第52話 このつらさだけは、大人になっても覚えておくんだよ 4
さいわい月島はすぐに意識を取り戻した。彼女は「最近夜鍋をして手袋を編んでいて寝不足でね』と弁明したけれど、もちろん誰もそれを真には受けなかった。やがてフリスビー組がこちらに戻ってきたので、以降は彼らも交えて存分に遊んだ。
トランプでもボードゲームでも敗者には罰ゲームが待ち受けていたが、あろうことかいずれも敗者は俺だった。やむなく俺はひとりひとりの良いところを一分間相手の目を見つめながら言い続けたり、他の花見客のところへ行って「今は西暦何年ですか」とタイムトラベラーのふりをして尋ねたりした。自分の勝負運のなさを俺はほとほと呪った。
「みんな、記念写真でも撮ろうよ」
帰り支度もあらかた終えたところで、柏木がそう提案した。もうすでにカメラを構えている。
「”記念”ってちょっと大袈裟と思うかもしれないけど、こういうなんにもない平和な一日って、次はいつあるかわかんないよ?」
「なんにもない、ねぇ」
花見の日に失神するというおよそ平和とは言い難い体験をした月島がシニカルにつぶやく。
「それじゃあ、わたしが撮りますよ」と日比野さんが慎ましく撮影係を買って出た。すると柏木がすかさず「何言ってんの」と一蹴した。「日比野っちも映らなきゃだめでしょうが」
日比野さんはどことなく嬉しそうだった。
「でも、誰か一人はカメラのシャッターを押さないといけませんよ?」
「そんなの通りかかった人に頼めばいいじゃない」柏木は目ざとく気の弱そうな30前後の男を見つけ、「そこのお兄さん」と甘ったるい声で近づいていった。そしていとも簡単に承諾を取り付けてきた。持ち前の行動力の成せる業だった。
もちろん写真は今日一日を過ごした桜の木の下で撮ることとなった。
俺たちは撮影者の指示に従って、微妙に右に動いたり左に動いたりした。そのうちどういうわけかカメラマンはもどかしそうに首を傾げるようになった。ワンちゃんが一匹だけで座っているとどうもバランスが悪いから、ワンちゃんだけは単独で撮るか、もしくはワンチャンを挟むように二人座ってくれるかな? と彼は言った。
無論モップだけを除外するという選択肢をとることはあり得ず、俺たちは「二人座ります」と返した。
その二人をどうするかは、モップの共同飼い主が誰と誰であるかを考えればおのずと決まった。俺と高瀬だ。俺と高瀬がしゃがんで皆で一斉に笑顔を浮かべたのと同時にシャッターが押された。
そのようにして撮れた写真の仕上がりは、「見事」としか言いようがなかった。桜と空と人と犬の構図が完璧だった。今日の日を象徴する一枚と言っても差し支えなかった。俺たちがそれぞれの言葉で感嘆の声を上げていると、こう見えても実は僕は新聞社のカメラマンなんだよ、とその男の人は打ち明けた。そして法外な撮影料を要求するでもなく静かに去っていった。
こうした思いがけない幸運に恵まれるのも、さまざまな人が集う花見ならではである。
「あーあ。また明日から学校だな」
太陽が生気のない声で嘆く。帰り支度も済んで、我々は公園の出口に向かっていた。空には気の早い月が浮かんでいる。
「嫌なことを思い出させないでよ」と柏木は抗議するけれど、彼女にはもっと大事なことを思い出させる必要がありそうだった。
俺は五月のカレンダーを思い浮かべて口を開いた。
「早いもんで二週間後にはもう中間だぞ。一学期中間テスト。おまえもちょっとは勉強しておいた方がいいぞ。高校生ってことを忘れるなよ?」
反射的に柏木は耳を塞いだ。
「もういやだいやだいやだ! 決めた! あたし、家に帰らない。家に帰らなきゃ明日も来ないしテストの日も来ない!」
「出ました」月島が笑う。「アインシュタイン博士も驚きの謎の柏木理論」
「でも」と柏木に一定の理解を示したのは高瀬だ。「帰りたくないっていうのは、よくわかるけどな。うん、わかる。だって今日はいい日だったもん。いつまでもこのまま遊んでいたい気分」
「いっそオールナイトで夜桜見物と洒落込むか?」
太陽がそう冗談まじりに笑ったところで、俺の右腕は後方に伸びきった。振り返れば、リードの先でモップが座り込んでいた。
「どうしたモップ。歩いてくれよ。帰るんだぞ」
モップはかたくなに歩くことを拒んだ。
俺はため息を吐いた。「なんだよ。おまえまで帰りたくなくなっちゃったのかよ」
「モップも楽しかったんだねぇ」高瀬が頭を撫でてやる。「写真の時もそうだったけど、すごくいい顔してるもの」
「でも」月島は、神経質なサッカーの主審みたいに腕時計をしきりに見る。「帰らないわけにはいかないんだよな」
日比野さんが続く。「今日は鳴桜高校の先生方が市内の公園を夜回りするそうです。そろそろ帰らないと、本当に面倒なことになってしまいます」
俺はうなずいた。「停学だの退学だのはもう勘弁だぞ」
誰が何と言おうと、モップはてこでも動かなかった。強情を張る彼の説得に、高瀬があたる。
「それじゃあモップ、私が約束するよ。来年の春もまたモップの大好きなこのさくら公園でお花見をしよう? もちろんみんなも一緒。それならいいでしょ?」
そういえばモップと出会ったのもこのさくら公園だったな、とのんびり記憶を辿っている場合ではなかった。その高瀬の新しい約束は、ある古い約束を反故にしてはじめて成り立つものだった。
「高瀬、ちょっと待って」と俺は慌てて両者のあいだに割って入った。「俺の記憶がたしかならば、高瀬がモップの正式な飼い主を責任もって見つけるという条件で、俺はこいつの世話を引き受けたはずだ。あくまでも俺は、”つなぎの飼い主”だったはずだ。それなのに、来年の春もモップ込みで花見をするってのは、いったいどういうことなんだよ?」
それを聞くと高瀬は、「この人は春の陽気で頭がどうかしてしまったんだろうか?」とでも言いたげな顔で俺を見てきた。でも俺の頭はいたって正常なはずだった。塩化ナトリウムの化学式はNaClであり、スイスの首都はベルンだ。1+1=2。大丈夫。俺の頭は正常だ。彼女がしらばっくれる気なのは明白だった。
「つべこべ言ってないでこれからも飼ってあげればいいじゃない」柏木は無責任に抜かす。
「おいおい悠介」と太陽も続いた。「もう実質モップもオレたちの仲間みたいなもんじゃねぇか。何をいまさら水くさいこと言ってるんだよ」
「そうだそうだ。神沢はそれでも男か。インポテンツなんじゃないの」
どさくさに紛れて、月島はあられもない疑いをかけてくる。
「僭越ながら言わせてもらいますと」日比野さんはメガネをかけ直す。「モップ君は神沢さんと一緒にいたいんですよ。わたしは犬が苦手ですがそれくらいはわかります。“嘆きの女生徒”からすると、そりゃもう神沢さんとモップ君は名コンビでしたよ」
日比野さんまで、と俺は思った。あれよあれよという間に五対一になってしまった。でも少数派にだって言い分はあった。
「そりゃあみんなは、モップとたまに会って『かわいいね』『元気か』だからいいさ。気楽なもんだ。でも俺は違う。こんな馬鹿でかい図体の犬を毎日世話をしているこっちの身にもなってみろ。
致命的な口の臭さのせいで夜中に何回も目は覚めるし、雨降りで散歩に行けない日にゃまるで全世界の犬の敵を見るような目で見られるし、気難しい性格かと思えば案外寂しがり屋でトイレにまでついてこられるし、風呂くらいゆっくり入ろうとしてもそれすら邪魔されるし、犬のくせして猫をかぶるし狸寝入りはするし……とにかくもう大変なんだぞ」
太陽がくすっと笑った。「なんだかんだ言っても、いつでも一緒なんじゃねぇか」
そうだ、と俺は心で素直に答えた。いつでも一緒だから例の発作が起きても怖くないのだ。発作が始まっても吐くには至らないから最近は体重が元に戻りつつあるのだ。
どういう理屈でそうなるのかは今でもまったくわからない。でもとにかくモップに抱き付きさえすれば吐かずに済む。それで何の問題があるのだろう? 少なくとも偉そうな心療内科医様に抱き付いたってこの発作が治りはしないことははっきりしている。ならばモップ様々である。
実の母親に精神的な痛手を負わされた不幸を上書きしてくれたのは、モップと出会った幸運だった。
どうやら俺は、モップが新しい飼い主に譲渡されて一番困るのは自分自身であることを、認めないわけにはいかないようだ。
「わかったよ」と俺は言った。「こいつを飼うよ。そのかわり、みんなもかわいがってやるんだぞ。こうなったら、全員共同飼い主だ。連帯責任だ。モップだってみんなになついてるんだからな。嫌とは言わせんぞ」
誰も嫌とは言わなかった。すぐに動いたのは高瀬だ。手を叩いて、会心の笑みで、座ったままのモップに話しかける。「ねぇモップ。あらためて約束ね。来年の春も、このさくら公園でお花見しよう。ね?」
「オレも約束。焼き肉もつけちゃる」と太陽がさっそく共同飼い主として仕事をした。「来年は、そうだな、うちからバーベキューセットを持ってきてやるよ。使うのはやっぱり炭だ。炭で焼いた肉はマジでうまいぞ、モップ。ドッグフードなんか食えなくなるな」
それを聞くとモップはやっと重い腰を上げた。それから、さっきまでみんなで過ごしていた桜の木をちらっと見た。そして歩き出した。それを見て俺たちは、人の言葉がわかるんだな、と自分たちに都合の良いように解釈したわけだけど、モップがこの時わかっていたのは、まったく別のことだった。
この時モップだけは、高瀬や太陽との約束が果たせないことがわかっていた。
モップが死んだのは、この楽しかった春の日からわずか一ヶ月後のことだった。




