第50話 とてもきれいなものを見せてあげる 1
「話は変わるんですが、今からわたしの相談に乗ってもらってもいいですか?」
隣の寡黙な男に自分へ対する不信感が芽生えはじめているのを察したのか、日比野さんは少し慌ててそう言った。こちらの腹を探っているようにも思えた。
「もちろんかまわないよ」と対する俺は精一杯の笑みを浮かべて答えた。警戒心は解かない。「俺でよかったら、なんでも話して」
日比野さんは小さく手を振る。「神沢さんだからこそ、できる相談なんです」
それを聞いてすぐにピンと来た。「太陽のことじゃない?」
「なんでわかるんですか。神沢さん、エスパーだったんですか」
「もしそうだったらもう少し楽に生きられただろうね」と俺は言った。「日比野さんと俺に共通する話題なんて、元々そう多くはないでしょ」
「それじゃあ、相談内容もだいたいわかりますか」
見れば、太陽の幼馴染みの頬にはほんのり赤みが差していた。先週高瀬が「日比野さんは葉山君と仲直りしたいみたいなんだ」と話していたことも併せて考えれば、エスパーでなくとも彼女の胸中は読めるというものだ。
「また好きになっちゃったんだよね」と俺は考えを披露した。「陽ちゃんのこと」
「そうなんです」
「それで、どうしたらいいかわからなくて悩んでいる」
「そうなんです」日比野さんの両目はもう潤んでいる。
「日比野さんはもう太陽に愛想を尽かしたんじゃないの?」
「はい。去年のクリスマス前のことです。でもだめなんです」
「だめ、とは?」
「ふとした時に陽ちゃんのことを考えてしまうんです。『きちんと部屋の掃除はしているかな?』『好き嫌い言わずご飯を食べているかな?』って。わたしは認めるしかありませんでした。陽ちゃんが頭から離れないということは、彼を今でも好きだということなんです」
「太陽は女子大生と付き合ってるよね? 鳴大の仏文科に通う年上のお嬢様と」
「ああ、その人とは別れました。なので今は誰とも交際していません」
「だったら、チャンスじゃないの」俺は思わず前かがみになった。「前みたいに太陽の家に行って、お節介だと言われようがなんだろうが、あいつの身の回りの世話をしてやればいいんだよ。たとえば前みたいに部屋の掃除とか」
「それができたら、悩まないんです」
「というと?」
「陽ちゃん、急にこんなことを言い出したんですよ。『オレは気付いてしまった。ひとつの道を極めてこそ真の男になれるんだ。おれはドラム道を突き進む。誰にも邪魔はさせない。ストイックに修行するぞ』って。それで本当に、わたしに限らず異性との関わりを完全に断ってしまったんです」
「そりゃまた極端だな」
呆れる反面、そこまで打ち込めるものがある友人が羨ましくもある。俺にはない。だから未来を決められない。
日比野さんはがっくりうなだれた。
「とにかくそんなわけで、陽ちゃんと会話をしようにも取り付く島がないんです。神沢さん。わたしはいったいどうしたらいいんでしょう?」
俺は頭で回答を組み立てるかたわら、横目でそっと隣をうかがってみた。そこには思いつめた表情で自らの恋を案ずる乙女がいた。さっきまでの彼女とはまるで別人だった。俺はてっきり、日比野さんは俺の気を幽霊騒ぎから逸らすためにこの相談を持ち出したものだとばかり思っていたが、それは邪推だったのだろうか。
「今大事なのは、待つことじゃないかな」と俺は答えた。「日比野さんの一番の武器は、なんといっても太陽と共に過ごしてきた”時間の長さ”だと思うんだ。太陽も太陽で、少なからずそこに居心地の良さを感じている。そしてその居心地をあいつが恋しく思う時はまたいつか来るよ、必ず。その時まで待ってみよう。大丈夫。太陽の修行はそう長くは続かない。ドラムはやめないにしても、どうせなんだかんだもっともらしい理由をつけて、女の子との交流を解禁するって」
「大事なのは待つこと」と彼女は自身に染み込ませるように繰り返した。「神沢さん。わたしは、待てるでしょうか?」
「待てるさ。日比野さんは辛抱強い人だから」
「わたしは辛抱強いでしょうか?」
俺はうなずくと、太陽の口調を念頭に置いて、「将来おまえは絶対オレのお嫁さんになるんだからな」と言った。「幼稚園の頃に交わしたその約束を信じて、かれこれ十年近くも一人の男を想い続けてきたんだもん、十分辛抱強いよ」
日比野さんの頬がより一層赤くなるまでは予想できたが、次は俺が赤面する番だったとは、思いもしなかった。彼女はこう返してきた。
「神沢さんもなかなか言うようになりましたよね。おかげで、わたし、がんばろうって思えました。あれですか。高瀬さんとうまくいってるから、冴えてるんですか」
「はい!?」イントネーションが乱れる。「俺たち、うまくいってるように見える?」
「ええ。傍目から見てると、おとといよりは昨日、昨日よりは今日といった感じで、日増しに心が通い合っていくのが手に取るようにわかります」
「そうですか」としか言えない。
「いいですよね、お二人は」ここに来て、日比野さんはやけに饒舌になる。「いつも一緒に何かと向き合っていて、互いが互いを尊重して、信頼もしている。深い絆で結ばれている。そんな神沢さんと高瀬さんは、わたしの理想のカップルなんです」
もし飲み物が口の中にあったら、間違いなく噴射していた。
「カップル? いやいや、俺たちは、付き合ってないし」
「もうほとんど付き合ってるも同然ですよ!」
日比野さんの切り返しは早かった。
「たとえばホワイトデーだって、バレンタインのお返しに、シャープペンを贈ったそうじゃないですか。それもただのシャープペンじゃなくて、フランス製のけっこう高級なやつ。高瀬さんの名前まで彫られている、世界で一本だけのシャープペン。高瀬さん、嬉しそうにそのことを話していました。これで恋人同士じゃないなんて、誰が信じます?」
今は何の話をしていたんだっけ? と俺はこめかみをかきながら自問した。そうだ、話の主役は日比野さんだった。俺でもないしまして高瀬でもない。それを指摘すると、日比野さんはあっけらかんとして「ああ、そうでした」と笑みを見せた。
「わたしが相談していたんでしたね。でも、なんだかスッキリしました。悩みがある時はやっぱり一人で抱え込まないで誰かに聞いてもらった方がいいです。ありがとうございました。ご助言通り、わたしは陽ちゃんを待ちますけど、神沢さんは高瀬さんを待たせちゃだめですよ」




