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【完結済】未来の君に、さよなら  作者: 朝倉夜空
第二学年・春〈愛情〉と〈幽霊〉の物語
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第52話 このつらさだけは、大人になっても覚えておくんだよ 5

 

 (きざ)しはあった。


 それまでは冬眠から目覚めたばかりなのかと疑うほど旺盛だった食欲が、二週間ほど前を境にしてぱったり減退したことがひとつ。

 

 そしてもうひとつは、時期を同じくしてあれほど好きだった散歩に行きたがらなくなったことだ。桜色のリードをひとたび手にとれば、そりゃあもう革命でも起きたみたいに大騒ぎして、リードを持つ俺を苦笑いさせるのが夕方の恒例だったのに。


 しかし俺ははじめそれらの異変を、死の前ぶれとして捉えることはなかった。


 そもそも花見の日から十日以上が経ったその頃というのは、ちょうど一学期中間テストの真っ最中で、俺は意識のほとんどを二年生最初の試験に注がねばならなかったのだ。もちろん居酒屋のアルバイトは休みをもらっていた。そして家では食事をなるだけ簡単に済ませ、寝る間も惜しんで机に(かじ)り付いていた。


 そのような状況下においては、どうしたってモップの優先順位は下げざるを得ない。モップの変化をいちいち深く気に留めてはいられなかったし、ドッグフードを変えるとか粘り強く散歩に誘うとかする考えは――現在進行形で大量の問題を抱えなおかつ翌年には受験生になる俺には――とうてい思い浮かばなかった。

 

 それに特にこれといった理由もなく食欲が落ちたり出不精になったりするという現象は、我々人間にだってままあることなのだ。


 人と同じように喜び、怒り、哀しみ、楽しみさえする犬に、なぜそれが起きないと言えるのか。そのふたつの現象が同時に起きることだって有り得ないわけではないはずだ。なるほど、犬にも一丁前に五月病があるんだな。どうせこんなのは一過性のものだろう。六月になれば自然と治るだろう――。


 犬と暮らしはじめてまだ50日にも満たない俺は、蒙昧にも、そんな風に事態を楽観視していた。別れがすぐそこまで迫っていることに気付きもしないで、何の役にも立たない公式やら時代遅れの英単語やらをひたすら頭に詰め込んでいた。


 中間テストが終わっても一向にモップが元気を取り戻す気配はなかった。


 となれば犬の知識に乏しい俺が頼れるのは身近には一人しかいない。犬博士だ。高瀬に学校で事情を話し、家まで来てもらうことにした。彼女は自宅からいかにも値の張りそうなドッグフードを持参してきた。それは高瀬家で飼われているボーダーコリーが普段から食べている餌だった。


 高瀬の顔を見るとモップは無邪気に尻尾を振った。手や膝やふくらはぎや尻の匂いをいつも通り丹念に嗅ぎ、いつも通り俺を嫉妬させた。そして彼女が用意してくれたそのドッグフードを残さず平らげた。

 

 おいおいモップ、これじゃあまるで俺が嘘をついているみたいじゃないか、と俺は安堵する一方で慌てた。私を家に呼ぶための口実にモップを利用したの? とでも高瀬に思われたらどうするんだ。その時の俺にはまだ、そこまで邪推して溜め息を漏らすだけの余裕もあった。

 

 最終バスの時間ぎりぎりまでモップの様子を見届けると、高瀬は新しいドッグフードを一週間分残して帰っていった。また何かあったら教えてね、と彼女は去り際に言った。わかった、と俺はうなずいた。何もなければいいけど、と高瀬は不安げに言った。高瀬の予感は当たった。

 

 結局彼女には、次の日の放課後も家に来てもらう羽目となった。

 

 翌日は朝から大雨だった。モップは一切食べなかった。ドッグフードの新旧にかかわらず、高瀬が来たにもかかわらず。


 いよいよこれはただごとではないという共通認識を俺と高瀬は持った。獣医さんに一度診てもらおう。そう高瀬が提案し、俺も強く賛同した。


 ところが、である。


 それは俺たちが思っていたよりもはるかに難しいことだった。最大の問題は、うちの近所に犬を診察してくれる機関が存在しないことだった。市内には15件ほどの動物病院が点在しているが、よりによってうちのあたりはちょうど空白区となっていた。


 調べてみると、最寄りの動物病院でも少なくとも2㎞は離れていた。無論モップにその距離を自力で歩いてもらうことは期待できない。だいたい散歩びよりの晴れの日でさえ外に出たがらないのだ。どんな魔法をかけたら土砂降りの中を2㎞もの道のりを歩かせることができるだろう?

 

 徒歩での通院が不可能ならば、当然の成り行きとして次は車両ならどうだという話になる。しかしながら俺たちはクルマを保有していなければ運転することもできない。よって公共交通機関――我々の住む地方都市ではバスやタクシーがそれにあたる――に頼らざるを得ない。


 俺と高瀬は手分けして市内のバス会社とタクシー会社に片っ端から電話をかけて問い合わせた。こうこうこういう事情で体重が20㎏以上ある犬を動物病院に連れていきたいのだ、と。

 

 各会社の返答には温度差こそあれど、「それほどの大型犬を乗せることは難しい」という点でだけは一致していた。モップの体の大きさが、第二の問題だった。

 

 それでも俺はまだ諦めなかった。ふいに名案をひらめき、「そうだ!」と手を叩いた。「高瀬ん()のクルマを使わせてもらえないかな?」


「それができたら最初から言ってる」と高瀬は顔全体に歯がゆさを滲ませ答えた。「うちにクルマは二台あるんだけど、一台はお父さんの完全仕事用だから天地がひっくり返っても犬を乗せてなんかくれない。私たち家族でさえ指一本さわれないくらいなんだもん」


「もう一台の方は?」


「そっちは家族用で、運転するのは主にお母さん。後部座席を倒せばトランクにモップを乗っけることはできるし、私から頼めばお母さんも犬好きだから、きっと協力してくれたと思う。でも、肝心のクルマが、今はないの」


「ない?」と俺は聞き返した。


「私のお姉ちゃんが免許をとった記念に、そのクルマで本州一周旅行に出掛けちゃったから、ないの。今朝は貫一お宮の像といっしょに撮った写真が私のスマホに送られてきた」

 

 俺は日本地図を思い浮かべ、絶望的な気分になった。「熱海か」

 

 高瀬はうなずいた。「だからクルマを使えるようになるのは、どんなに早くても一週間後なんだ」


「お姉さん、自由奔放な人なんだもんな」

「ごめんね」

 

 今は夏休みでもないのに日本の大学生ってのは時間が有り余っているんだな、と皮肉のひとつでも言う余裕は俺からとうに消えていた。代わりに「ついてない」とつぶやいた。運の無さが第三の問題だった。

 

 それからも何か良い手立てがないか、俺と高瀬は知恵を絞って意見を出し合った。でも雨が法律がモップの体の大きさが、それらをことごとく打ち砕いた。やがて夜が来た。冷たい夜だった。為す術がなかった。


 無意識のうちに俺はモップの体を撫でていた。以前は「夏が来たらこの巨体は鬱陶(うっとう)しいな」とすら思っていたのに、いつしかすっかり痩せて、骨の本数や位置までが正確に把握できるようになっていた。それはどう考えても、ただ単に「食べていない」ことに起因する痩せ方ではなかった。尋常ではない痩せ方だった。あきらかに邪悪な何かがモップの血肉を削っていた。俺は思わず手を引っ込めた。体の奥底から「覚悟を決めろ」という声が聞こえた気がした。


 モップが何らかの(やまい)に冒されているのは、もはや疑いようのない事実だった。そしてその病が時の経過とともに自然治癒するような甘い性質のものではないことも、俺と高瀬は――お互い口に出さないまでも――わかっていた。それなのに獣医師の診察を仰ぐことさえできない。なんとかしてやりたい。でもできない。できないものはできない。


 その気になれば俺たちは自分たちの遺伝子を継いだ子を作ることができるし、ニューヨークの一等地でトルーマンを非難することもできる。上等な天体望遠鏡があれば、あるいは夜空を瞬く新星の名付け親にだってなれるかもしれない。

 

 でもそんな俺たちに突き付けられた現実は、わずか2㎞先にある動物病院にすみやかな治療を必要とする犬を連れていくことすらできない、というものだった。


 未成年である我々には、取り得る選択肢があまりにも少なすぎたのだ。


 そのようにして俺と高瀬は、自分たちの無力さを思い知った。


 ♯ ♯ ♯


 不吉な結末を暗示するように雨は何日も降り続けた。俺は高校の授業を上の空で受け続けた。モップの衰弱は、日を増すごとに顕著になっていった。


 高瀬は放課後になると風紀委員の仕事を休んでまでうちに来て、時間が許すかぎりモップと共に過ごすようになった。


 食べ物に口をつけなくなり、水も舌を湿らせる程度しか飲まなくなり、散歩に行くのも拒むようになったモップだが、そんなモップの生活習慣のなかでひとつだけそれまでと変わらないことがあった。それは、俺のそばを片時も離れようとしないことだ。


 特に俺がトイレに立とうものなら、発作が始まったのだと勘違いして、マタドールの赤布に突進する猛牛のごとき勢いであとをついてきた。ついてこなくてもいいと言ってもついてきた。俺のことを心配している場合じゃないだろ、と逆にこちらが心配するくらいだった。


 もちろん実際に発作が起きた際にはすばやく体を擦り寄せてきて、吐くのを未然に防いでくれた。ただしそうした一連の行動の代償はやはり大きかった。モップはごまかしていたけれど、後ろ足が痙攣しているのを俺の目は見逃してはいなかった。


 なんだかもう、俺を発作から守るという気持ちだけがモップを生かしているような気がしてならなかった。


 最も恐れていたことが現実になったのは、高瀬のお姉さんの放浪旅があと二日で終わりを迎えるという日だった。


 その日の夜、俺は夕食の準備に取りかかっていた。高瀬はすでに最終バスに乗って家路についていたから、うちには俺とモップしかいなかった。


 親子丼に使う卵を取るため冷蔵庫を開けたところで――”親子丼”という料理名に心が反応したのかどうかは定かじゃないけど――出し抜けに母親の笑顔が視界を占めた。俺は冷蔵庫のドアも閉めず一目散にトイレを目指した。例によってモップもついてきた。でも途中でへたり込んでしまった。足が痺れて歩けないようだった。俺は「無理はするな」という風に手でモップを制し、便器に向けて吐く体勢をとった。


 そこで信じられないことが起こった。


 吐き気が自然(・・)に収まったのだ。誰かのぬくもりに頼ることなく吐かずに済んだのは、これが初めてのことだった。それは、俺と発作の闘いが新しい段階に入ったことを意味していた。375回目にして。


 俺は過去374回の苦闘を思い出して歓喜の声を上げた。


「モップ、もう大丈夫だ! 吐かない! 俺は吐かない! モップ、ありがとうな。おまえにはどれだけ助けられたかわからない。おまえに会えて良かった。これからは俺がおまえを――」


 そこでモップは力なく倒れた。まるで魂が抜けたようだった。俺はまっしぐらにモップの元に向かった。そして体をきつく抱きしめ、「おいモップ!」と叫んだ。「これからは俺がおまえを守ってやるから!」


 モップは何も答えなかった。



 俺は高瀬に電話をかけてありのままを話した。彼女はそれを聞くと、「すぐそっちに行く」と慌ただしく言って慌ただしく電話を切った。


 俺は自力で起き上がることができずぜぇぜぇ(・・・・)と口で息をしているモップを抱きながら、高瀬がとんぼ返りしてくるのを待った。モップの体は、まだ温もりを失ってはいなかった。心臓の鼓動はモップが生きていることをたしかに俺に教えていた。


 モップは闘っていた。命を少しでも長くこの世界に留めるべく死に(あらが)っていた。ならば俺も共に闘おう。俺はモップを励まし、絶対に諦めるな、と自分に言い聞かせた。

 

 高瀬はタクシーで戻ってきた。一時間前とはまるで違うモップの変わり果てた姿は、決して小さくないショックを彼女に与えたようだった。それでも高瀬は取り乱すことなくモップに近付き、いつも以上に優しく頭を撫でた。


「高瀬」俺は彼女を待つ間に固めた決意を聞いてもらうことにした。「今からモップを、獣医に()せよう」

 

 高瀬は充血した目をこちらに向けた。

「それはつまり、モップを動物病院に連れていくってこと?」


「ああ。このままじゃ」死んでしまう、と喉まで出たが呑み込んだ。そんな言葉を口にしたら現実になってしまうような気がした。「このままじゃ弱る一方だ。今夜中になんとかしなきゃいけない」


「でも、私たちもいろんな方法を考えてみたけど、それは無理だっていう結論に達したよね。ひょっとして神沢君は何か良い方法を思いついたの?」


「俺がモップを背負っていく」俺は立ち上がってカーテンを開けた。「さいわい雨は上がった。最寄りの動物病院に、今から行こう」


「おんぶ」と高瀬は言い換えた。そして首を傾げた。「神沢君、本当にそんなことできるの? 最寄りって言ってもここから2㎞もあるんだよ? すぐそこのコンビニに行くんじゃないんだよ? それにモップの体は、タクシーやバスに乗車拒否されるくらい大きいのに」


「以前ならまず不可能だっただろうな」俺は肉付きがよかった頃のモップを思い出して切なくなった。「でもモップはこの二週間でげっそり痩せたし、逆に俺はモップのおかげで体重と体力を取り戻した。まったく、皮肉なもんだよ。今なら、2㎞くらい背負って歩ける自信がある」


「わかった。それじゃあ私は、荷物を持つね」徒歩での通院計画に賛同した高瀬は、鼻をすすりながらスマートフォンを取り出した。「今は診療時間外だから、きちんと診てもらえるのか念のため、その動物病院に確認をとってみよう」

 

 高瀬はこんな非常時でも冷静だった。彼女の言う通りだ。無駄足に終わることだけは避けねばならない。闇雲に外出の準備を始めていた俺はいくぶん反省した。

 

 とはいえ高瀬はひどい鼻声のせいで用件をうまく話せそうになかった。だから俺が代表してその動物病院に電話をかけることになった。応対したのは獣医本人と(おぼ)しき男の人だった。「しばた動物病院です」と彼は言った。「夜分遅く恐れ入ります」と俺は月並みなことを言った。それからモップと出会ってから倒れるまでの経緯や、自分たちの置かれている状況をできるだけ子細に、そして正直に話した。


 その獣医(おそらく柴田という苗字なのだろう)は実に親身になって耳を傾けてくれた。そしてこう言った。「うちは僕一人でやっている小さな動物病院だから、本当だったら夜は受け付けてないんだけど、事情が事情だ。もし可能ならばどうにかしてその子を連れておいで」と。


 俺は感謝と到着予定時間を伝え電話を切った。


 2㎞先の「しばた動物病院」に向かう道すがら、俺と高瀬はほとんど何も喋らなかった。話すべき話題もなければ何かを話す気力もなかった。道中、高瀬はどういうわけか自動販売機でペットボトルの水を買った。俺は背中にたしかな重みを感じながら、晩春の夜道を歩き続けた。


 電話での印象に(たが)わず、獣医は柔和な人だった。


 名札にはやはり「柴田」とあった。見た感じでは40代後半から50代前半といったところだけど、言動には高度な専門性が必要とされる職業に従事している中年男特有の横柄さがかけらもなく、親子ほどの年齢差がある俺たちにもやわらかい物腰で接してくれた。着ていたのが白衣ではなくやけに襟の大きなシャツだったことも手伝って、獣医師というよりはむしろ、隠れ家的なジャズ喫茶のマスターみたいに見えた。

 

 俺は彼の指示に従ってモップを診察台にゆっくり下ろした。診察台は卓球台よりは小さく、麻雀卓よりは大きかった。モップはそこに力なく伏した。間を置かず診察が始まった。柴田医師は聴診器でモップの胸の音を聴き、背中やリンパ節を触診し、目や歯茎の具合をたしかめた。


 見れば彼の手には多数のひっかき傷があった。左手の薬指に至ってはじゅくじゅく()んでいて、いかにも痛痒そうだった。これじゃあ結婚指輪なんかはめられないな、と俺は思った。俺の視線に気づいて彼は「ひどいだろ」と自嘲気味に言った。「手を見れば同業者かどうかすぐにわかるんだ。生傷が絶えないからね。まあ仕事柄こうなるのは仕方ない。いわば名誉の負傷みたいなものさ」


「この人、良い獣医さんだよ」と高瀬は耳打ちしてきた。「手にこれだけ傷があるってことは、普段から動物を怖がらないで素手で診察や治療にあたっている証だから」


「なるほど」と俺は納得した。獣医にもピンからキリまであるらしい。

 

 柴田医師は聴診器を耳から外していた。「そういえば、名前をまだ聞いてなかったね」

 

 神沢です、と俺が言うと彼はいささか困惑した。すかさず高瀬が「すみません、モップです」と答え直し、俺の顔を赤くさせた。


「よしモップ君、がんばろうな」と柴田医師は力強く激励した。「このお兄ちゃんお姉ちゃんとまた遊ぼうな」


 処置はまず注射を打つことから始まった。針を背中に刺されるとモップは狂ったように暴れ、柴田医師に噛みつこうとした。柴田医師は名前を呼んでなだめ、どうにかこうにか注射を打った。


 そのあいだモップは苦悶の表情で悲鳴をあげ続けた。そのような痛々しい姿を見ていると、俺は自分の判断が果たして正しかったのか自信が持てなくなってしまった。モップを無理に外に連れ出さず、馴染みのある俺の家で時間を過ごさせてやった方がよかったんじゃないか。そんな考えが頭をよぎり、いたたまれなくなったりもした。

 

 その後も柴田医師はひとり忙しなく診察室内を動き回り、次々とモップに処置を施した。俺と高瀬は奇跡よ起これと祈る思いで治療の様子を見守っていた。


 モップが診察台のうえで起き上がったのは、点滴をはじめてから30分が経った頃だった。俺は思わず「どうした!?」と声をかけ、高瀬は久しぶりに顔の(こわ)ばりを解いた。モップは何かを訴えるような目で俺たちを見てきた。


「ずっと口で息をしていたから喉が渇いたんだ」と俺はモップの心中を汲み取った。すると高瀬は、「先生、お水を飲ませても良いですか」と尋ねた。かまわないよ、と柴田医師は新しい薬剤を準備しながら答えた。


 高瀬は手荷物からモップ愛用の水飲みを取り出し、そこに先ほど自動販売機で買ったペットボトルの水をなみなみ注いだ。モップはうまそうにその水を飲んだ。残さず飲んだ。たまらなくなって俺が頭を撫でてやると、ありがとうと言わんばかりの顔で微笑み返してくれた――少なくとも俺にはそう見えた――。


 それが俺たちの見たモップの最後の犬らしい姿だった。


 再び診察台に伏したモップが、もう二度と起き上がることはなかった。

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