第52話 このつらさだけは、大人になっても覚えておくんだよ 3
「悠介、モップを借りるぞ」と太陽が言ったのは、料理対決が月島の優勝で終わってちらほらみんなの口からあくびも出だした昼下がりのことだ。
一度でいいからこれがやってみたかったんだ、と彼は鞄からフリスビーを取り出し、モップを10メートルほど先の開けた場所に連れていった。柏木もついていった。花を見ているより体を動かしている方が性に合うのよねぇ、と彼女はスタイルの良さを誇示するように言った。
そうして桜の下には四人が残るかたちとなった。四人になって三分が経過した。三分のあいだ誰も何も喋らなかった。
「しかし静かだね」と月島が沈黙に耐えかねたように口を開いた。
「そりゃこうなるよ」と俺が続いた。「うるさい奴の一位、二位、三位がごっそり抜けたら、静かにもなるよ」
二位の太陽が投げたフリスビーを三位のモップが見失ってぽかんとしている。一位の柏木がそれを見て笑う。馬鹿笑いだ。その声がここまで聞こえる。
「神沢、なんか面白い話して」月島は唐突にそんなリクエストをした。
「ないよ」俺は手を振る。「あったら、とっくにしてる」
「なんかあるでしょ。かわいい女子高生が退屈してるんだぞ、三人も。男としては腕の見せ所だろうが」
「面白いかどうかはわからんが」ぱっと思いついた話題がひとつだけあった。それはずっと心に引っ掛かっていたことでもあった。「他でもなく、例の幽霊騒ぎの話だ」
「神沢、もうつまんない」
「そう言わず聞いてみようよ」と高瀬がフォローを入れてくれたので、俺は気兼ねなく続けた。
「カンナ先生に校舎から光のメッセージを送った当日、俺が自分の推理を話すと月島は80点だって言ったよな。ぎりぎり合格だ、と。あれは何が間違っていて100点じゃなかったんだ?」
「神沢はね、ひとつ大きな思い違いをしていたんだよ」
「思い違い?」
「そう。お守りが偽物であること見抜いた神沢は次にこう考えた。実は月島はオバケなんか怖くないんだ、って。ブッブー。残念。私はね、本当にオバケが怖かったんだ」
嘘だろ? と俺が言うより先に、「嘘でしょ?」と高瀬が聞き返した。
「嘘じゃないんですよ」とそれに応じたのは日比野さんだ。「わたしたちの最初の予定では、月島さんには、昼間の校内で七不思議の噂を広める役をこなしてもらうつもりでした。ところが、神沢さんたちが捜査に立ち上がったことで、状況は変わりました。
夜の校舎に忍び込んでくる神沢さんたちの行動を、監視する役割の人が必要になったんです。そしてそんな大役を任せられるのは、みなさんと仲良くしている月島さんをおいて他にはいません。『本物の幽霊が出たら嫌だ』と半泣きで訴える月島さんをなんとか説き伏せて、スパイの仕事を引き受けてもらいました。あとは皆さんも知っての通りですよね。月島さんは立派に役目を果たしてくれました」
俺と高瀬は顔を見合わせた。高瀬が口を開く。「それじゃあ、夜間捜査中に月島さんがびくびく怯えていたのは、演技じゃなかったってこと?」
「まあね」月島ははにかむ。「もうね、怖くて怖くて、家に帰ったら『バタンキュー』って気を失って、そのまま朝になってたくらい」
「それは嘘だ」と俺は言った。
「それは嘘だ」と高瀬も言った。
「うん。今のは話を盛りすぎた」と月島は認めた。「というか日比野ちゃん。拙者が半泣きしたことをしれっとばらさないでくれたまえ」
「ごめんなさい、つい」日比野さんはあどけなく舌を出す。ややあって、はぁ、と嘆息した。「そんな月島さんのがんばりを、わたしのうっかりミスで帳消しにしてしまったんですよね……。不甲斐ないかぎりです」
「まだ引きずってるの?」と月島は言った。「日比野さんも幽霊役なんて乗り気じゃなかったのに、“嘆きの女生徒”として迫真の演技で多くの生徒を震え上がらせたじゃないの。それで充分。ドンマイドンマイ」
自分で正体を暴いておいてなんだけど、ここは俺も励ます側に回った方がよさそうだ。「A組が仕掛けてくる怪異の中で、一番怖かったのは“嘆きの女生徒”だよ。お世辞じゃなく。何度捜査を打ち切ろうと思ったことか。なぁ高瀬?」
高瀬はうなずいた。「特にあれだよね、最後のは怖かったよね」
俺はオーバーにうなずいた。「そうそう! あの時は天まで日比野さんに味方したよな。登場に合わせてちょうど雷が光るなんて反則だよ。こっちは絶叫するしかない。汚い話で悪いけど、ちびるかと思った」
日比野さんの表情は晴れるどころか、むしろ一層曇った。
「雷、ですか。なんのことでしょう?」
「またまたぁ」とすぐに月島が茶化す。「二回目の夜間捜査の日だよ? モップ君までついて来た日っていう方がわかりやすい?」
犬が苦手な日比野さんがあの夜のことを忘れているわけがなかった。
「はい。モップ君の鼻息とか眼差しに耐えられなくなったわたしが、東階段の踊り場から逃げちゃった日ですよね? やっぱり情けないですよ」
「でもその後、臨機応変に立ち回ってもう一働きしてくれたじゃない」と月島は、噛み合わない歯車を直すように言った。「日比野さんが東階段で通せんぼする”プランA”が失敗に終わったことで、急きょ私たちは、事前の打ち合わせ通り”プランB”を開始した。
まずは私が神沢の懐中電灯を使えなくする。そして暗い音楽室で血まみれの手首を見せて驚かせる。私が悲鳴をあげながら先頭に立って廊下を走る。ただし安全が見込める東ではなく何が起こるかわからない西へ。でもはぐれたくないから、みんな必死でついてくる。すると西の女子トイレから女の声が聞こえてくる。『カエセ』とそこにいる霊は――正体は演劇部の関口さんだけど――低い声でうめいている。
台本ではここで終わりだった。そこまでやれば、神沢たちを追い払えると踏んでいた。私たちが今言っているのは、その後」
「その後」と日比野さんは無感動に繰り返した。
「日比野さんはそんなんじゃ生温いと思ったんだよね? もう二度と実習棟の三階に部外者を侵入させない。そう決意したんだよね? だから、モップ君が怖いにも関わらず、機転を利かせて――勇気を振り絞って――西階段の踊り場に立っていてくれた。そうでしょ?」
「わたし」と日比野さんは言いにくそうに下唇を噛んだ。それからこう告げた。「わたし、西階段の踊り場になんか、行ってませんよ?」
寒気が走っているのは、俺の背中だけじゃないはずだ。日比野さんは嘘をついて他者を困らせることに喜びを見い出すような人ではない。俺も高瀬も月島もそれはよくわかっている。だからこそ言葉が出てこない。すると「だいたいですね」と日比野さんが声を張った。
「考えてもみてください。わたしに与えられた役はあくまでも『東階段の嘆きの女生徒』なんですよ? それなのに西階段に行ったら、辻褄が合わなくなるじゃないですか。七不思議を作り直した意味がなくなってしまいます。月島さんはわたしを買い被りすぎですよ。あの夜わたしはモップ君が怖くて仕方なくて、東階段から退いた後、控え室のLL教室に籠もりっきりだったんです。しばらく震えが止まりませんでした。そんな状態で西階段に行けるわけがありません。怖がらせる方が怖がっているなんて、笑い話ですからね」
生暖かい風が桜の木をゆさゆさと揺らした。風が止むのを待って俺は口を開いた。
「一度整理させてくれ。日比野さんは西階段には行っていない。それは間違いないんだね?」
間違いありません、と日比野さんは断言した。
俺は引き攣った顔を高瀬と月島に向けた。「でも俺たちは、西階段の踊り場でたしかに見たよな? 昔のセーラー服を着た、女子生徒の姿を」
「一瞬だけど」と高瀬は肯定し、「カミナリが浮かび上がらせた」と月島は情景を述べた。
「それじゃあ」俺は目をしばたたく。「あれは、誰なんだ? というか、何なんだ?」
「そういえば」と高瀬が前髪をかき上げたままつぶやいた。「松任谷先生、こんな風に話していたよね。『嘆きの女生徒のモデルになった生徒の事故が起きたのは、西階段だ。だからもし仮に幽霊がいるとして、西階段に出ることはあっても東階段に出ることはない』って」
「そういえば」月島も何かを思い出したようだ。「モップ君、それまではどんな仕掛けにもまったく反応しなかったのに、あの時だけはなぜかギャンギャン吠えたよね。西階段の踊り場に向かって」
モップには霊感が備わっていると主張して彼を捜査に同行させたのは、他の誰でもなく俺だった。しかしながら今の俺には、高瀬と月島が言わんとしていることに対する反論材料があった。
「でもさ、松任谷先生はこうも話していたぞ。『事故に遭った女生徒は亡くなってなんかいない。今もどこかで生きている』って。そう、生きているんだ。生きているのに……その、なぁ?」
日比野さんは何かを言いたそうな顔をしていた。俺は遠慮なく話すよう促した。
「あのですね。わたし、今回幽霊を演じるにあたって、自分なりに勉強したんです。霊のことを。で、なんでも一口に霊といってもですね、いろいろあるらしいんですよ。
霊と聞いて皆さんがイメージするオバケはたぶん死霊です。読んで字のごとく、亡くなった方の霊ですね。それとは別に、生き霊というのもあるそうなんです。特定の誰かや場所に強い思いを持つ生きた人の体から霊魂が抜け出して、その誰かや場所に影響を及ぼすことがあるんですって。霊の世界もわたしたちの世界と同じで、複雑なんですね」
「ということは……」高瀬は二の句が継げない。
俺は息を呑んだ。
「つまり、なんだ。俺たちは本物の霊に、遭遇していたってことか」
長い沈黙があった。それを破ったのは「バタンキュー」の声だった。
なんてこった。月島が、白目を剥いて気を失っている。