第52話 このつらさだけは、大人になっても覚えておくんだよ 1
エルニーニョとかいう毒霧が持ち味の覆面レスラーみたいな名の現象のせいで冷夏だ暖冬だと気象予報士がやかましい一年だったけれど、春になってみれば今年も例年通り桜前線はこの街まで北上し、市中の木々に開花を命じていった。
満開が近づき見頃を迎えたこの日、俺たちは市内で最も多くの桜がある例のさくら公園の中でもとりわけ立派な木の下にビニールシートを広げて陣取り、春と桜と晴天と休日を午前中から満喫していた。まぁ平たく言えば花見だ。
俺がこうして仲間とのんびり花見なんぞに興じていられるのも、高校に退学を迫られる危惧がなくなったからに他ならない。すなわち、生徒会長――周防まなとの姉は幽霊騒ぎを解決した俺との約束を守って、弟に大目玉を食らわせてくれたのだった。
廊下で周防とすれ違った際に、「姉さんを利用するなんて姑息だぞ」と言われたけれども、あいにく盗撮した写真で脅しをかけてくるようなシスコン野郎に卑怯者扱いされる筋合いはなかった。
そして周防はどうやら姑息という言葉の意味を履き違えているようだった。お節介と知りつつも同じ高校に通うよしみで俺は「姑息は一時しのぎという意味だぞ」と指摘してやった。すると彼は「僕はあまり日本にいないから日本語のことはよくわからないんだ」と憎まれ口を叩いて立ち去っていった。
とても俺が言えた義理じゃないけど、どこまでもかわいげのない奴である。
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時刻が正午に近づき、腹の虫の鳴き声もごまかしきれなくなってきたところで、「そろそろ始めようか」と高瀬が提案した。そしてそれを受けて女性陣がやや緊張気味に荷物をまさぐりだした。
ついに来たな、と俺は深呼吸して身構えた。これから実施されるのは、モップも含む我々男性陣を審査員にした”恐怖の料理対決”である。うら若き乙女たちの手料理を審査する(させていただく)立場でありながら、不躾にも恐怖という枕詞を使わねばならない理由は一つしかない。
俺はその理由を生みだしている張本人の様子をそっとうかがってみた。おそろしいことに、彼女は自信みなぎる表情で弁当箱の包みを解いている。その堂々たる手つきに自らの料理の腕を疑う様子は微塵もない。そこにいるのはいつもと変わらぬ誇り高き高瀬さんだ。
数分後に訪れる――決して逃れることのできない――試練の時を想像すると、ひとりでに溜め息が出た。それははかない桜の美しさもかすむような絶望的な溜め息だった。ただ俺は、一つの決意を持って今日の日を迎えていた。
「おい悠介」太陽が顔を引き攣らせて耳打ちしてくる。「高瀬さん、相変わらず”アレ”なんだろ?」
「ああそうだ」俺は脳内で”アレ”を”料理下手”に置き換えた。「ひいき目に見ても救いようがないレベルだ。ちょっと鍋使いを仕込んだオランウータンの方がうまいんじゃないか?」
「あのよ、本当にどうにかならんのか? これから先も何かと手料理を食わせられる機会はあるぞ。その都度いちいちこんなにブルーになってたら、楽しめるもんも楽しめねぇよ」
「太陽、苦労をかけたな」と俺は友をねぎらった。「でもそれも今日で終わりだ。俺に任せておけ」
「どういうことだよ?」
「俺は今日、彼女に自覚させる。『私は料理が下手なんだ』と」
「おまえさん、そんなことできるのかよ?」
俺は信念をもって深くうなずいた。
「誰かがやらなくちゃいけないんだ。現実から目を背けちゃいけない。雪かきやトイレ掃除と同じだ。誰だってできることならしたくない。でも世のため人のため誰かがやらなきゃいけない。だからやる。じゃあ高瀬の”アレ”を自覚させるのは誰だ? そんなもん、俺しかいないだろ」
「悠介、よく言った! 今のおまえは最高に格好良いぞ!」絶賛するやいなや、太陽は声の調子を整えた。「でもよ、言い方に気をつけないと、最悪の場合『神沢君なんかもう知らないんだから! ぷんっ!』ってなっちゃうぞ?」
「高瀬のややこしい性格は俺もわかってるつもりだ」
俺は太陽の下手くそな高瀬の声真似を無視してモップの背中を撫でた。
「俺たちが高瀬の弁当を食べた後に『まずい』とあけすけに言っちゃ、そりゃあ角が立つさ。ブラック高瀬も降臨するさ。そこでモップの出番だ。こいつ、こう見えても味にはうるさいんだよ。俺たちよりよっぽど繊細な舌を持っている。そんなモップが高瀬の料理を一口食えば、ひとたまりもないはずだ。そこがチャンスというわけだ。
『犬は正直だから』というのは、高瀬自身が前に言った言葉だ。だから高瀬はモップには強く出られない。そこですかさず俺が『練習すれば必ず腕は上がる』とフォローを入れる。どうだ? これならうまくいきそうだろ?」
「完璧だ」と太陽は言った。「それでいこう。よし、モップ。オレたちの舌と胃腸の保全はおまえさん次第のようだ。っていうかもう、おまえさんもすっかり馴染んで、俺たちの正式メンバーみたいだな。よろしく頼むぞ、相棒!」
心なしかモップは嬉しそうだ。舌をべろんと出して、太陽に媚を売っている。「正式メンバー」か「相棒」という言葉が胸に響いたのかもしれない。
ふいに高瀬と目が合う。水面下で俺たちの作戦が動き出したことも知らずに彼女は微笑んでいる。心が痛むが、もう後には引けない。腹をくくるしかない。
休日の花見の日でさえ、何かと闘わざるを得ない自分の運命をつくづく怨めしく思う。