は深呼吸をして病名を告げた。モップが患っていたのは、俺の予想通り、我々ヒトをも死に追いやる難病中の難病だった。手塚治虫もジョージ・ハリスンもそれでこの世から去った。


「発症は半年前から三ヶ月前といったところかな」と柴田医師は続けた。「君は神沢君といったね。神沢君。たしか君はここに電話をくれた時に、この子を二ヶ月前にさくら公園で拾ったと言っただろう。前の飼い主が捨てる現場を目撃して、たまらず家に連れて帰ったのだと」


 俺はうなずいた。厳密に言えば、「高瀬に強制された」という方が正しいが、今はそんなことはどうでもいい。もう一度俺はうなずいた。すると柴田医師は、深く溜め息をついた。


「この子の前の飼い主は、この子が大病に冒されていることがわかったから(・・・・・・)捨てたんだろうな。君たちと出会った時点でもうすでに、モップ君は自身の避けられぬ死を悟っていたんだよ」


 俺はこれまで感じたことのない種類の怒りが自分の中に芽生えるのを感じた。

「そんな!」俺は思わず声を荒らげていた。「そんなひどいこと、どうしてできるんですか!? 犬が病気になったからこそ、それまで以上に寄り添って、優しく見守ってあげるのが飼い主の責任ってもんじゃないですか!」

 

 言い終わってはじめて”犬”は”子”へ、”飼い主”は”母親”へ置き換えても意味が通ることに気づいて、なおのこと苛立ってくる。


「君の言っていることは正しい」

 柴田医師は発言内容とは裏腹に「でもね」と首を横に振る。

「ペットを飼っているのは君のような人間ばかりじゃないんだよ。その責任を放棄する人も少なからずいるのが現実なんだ。命を粗末に扱う、動物を飼う資格なんてない人がね」

 

 俺はすんでのところで壁を殴りそうになった。でも俺が本当に殴るべきなのは壁ではなくモップを捨てた若作り女であるはずだった。


「獣医を生業(なりわい)にしている僕が言うのも変な話だけど」と柴田医師はばつが悪そうに前置きして続けた。「動物の医療にかかる費用はね、思いのほか馬鹿にならないんだよ。動物の一月(ひとつき)の治療費が飼い主の一月分の収入を上回るケースだって決して珍しくはない。僕も過去に何度、『法外な治療費を吹っかけて私服を肥やしてるんだろ?』みたいないちゃもんを飼い主さんにつけられたかわからないよ。


 これから負担しなきゃいけない金額を知ってゾッとして、そこでひどい人はペットを見切ってしまうんだ。モップ君のように、どんなに治療にお金を()ぎ込んでも完治がまず望めない病にペットが冒された場合には、特にね」


「先生」と俺は耳を塞ぎたい気持ちを押し殺して言った。「モップは自分が病気であることを二週間前になるまでただの一度も俺たちに感じさせませんでした。だから俺たちはてっきり、モップが健康そのものだと思い込んで、夜の高校や花見に連れて行ったりしたんです。そういう行動は、モップの体に良くなかったんじゃないですか?」


「夜の高校?」柴田医師はひょうきんな顔をした。どうやら自身の聞き間違いを疑っている。それもそのはずだ。まともな人間は犬を連れて夜の高校に忍び込んだりしない。


「一から話せば長くなりますが、どうも俺は厄介事に見舞われる性分らしく、高校で発生した幽霊騒ぎを解決しないと退学させられる危機にあったんです。それでモップにも捜査隊の一員として働いてもらったんですよ」


「それはそれは」柴田医師は苦笑する。「気を病むことはないよ。二週間前までは食欲だってあったし散歩だって行きたがっていたんだろう? ならば何も問題はない。君たちがモップ君に無理を強いたわけではない。むしろそうした非日常的な刺激が、モップ君に病と闘う活力を与えたんだ。若い君たちと一緒にいると、この子も若返った気がしたんじゃないかな」

 

 ”あの時こうしていれば”というたられば(・・・・)が、引っ切りなしに脳裏に浮かぶ。「二週間前にモップの異変に気づいた時、クルマを盗んででもここにモップを連れてくれば、もっと長く生きられたんじゃないですか?」


「おいおい穏やかじゃないな」と柴田医師はじゃっかん戸惑う。「もちろん、来るのが早ければ早いほど、どのような処置をするか選択の幅は広がっただろうね。でも結果はそれほど変わらなかったはずだ。どのみち、夏を迎えるのは難しかっただろうな」


「もし――」と声をからせて一歩前に出た俺を制したのは、柴田医師の傷だらけの手だった。先生は俺の肩にそっと手を置き、「君たちはよくやった」と言った。


「モップ君のために君たちは高校生として――大人の協力が得られない中――できることを最大限してあげたんだ。それで充分じゃないか。さっきも言ったように、病気だとわかるやいなやペットを捨ててしまう人もいる中で、君たちは最後まできちんとこの子を看取った。それは立派なことだよ。つらいよな? わかるよ。無責任な大人が敬遠したつらさを君たちが今引き受けているんだ。いったい誰がそんな君たちを責められるというんだ。恥じることはない。悔いることもない。ただし、このつらさだけは、大人になっても覚えておくんだよ」

 

 相も変わらず院内の空気を高瀬の泣き声が震わせていた。柴田医師は俺の肩から手を下ろすと、診察台の上で冷たい眠りにつくモップの顔を観察しはじめた。そして「これは君たちへの気休めで言うわけじゃないよ」と切り出した。


「僕も職業柄、数多くのワンちゃんの死に顔をこれまでに見てきたけれど、これほど安らかな顔をしているワンちゃんはそうはいないよ。見てごらん。まるでお腹いっぱいお(ちち)をもらって昼寝する子犬のようだ。病との闘いは大変だっただろうが、それ以上に君たちと過ごした日々が楽しかったんだろうな。君たちのそばが居心地が良かったんだろうな。そうじゃなきゃ、こんな顔で死ねないよ。


 幽霊騒ぎの捜査で実際に夜の校舎まで行ったんだって? あはは、これは愉快だな。モップ君にとっては胸がときめく大冒険だったに違いない」

 

 ”死”というものに直面するのが怖くて、実は俺はまだモップの死に顔をこの目で見ていなかった。人や世界を心から恨むような顔で死んでいたらどうしよう? そんな不安が足の動きを封じていたのだ。


 俺は勇気を出して高瀬と柴田医師のそばに寄ってみた。柴田医師の表現は的確で、本当にモップは無垢な顔で永遠の眠りについていた。まるで今にもむくりと起き上がって、いつもみたいに俺に偉そうに夜食を求めてきそうだった。「おい腹が減ったぞ、何か食わせろ」と。


 でも俺がもうモップのわがままに付き合うことはないのだ。


 それを打ち消しがたい事実として受け止めた途端、俺はついに感情を抑えることができなくなった。目の奥が熱をもち、とめどなく涙が溢れ出てきた。それはこの二週間のあいだずっと()き止めていた涙だった。俺は診察台に寄り掛かり、泣きじゃくった。つらかった。腹立たしかった。やりどころのない怒りが、モップを喪った悲しみを何倍も増幅させていた。

 

 俺と高瀬が泣き止むまで柴田医師は帰宅を促すでもなく待ってくれた。


「さて、どうしようか」と彼はモップの遺体を頭から尻尾まで見て言った。「この子を君の家まで連れて帰るのは大変だぞ。ここに来る時とは違って体が硬直しているから、おんぶするのは容易ではない。どうだろう? 今夜はモップ君をここに残して、明日の朝、僕の知り合いの火葬業者に弔ってもらうというのは?」


「いいえ、連れて帰ります」と俺は即答した。最後の仕事は、他の誰でもなく俺たちが果たさなきゃいけない。モップの飼い主として。

 

 俺は柴田医師に礼を述べ、魂の抜けたモップの体を背負おうとした。ところが柴田医師の予想通り首尾良くはいかなかった。かちかちに固まったモップを背負うには、俺がそうとう無理な体勢をとる必要があった。見るに見かねた様子で高瀬が声をかけてきた。「神沢君、本当に大丈夫? そんな変な格好で歩いたら、足や腰を痛めちゃうかもしれないよ?」


「行こう」と俺は声を絞り出した。「モップは病気で苦しんでいたのに、身を挺して何度も何度も俺を発作から守ってくれたんだ。それに比べれば、これくらいなんともない」


 家に帰ると俺はモップの遺体をソファの上に安置し、いつもより熱めのシャワーを浴びた。時刻はすで夜の11時をまわっていた。風呂場から出てソファを見てみると、やはりそこでモップは死んでいた。俺はまた泣いた。泣きながら、どうやってモップを弔ってやるのが一番よいのか考えた。


 考え事なんかしたくなかったけれど、いつまでもモップの亡骸を家に置いておくわけにもいかない。もう二度と使うことのない――たった二ヶ月でも使い古した感のある――桜色のリードが目に留まり、あの場所に行くしかないな、と俺は思い至った。


 俺は高瀬にはもちろん、太陽や柏木や月島に対しても明日の早朝、さくら公園(・・・・・)に集合するよう連絡した。高瀬以外の三人はそこで初めてモップの死を知った。太陽にだけは土を掘るシャベルを持ってきてくれと頼んだ。

 

 みんなと顔を合わせるまではまだ五時間ほどあった。もし寝ることができれば五時間などあっという間に過ぎ去るが、あいにく妙に神経が昂ぶっていて、ベッドに潜っても眠気は訪れそうになかった。やむなく俺はリビングでこのまま朝が来るのを待つことにした。


 ソファで静かに眠るモップの顔を記憶に刻みながら。

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