第49話 女の勘をあまり侮ってはいけませんよ? 2
柏木の第六感がいくら優れているとはいえ、病室にいた時点でこうなることが彼女に予知できていたわけではないだろうが、いざって時は驚くほどすぐにやってきた。
駐車場まで戻ると、月島が20歳前後の男二人組に言い寄られていた。世俗的な言葉を用いれば、ナンパされていた。
じりじり後退する月島を守るように、モップが唸り声を上げて二人組を威嚇している。しかし男たちが動じる様子はまったくない。むしろモップの毛色が汚いと言って嘲笑している。モップのかすれた声を真似する余裕すらある。
月島は一旦は俺たちに気付いて安堵の色を浮かべたものの、すぐにその場で固まってしまった。足がすくんでいるのだ。喋ることもできない。誰かが助けに行くべきだった。そしてその誰かとは、どんな観点で見たって俺だった。
二人組は共に体格が良く、筋肉に富み、たった今赤道付近からワープしてきたかのように肌が日に焼けていた。頭は悪そうだが、クイズ対決で負かせば大人しく退散してくれるというものでもない。腕っぷし勝負になったらまずこちらに勝ち目はなかったけれど、かといって傍観していられる状況でもない。
どうせ散るなら潔く散ろう。「俺の女になにか用か?」と渋く声を掛けよう。そう勇んで一歩を踏み出した俺を止めたのは、見送りに来たカンナ先生の右手だった。
「私としたことが、迂闊だった」と先生はお茶目に舌を出して言った。「涼をひとりきりにしちゃダメじゃないねぇ。何やってんだか。すっかり油断してたわ。教師としてはまだ未熟だわ。今は連休前だもの。春の陽気に誘われてああいうどうしようもない連中が湧くことくらい予測できなきゃね。神沢君。ここは私に任せなさい。生徒を危険な目に遭わせるわけにはいかないし、なにより今はまだ、涼の担任は、この私なんだから」
「先生!」高瀬が不安がる。言外に、臨月の妊婦なんですよ! といさめる響きがある。柏木も「赤ちゃん赤ちゃん!」と繰り返し、母体を案ずる。
ところが先生はそうした声に少しも耳を貸さず、車と車のあいだを進んでいった。ずんずん進んでいった。堂々たる足取りだった。その背中にはもうすでに静かな闘志がみなぎっていて、俺たちが後を追うことを許しはしなかった。
俺は二人組を観察することにした。一人は長髪でもう一人は短髪だった。
長髪は金色のメッシュを、短髪は十字架の剃り込みをそれぞれ頭に入れていた。長髪はまるでロボット工学黎明期のプロトタイプみたいに縦に横に動いてモップを翻弄した。決して斜めには動かなかった。
あうんの呼吸でそれをはやし立てる短髪の身なりで俺の意識に留まったのは、広く胸元の開いたTシャツだった。
そこには英語で大きく「Wanna be an angle」とあった。俺は目を凝らして再度その英文を読んだ。やはり何度見ても「Wanna be an angle」だった。その表記は俺を混乱させた。angle? angelの間違いではないのか? それとも短髪は角になることを夢見ているのだろうか?
いや、そんなはずはない。頭に十字架の剃り込みを入れるくらいだ。Wanna beの後に来るのはangelでなければ意味も整合性もとれない。それでも一応、試しに短髪が三角定規を見つめてうっとりしている姿を思い浮かべてみた。狂気じみた光景だった。やはりあり得ない。
どうやら短髪は、初歩的な英単語のスペリングくらいきちんと覚えておかないと赤っ恥をかくという教訓を世界中の人々に広めるためにそのTシャツを着ているらしい。そう結論づけて、俺はもう考えるのをやめた。
俺が心で短髪を「角」と、縦横にしか動かない長髪を「飛車」とそれぞれ名付けたところで、ちょうどカンナ先生が現場に着いた。
「はい、そこまで」
先生は角と飛車の前に立ちはだかる。荘厳な立ち姿はまるで王将のようでもある。
「君たちねぇ。なにも産婦人科の駐車場でナンパすることはないでしょ。繁華街に行って声を掛ければほいほいついてくる女の子がいくらでもいるから、そうしなさいな」
「なんだてめぇ」と角がすごんだ。常套句が聞けそうだなと思った俺の直感は当たっていて、「やんのかコラ」とも喚いた。
間髪を容れず、飛車も続く。「ババアは引っ込んでろよ。うざいんだよ」
先生は一向に怯まない。ババアと呼ばれたのを逆手に取り「老婆心ながら言わせてもらうとさ」と切り返した。「年輩の人をあまりおちょくらない方がいいよ。だって君らもいずれジジイになるんだから。好むと好まざるとにかかわらず。つまり私を馬鹿にするということは、自分自身を馬鹿にするということだ。未来の自分自身を。違う?」
角と飛車は未知の言語を聞いたというような怪訝そうな顔をした。仕方ない。そういう理屈が通じる人種ではないのだ。1998年の次の年は何年なのか聞いたってまともな答えなんか返ってこない。
早くも語彙が尽きたのか「やんのかコラ」ともう一度吐く角に対して、飛車は少しは弁が立つようだった。
「ごちゃごちゃご託を並べてんじゃねぇよ。オレたちが楽しくお喋りしたいのはあんたじゃなくて、そのショートカットの娘なんだよ」
先生は背後の月島を自分のそばに寄せ、ぶっきらぼうに頭を撫でた。
「この子、男が苦手でさ。男の前だとあいさつもろくにできなくなるんだ。そんなわけだから期待には添えないよ」
「男が苦手?」
飛車の軽薄な顔に嗜虐的な色が浮かぶのが遠目でもわかった。
「そうだったのか。そいつはたまらねぇ。ゾクゾクしてきやがった。なぁ姉ちゃん。犬の散歩なんざやめてオレたちとホテルに行こうや。一日かけて男の良さをその体にみっちり教えてやるよ」
「最低」と柏木がつぶやいた。
「馬鹿みたい」高瀬にそう言わせる男はなかなかいない。このあいだ太陽が、膨らませる前の風船に飲みかけの牛乳を注いで「悠介、いっぱい出したね」とほざいた時でさえ、彼女は無視するに留めたのだった。
二人とは対照的にカンナ先生は平然としていた。
「残念だけど、この子を君たちに渡すことはできないな。せめてもう少し常識と優しさを持った男じゃないと。君たちさ、男らしさの意味を別の何かと履き違えてるんじゃないの? やった女の数だけ自分の価値が上がると思ってない?」
それを聞いて俺はカンナ先生にあらためて敬服した。先生はこんな一触即発の状況でも角飛車の知能レベルに合わせて「やった女」という言い方を選ぶ余裕を持ち合わせているのだ。当の彼らはその配慮に気付いていないが。
「さっきから黙って聞いてりゃよ」角が先生に詰め寄る。「てめぇの言うことはいちいち偉そうでむかつくんだよ。だいたい、てめぇは誰なんだよ」
先生ははっとして手を叩いた。「自己紹介がまだだったね。私はこの子の担任だよ」
「なんだ、先公かよ。その娘のママとか言うんならまだわかるけど、たかが先公じゃ諦められねぇな。失せな」
先生は失せなかった。今にも角に噛みつきそうなモップをなだめると、少し気色ばんでこう応戦した。
「じゃあ諦めてもらおうか。私は、この子の母親代わりでもあるんだから」
「はぁ?」
「私たち教師はね、各家庭の大事なお子さんを預かってる立場なの。だから時に父親になり時に母親になるんだ。勉強を教えて成績をつければそれで終わりじゃないんだ。たかが先公かもしれないけど、役割と責任は大きいんだよ。特にこの子の場合は実家が東京で、親御さんとは離れて生活している。私が母親代わりにならないで、他の誰がなるっていうんだい!」
にわかに駐車場の空気が殺伐としてきた。両者はにらみ合ったまま微動だにしない。そのまましばらく無言の対峙が続いた。先に動いた方が負け。そんな取り決めがなされたようでもあった。これがもし賭けならば、高瀬と柏木に相談するまでもなくカンナ先生が勝つ方にありったけのコインをベットする場面だけど、予想に違わず、根負けしたのは二人組の方だった。
「ふざけやがって」
負け惜しみに角はそう言い、わざと音を聞かせるように指の関節を鳴らした。
「あんたも教師である前に女だろ? その顔に傷をつけたくないなら、今すぐそこを退けよ」
飛車がオーバーに怖がる仕草をする。猿芝居だ。
「やばいよ、あんた。こいつはオレと違って一回キレると誰にも止められないからな。これまでに何人も半殺しにしてきてるんだ。男も女も。オレはもう知らね。センセ。引き際を間違ったな」
角はその紹介の余韻に酔っていた。酔って、先生の顔のすぐそばまで拳を近づけたり、膨らんだお腹を蹴る真似をした。
結論から先に言ってしまえば、引き際を間違えているのは二人組の方だった。今の時点で立ち去ればまだ、おかしなスペリングのシャツを着て外を出歩くより致命的な恥をかかずに済んだのだ。沽券を守れたのだ。我が子を守るように腹部に手を当てた先生を面白がって、角がこんな台詞で挑発したのが彼らの運の尽きだった。
「その腹、蹴っちまうぞ」
「やれるもんならやってみんかいッ!」
その怒号は駐車場にいる者すべてを凍り付かせた。声の主はすかさず角の胸ぐらをつかみ、「喧嘩上等だこの野郎!」と巻き舌で続けた。それは現役教師とも妊婦とも思えぬ、円熟の域に達した巻き舌だった。
「大人しくしてれば付け上がりやがって! 私がどれだけの修羅場をくぐり抜けてきてると思ってるんだい! てめぇらみたいなモンとは、踏んでる場数が違うんだ雑魚がッ!」
角は目だけ動かし、飛車に何かを訴えた。それが先生の怒りに油を注いだ。
「逃げるんじゃないよッ! 喧嘩中は相手の目を見な! それが流儀ってもんだろ! 情けないね! それでも金玉ついてんのかいッ!」
先生は、もとい、元不良は、一方的にまくし立てる。
「さっきまでの威勢はどこにいった!? 蹴ってみろよ。遠慮は要らないよ! 虚仮威しじゃないことを証明してみな! そっちが来ないなら、こっちがしばき倒すよッ!」
「ね、ねぇ悠介」困惑顔で肩を叩いてきたのは柏木だ。「これ、どういうこと? さっきまでの先生とはまるで別人だよね?」
「スイッチが入っちゃったんだよ」と俺は先生から聞いた過去の武勇伝を思い出して答えた。
「スイッチ?」
高瀬は首を傾げる。柏木もそれに倣う。何も知らない二人はこのままでは、カンナ先生を多重人格者か何かだと誤解してしまいそうだ。
「実はさ、カンナ先生には、ちょっとやんちゃな時期があったらしくて」
柏木の顔は引きつる。「完全に“その筋”の人になっちゃってますけど」
「故郷の弘前では、それなりに名の知れたお方らしいぞ。札付きのワルだったそうで」
「カンナ先生、カッコイイ」
なんと、おそろしいことに、高瀬の瞳は煌々と光り輝いていた。好奇心旺盛な彼女が妙な領域に足を踏み入れぬよう祈りつつ、俺は前方に視線を戻した。
そこでは依然として先生があまり上品とは言えない言葉で角を圧倒している。もはやどっちが社会不適合者なのかよくわからなくなってきた。
いくら形勢が逆転したとはいえ、角と飛車がその気になれば先生に直接的な傷を負わせることはさして難しくないはずだった。なにしろ彼らはたくましい肉体に恵まれた若い男であり、相手はいつ陣痛が始まってもおかしくない妊婦なのだ。
数的に有利なうえに、腕力や機動力では雲泥の差がある。飛車が先生の背後を取るなり角が足払いを仕掛けるなり、巻き返そうと思えば手段は無限にあった。
しかし先生の眼差しが顔つきが語勢がそしてなにより気迫が、それをさせなかった。見えざる盾がたしかに母子を守っていた。
「お、おい、アンタ」
へっぴり腰のまま飛車が先生に近づく。
「さっき、自分は教師だって言ったよな? 所属はどこだよ?」
「所属? 組のことかい!?」
今の先生がそう言うと、なんだか別の組に聞こえる。
「違うよ、学校だよ」
「鳴桜高校だ。それがどうした!」
「やっぱりそうか」飛車はすっかり動転して、「だめだ」とパートナーに対し首を振った。「こいつはオレたちの敵う相手じゃねぇ。オレ、先輩に言われたことがあるんだ。鳴桜にとんでもないバケモノ女教師がいるから気をつけろって。たった一人でこの街のチーマーを壊滅させたとか、暴走族のトップをパシリに使ってるとか、そういう伝説をいくつも持ってるらしい。たしか『みちのくの昇り龍』とかいう二つ名だった。こいつがそうだ。間違いない!」
角は先生の顔を見て咳込む。
「みちのくの昇り龍? なんでそんなヤバそうなのが休日の産婦人科の駐車場にいるんだよ!」
「知らねぇよ! とにかく逃げるぞ。このままじゃオレたち、殺されちまう!」
飛車と角が敗走をはじめるのと、月島の手からピンクのリードが離れるのはほとんど同時だった。
多くの動物は逃げる者を追う本能を持つとどこかで聞いたことがあるが、モップも例外ではなく、高度な訓練を施された警察犬みたいに二人を追跡した。またたく間に差は縮まった。モップは角の尻に噛みついた。祝日にそぐわない悲鳴が上がった。ざまあみろ、と柏木が快哉を叫んだ。
一仕事終えて戻ってきたモップを連れて、俺たちはカンナ先生や月島と合流した。
「大丈夫だったかい?」と先生は月島を気遣う。月島はそれに「はい」と答える。けれども声はいやに機械的で、おまけに目の焦点も合っていなかった。今の月島を言い表す四字熟語があるとすれば、それは“茫然自失”だった。
そんな月島を先生はすぐに優しく抱き寄せた。
「そうかいそうかい。恐かったんだね」と言って飛車角が走り去った方向を睨む。「あいつら、私の生徒に手を出すとはいい度胸だ。今度来たらタダじゃおかないからね」
俺は高瀬・柏木と顔を見合わせた。おそらく思っていることは三人とも同じだった。
「カンナ先生。その、言いにくいんですが」
柏木が代弁してくれるらしい。
「月島がぼんやりしてるのは、あの二人が恐かったっていうのもあるんでしょうけど、それ以上に、担任の変化っぷりを目の前で見て驚いてるんじゃないかな、って」
「えっ」先生はその可能性を少しも考えていなかったようだ。「涼、そうなの?」
月島は無表情のままうなずいた。「みちのくの昇り龍。あはははは……」
あはは、と先生は気まずそうに調子を合わせた。「生徒にだけはその二つ名は知られたくなかったし、今みたいなシーンも見せたくなかったんだけどねぇ。ちくしょう。退任まであと二日ってところで、ぼろが出ちまった。つい昔の血が騒いじまった」
「でも、スカッとしましたよ」武闘派の柏木は、全面的に先生支持の模様だ。「どうせなら、あんな奴ら、コテンパンに叩きのめしちゃえばよかったんですよ!」
そこで先生は肯定とも否定ともつかない曖昧な返答をして、苦笑いを見せた。そのいかにも取り繕ったような様子は俺にあるエピソードを思い出させた。
すさんだ毎日を送っていた高校時代、両親に勘当されたことでやぶれかぶれになって担任の女教師を殴ってしまったという先生自身の打ち明け話だ。
結果的には担任はそのことで少女カンナを見限ったりせず、むしろ庇い立てして――自宅に住まわせてまで――無事に卒業させるわけだが、その一件は不良少女に強い後悔の念を植え付けた。そして教師を志すきっかけを与えたのだった。
そういった背景から推測するに、先生は何があろうとも手だけは上げないと心に誓ったのではないだろうか? 固く。もう二度と誰かを傷つけるような真似はしてはならない、と。
であれば、飛車が口にした「チーマーを一人で壊滅させた」という噂はいささか信憑性が怪しくなってくるのだが、まぁそれは深くは掘り下げまい。カンナ先生がみちのくの昇り龍として校外でどれだけ暴れ回っていようとも、俺たちにとっては信頼できる女教師である事実が変わるわけではないのだ。
「あのさ、誰か、鏡を持ってないかい?」
唐突に先生はそんなことを言った。声に潤いはない。
「こんなので良ければ」高瀬が愛用の手鏡を差し出す。
先生はその手鏡で自分の顔をくまなく確認すると、肺疾患を抱えたカバのげっぷみたいなため息を吐いて、「私もうババアなのかなぁ」とつぶやいた。飛車に放たれた台詞が実はショックだったらしい。
「そんなことないですよ」と高瀬がすぐに励ませば、「あんな連中の言うことを真に受けちゃだめですって」と柏木もそれに続いた。「そう?」と先生は満更でもないみたいだ。
その後は、ようやく目の焦点が合ってきた月島も含めた女三人で――若い三人で――カンナ先生を元気づける時間となった。俺やモップのことなんて、もはや彼女たちの興味の枠外に弾き出されていた。
和やかに談笑しながらも、先生は月島の顔色をうかがうことだけは忘れなかった。まるで自分の子を見守っているようだった。
きっとこの人はA組の他の生徒29人も我が子のように思っているんだろうな、と俺はそんな先生を見て強く感じた。たまたま今日は月島の危機に遭遇したから月島を守ったけれど、他の生徒の窮地を目の当たりにすれば、身を挺して助けに入るのだ。そしてさっきみたいに吠えるのだ。「教師は時に母親になるんだよ!」と。
これは口には出さないけれど、どうやら俺はカンナ先生の知られざる秘密をひとつ暴いてしまったらしい。
その台詞は、自身が高校時代に担任に言われたものに違いない。