第51話 ずっと探していた場所 3
「すべてはカンナ先生が退職を発表したことから始まった」と俺は声のボリュームを絞って話し出した。
「寝耳に水だったのは、先生が担任を務める2年A組の連中だ。彼らはてっきり、先生は出産したら然るべき時期に復職するものだとばかり思っていたんだ。さすがに産後一週間で赤ちゃんをオンブしながら戻ってくることはないにしたって、最も担任とのきめ細やかな意思疎通が必要とされる学年――三年生になる頃には、担任として再度自分たちを厳しくも優しく導いてくれる。そう信じていた。
ところがカンナ先生の下した決断は違ったものだった。先生はどうすべきか悩みに悩み抜いたすえ、出産を機に教師を辞め、子育てに専念することにした。先生を慕っていたA組の生徒たちの落胆は決して小さくなかった。鳴桜一の名物教師の受け持つクラス『カンナ組』に属しているのは鼻高々だったし、居心地も良かった。できることなら、卒業式はカンナ先生に名前を呼んでもらいたかった。
でも、こればかりは仕方ない。先生は過去に二度流産している。今度の出産に懸ける思いの強さがわからないほど、自分たちはもうガキじゃない。駄々をこねるような真似をして先生を困らせるわけにはいかない。他の誰でもなく先生自身が決めたことじゃないか。ならばその意思を尊重しよう。せめてわだかまりが残ることのないよう、気持ちよく送り出してやろう。『カンナ組』の最後の構成員になるA組の生徒たちは、そんな風に認識を共有させていった」
「団結したわけだ」と言って太陽は拳を握った。
俺は月島の斜に構えた性格をからかうカンナ先生を横目で見てうなずいた。
「団結した彼らは先生に内緒で話し合いの機会を持つようになった。議題は『残り一か月でカンナ先生のためにみんなで何ができるか』だ。カンナ先生は自分たちにとって――いや、多くの鳴桜生にとって――特別な存在だった。特別な人にはやはり特別な別れがふさわしい。ありきたりで通りいっぺんなことはしたくない。彼らは知恵を絞り、アイデアを出し合った。何かないだろうか? と。自分たちの感謝の言葉をストレートに伝え、なおかつ二度の流産を乗り越えて出産に挑む先生を勇気づける方法は、何か、ないか。考えろ、みんな」
柏木と太陽は実際に考えた。2年A組の生徒に感情移入しているらしい。
「これはあくまで俺の想像になるが」と俺はA組の会議風景を思い浮かべて続けた。「話し合いの最中、誰かが窓の外を見たんだろうな。なにげなく、頬杖でも突きながら。窓の外には産婦人科があった。今俺たちがいるこの建物だ。校舎と産婦人科の距離はそれほど離れてはいなかった。屋上で干されているシーツの枚数がわかるほどだ。彼は/彼女は、そこで閃いた。校舎から産婦人科に向けてメッセージを送ることができれば、それは面白いんじゃないか。前代未聞の出来事だし、いわゆる『サプライズ』になる」
「メッセージを送る」柏木にはまだ理解できないようだった。「どうやって?」
俺は顎をしゃくって外を示した。
「夜の校舎を大胆に1フロアまるごと使って、窓からこの病室へ思いを届けるんだ」
「光か!」太陽が瞳を光らせる。
俺は首肯した。「ケミカルライトって聞いたことないかな? サイリウムとも呼ぶみたいだけど。アイドルのコンサートやなんかでファンが振る色とりどりのスティックと言えばわかるだろ。あとは祭りの露店でも腕輪タイプのものが売ってたりするよな。
発光する原理は正直俺もよく知らん。きっと小難しい化学反応でも起きているんだろ。でもとにかく、火や電気に頼らずともかなり派手な色が出せる。校舎と産婦人科の距離なんか問題にならないほど派手な色が。今はさまざまな形状のケミカルライトがあるようだ。そしてそいつを大量に使えば、文字を作るのはさほど難しいことじゃない。幻想的でいてカラフルな、光の文字の完成だ」
「そいつはたしかにサプライズだ」と太陽は言った。
俺はうなずいた。
「サプライズを実行するため、彼らは動き出した。まずは自宅近くの産婦人科に通っていたカンナ先生を説き伏せ、この産婦人科に転院させた。『学校帰りにお見舞いに行きたいんです』というようなことを生徒に言われれば、先生は無下に断れなかったはずだ。卒業まで見届けることができない後ろめたさも少なからずあっただろうしな。
先生が入院することになったのは、この三階の病室だった。となれば、やはり校舎も三階を使いたい。ところが教室棟の三階からだとシラカバの木が邪魔になってしまう。では実習棟三階だとどうだろう? OK。あいだを遮るものは何もない。見晴らし良好。先生は退任式を終えたらそのまま入院することになっている。決行するのはその日の夜にしよう」
「それが今夜ってわけだな」と太陽が言った。
「そうだ」と俺は言った。「ただひとつ、問題があった」
「問題?」と柏木が聞き返した。
「ふたりもよく知っている通り、実習棟三階の街側――産婦人科が見えるサイドには俺たちの秘密基地である旧手芸部室も含め6つの教室がある。6つの教室にはそれぞれ仕切りを隔てて大きな窓が2枚ずつあるから、計12枚の窓を使ってカンナ先生にメッセージを送るわけだけど、たった12文字では――」
そこで俺は、たまらず口を噤んでしまった。声が震えて言葉が続かなかった。どうやら何かが心の琴線に触れたらしかった。
幽霊たち、必ず成功させてくれ。カンナ先生は俺にとっても恩人なんだ。不器用な俺の分もがんばってくれ。俺は歯を食いしばって強くそう思った。そして口を開いた。
「たった12文字では、とてもじゃないけど、カンナ先生への思いのすべてを伝えきることはできなかったんだ。贈りたい言葉に対して枠が少なすぎる。足りない。全然足りない。ならばいっそ、と彼らは考えた。いっそ、文字を作る、ばらす、また作るを繰り返して、すべての思いを伝えよう。感謝もねぎらいも進言も励ましも何もかも。
さいわいケミカルライトには自在に形を変えられるタイプのものもある。1枚目の窓では『は』の次は『の』、2枚目では『や』から『ば』、3枚目は『ま』から『か』ってな具合にしていけば、たった12の枠でも可能性は無限に広がる。たくさんのメッセージを伝えることができる」
「ん?」太陽は俺の目を訝しそうに覗き込んできた。「なんとなく馬鹿にされたような感じがするんだけど、なんでだろう?」
「気のせいじゃないかな?」と俺はすっとぼけた。咳払いして、頭を整理する。「そうなると、今度は、練習する必要がでてきた。文字を作り直すのに手間取ってテンポが悪くなったら興ざめだし、他の窓とのタイミングだって合わせなきゃいけないだろ? では練習はいつする? 言うまでもなく実習棟には昼間は常に生徒がいる。なにしろ高校だからな。となれば、練習をするのは実行日と同じ、夜――完全下校時間が過ぎた後しかないということになる」
柏木は口角を上げた。「やっと幽霊とつながってくるんだ」
俺は目尻を下げた。「俺たちも一回目の夜間捜査で太陽の後輩とその彼女に出くわしたように、最近は完全下校時間を守らない生徒が少なくなかった。そういう不埒な輩の存在は2年A組にとって練習するうえで大きなネックだった。もし部外者にばれてしまってカンナ先生の耳にも入る事態になればせっかくのサプライズが台無しになるし、なにより、校則を破る行為を担任として先生が許してくれるはずがない。
そこでA組が目をつけたのが、20年前の生徒会が考案し、ここ数年はすっかり忘れ去れていた鳴桜高校七不思議だ。実習棟三階に立ち入る生徒を絶やすべく、彼らは元の七不思議を自分たちの都合の良いように改変していった。そして出来上がった新七不思議を校内のいたるところで吹聴してまわった。『ねぇ、知ってる?』と」
「おいおい、ちょっと待てよ」
太陽はカーテンをめくって実習棟を一瞥した。
「いくら七不思議の恐怖で実習棟三階を閉鎖して2年A組以外の生徒を締め出したところで、そのケミカルライトとやらを使って夜に練習なんかしたら、こっち側は市街地で人通りが多いんだから、誰かに気付かれちまうんじゃねぇのか? 秋の文化祭の時期ならまだしもよ、今は春だ。『お宅の生徒が毎夜校舎に残って派手なことをやっている』なんて街の人にチクられたら、一巻の終わりだろ」
「実に良い指摘だ」
手を叩きたかったくらいだが慎んで、代わりにポケットから一枚の紙を取り出した。
「ふたりとも、こいつを見てくれ。おなじみ実習棟三階の見取り図だ。見ての通り、黄色でしるしをつけてあるところは、怪奇現象が確認された場所だな。さっきも言ったように、東階段、音楽室、女子トイレの三カ所は、二階から三階へ生徒を上げないためにA組によって仕立て上げられた心霊スポットだ。
では調理室の窓の鬼火と焼却炉の男のうめき声にはどんな意味合いがあったのか――言い換えるならば裏庭には何があるのか。俺にはそれが最後の最後まで謎だった。でも太陽、今おまえが口にした疑問に突き当たった時、その謎は解けたよ」
「うーん」と太陽は腕を組んで唸った。
「フロアの構成に注目してみてくれ」と俺は言った。「今俺たちがいる産婦人科から正面に見えるのは、LL教室や旧手芸部室があるサイドだ。たしかにこちらの6教室を使って練習すれば、どうしたって目立ってしまう。でも廊下を挟んだ向かいのサイドに目を転じてみると――」
「あ!」柏木は目を見開く。「同じなんだ!」
「そう。教室の数も広さももちろん窓の数も、全く同じなんだよ。そのうえ裏庭のその先にあるのは、市街地のこっちサイドとは対照的に雑木林やら川やらで、人っ子一人いやしない。ましてや夜だ。いるとすればそいつは、それこそ本物の幽霊だろう。だから通報される心配もない。音楽室や調理室のある裏庭サイドは、緻密な練習だったり本番さながらのリハーサルだったりを行ううえで、もってこいの場所だったんだ」
「なるほどー」とそろって口を開ける柏木と太陽は、まるで親鳥に餌をねだる小鳥のようで、なんだかいじらしい。しかし親鳥ならば、巣立ちを促すのも仕事のはずだ。
「ここまで話せばおまえたちもわかるんじゃないか?」
俺は二羽を試してみることにした。
「では問1。七不思議のひとつとしてA組が『裏庭から見える鬼火』の怪談を創りあげた理由を答えよ」
挙手したのは太陽だ。
「もし練習中に誰かが裏庭に来ちまっても、実習棟の窓に見えた発光体はケミカルライトじゃなく鬼火だと思い込ませるため、だな」
「よろしい」と俺は言った。「たぶん、一応見張り役は立てていたんだと思う。誰かが裏庭に来たら合図ひとつで練習を中断するような段取りになっていたんじゃないかな。でも万が一ということもある。いわば、保険だよな」
「バカ葉山のくせに」と柏木は並々ならぬ対抗心を燃やした。「次は絶対にあたしが答えるから」
「問2」と俺はあまり期待しないで言った。『焼却炉の男のうめき声』はある役割の人物の存在をカムフラージュするために創られた怪談だ。では、その人物が就いていた役割とは?」
「はぁ? なんかこっちの方が難しくない?」
「ははっ、柏木。オレはすぐにわかったぞ」太陽の声には、優越感が滲み出ている。ブラフではないみたいだ。「なぁ悠介。答えは『か』で始まって『く』で終わる役割だよな?」
当たっていた。俺がうなずくと、柏木は髪をかき乱して「海賊」とささやいた。意味がわからなかった。「監督だ」と俺は正しい答えを教えた。
「考えてもみろ。ケミカルライトで作った文字がどんな見え方をするのか、窓際で文字を作っていく生徒自身には、なかなかそれがわからないもんだ。万全を期すためにはやはり窓の外で誰かが文字の出来不出来を客観的にチェックする必要がある。『チ』はしっかり上の棒を斜めにしないと『テ』に見えるであるとか、『き』の横棒二本はもう少し離さないと『さ』とまぎらわしいであるとか。つまり監督だな。そして監督は男子生徒が務めていたんだろう。焼却炉にうまく身を隠して、12枚の窓の向こうに指示を送っていたんだ」
太陽は尊敬の眼差しで月島を見ていた。
「それにしてもよ、月島嬢と愉快な仲間たち、よく考えたよなぁ」
「たいしたもんだよ」と俺は同意した。「今夜のサプライズを実行に移すまでには、間違いなくいくつもの障害が立ちはだかっていた。最初の見通しではほとんど不可能に近かったんじゃないかな。でも連中は決して諦めなかった。七不思議をうまく活用することで、不可能を可能にしたんだ」
太陽の視線はカンナ先生に向いた。
「それもこれも、あの人を思えばこそってわけか。やるじゃねぇか」
「なーんだ」柏木のその声色には俺をなじる響きがある。「蓋を開けてみれば、幽霊の正体はめっちゃ良い子たちだったってことね。こんな殺伐としたご時世にほっこり心温まるお話しですねぇ。あー馬鹿臭い。誰かさんが『必ず幽霊の正体を暴いてやる!』なんて鼻息荒くして張り切らなきゃ、A組の人たちはもっと練習に集中できたのに。これじゃあ逆に、なんだかあたしたちが悪者みたいじゃない」
「しょうがないだろ」と俺は言った。「俺だって高校を辞めたくない一心で騒ぎを治めようと必死だったんだから。はじめから幽霊の意図がわかっていたら、捜査なんかしないで家でゴロゴロしてたよ。誰が好きこのんで夜の校舎に大型犬を連れて忍び込むかよ」
太陽が取りなすようにまぁまぁと林檎を勧めてきた。俺は林檎と弁解と罪悪感を喉の奥へ流し込んでから一息つき、まあいいや、と独りごちた。まあいいさ。これで憎き周防まなとには一泡吹かせることができるのだ。この勝負は俺の勝ちだ。
「とにかく、これが鳴桜高校幽霊騒ぎの真相だ。明日からはもう、幽霊が校舎に現れることはないぞ」
そこで月島がスマートフォンを見て席を外し、それから大きく深呼吸をした。どうやらちょうどサプライズの準備が整ったようだ。
「さぁ、いよいよ始まるぞ」
俺は校舎に控える幽霊たちに心でエールを送る。全校生徒を代表して、がんばれ。
「これから見える光景を、俺たちもこの目に焼き付けておこう」
「カンナ先生」
月島はあからさまに緊張していた。元担任の名を呼んだだけにも関わらず、彼女の声は病室の空気を一瞬にして張り詰めさせ、おのずと皆の耳目を引いた。今日が初見の大先生でさえ注意深く月島を見ていた。ベテラン教育者はこんな短時間でも看破しているのだ。「この子が緊張するなんてよっぽどだ」ということを。
月島は覚悟を決めたようにスマートフォンをしまって続けた。
「A組は私みたいな面倒な生徒がとくべつ多くて、先生には本当に迷惑をかけちゃいました。ごめんなさい。でも、最後にもう一回だけ、迷惑をかけさせてください」
「ちょ、ちょっと涼」ベッドの上のカンナ先生は戸惑いを隠さない。「やだねぇ、なに水くさいこと言ってんのさ?」
月島は無言で病室の明かりを消すと、そのまま窓際に移動し、閉まっていたカーテンを勢いよく開け放った。これから何が始まるのか口頭による説明は要らなかった。それは外を見れば一目瞭然だった。
〈カンナ先生へおくることば〉
実習棟三階の何の変哲もない窓は、2年A組30名の想いを映すスクリーンへと変貌を遂げていた。