第49話 女の勘をあまり侮ってはいけませんよ? 1
「ちょっと、スケベ犬! どこまで歩くつもりなの? 晴香ちゃんはいい加減疲れたんですけど」
春の大型連休を目前に控えて街中がどことなく浮ついている水曜日、祝日でもあるこの日は太陽を除く四人で朝からモップの散歩をしていた。
春の晴天によく映えるピンクのリードは柏木と月島が交互に握っている。口ではモップに関してああだこうだ言う二人だけれど、内心では憐れな捨て犬のことをそれなりに案じているらしかった。
俺はあきれて柏木の背中に声をかけた。
「つい一時間前、『こんな天気の良い休日くらい、ワンちゃんの好きなように歩かせてあげなさい』とご立派なことを言ってたのはどこのどいつだっけ?」
「いくらなんでもこんな遠くまで来るとは思わないでしょうが。それにあたしは病み上がりなの。足の状態はまだ万全じゃないの。みんな、あたしをもっといたわりなさい」
あぁもうお腹がペコペコで歩けない、と柏木は中華料理店の前で立ち止まってごねだした。そんなワガママ娘をなだめたのは高瀬だ。
「いつもより人が多いから、モップも張り切っちゃたんだよ。それにしても、本当に遠くまで来ちゃったね。あはは、高校に着いちゃった」
それを聞くと柏木は、校舎をちらっと見て髪を掻き乱した。
「モップ君。言っておきますけどね、あたしはね、この世の中で学校が一番嫌いなの。休みの日まで校舎なんか見たくないの」
「おまえ、文句ばっかりだな」
学校だって、休みの日まで劣等生に近寄ってほしくないと思うが。ともあれ、理不尽な説教を受けてきょとんとしているモップを飼い主として擁護すべきだった。
「気にする必要はまったくないぞ、モップ。このお姉さんの言うことなんかいつも頓珍漢で、人間である俺たちでさえ、半分以上は理解できないんだから」
それを聞いて負けん気の強いじゃじゃ馬が黙っているはずがなかった。
「おやおや」と始まった。「ずいぶんモップの肩を持つんですね。そりゃそうか。優里と一緒に拾った犬だもん、可愛さもひとしおだよねぇ」
ここで高瀬の顔を見る勇気が俺にはない。
「まぁまぁ」
仲裁に入った月島のその声には、もうすでに不吉な響きが含まれていた。
「じゃあこうしよう。もう折り返して、神沢にお昼ゴハンを作らせる。とびきり美味しいやつ。柏木、それならがんばれるでしょ?」
「それは名案だ」
柏木は、善は急げとばかりに来た道を戻ろうとする。予想に反して高瀬もそれに続く。
「ちょっと待て」と俺は足並みを揃える三人と一匹を制した。「勝手に決められても困る。食材の準備だってしてないし、なにより、俺には幽霊騒ぎの推理をするという大事な仕事があるんだ。休日だからといって、呑気に過ごしていられないんだよ」
柏木は仏頂面をする。俺の真似らしい。「おまえ、文句ばっかりだな」
頭に来た。「俺のは文句じゃない。正当な抗議だ」
昼飯を作らん/作りなさいの不毛な水掛け論を終わらせたのは、思いも寄らない人物だった。
「おーい」と良く通る――そして聞き慣れた――中年女性の声がする。それは道路を挟んで向かいにある、産婦人科の駐車場から発せられていた。俺たち一行に用のある妊婦なんて俺にはひとりしか思い浮かばなかったが、果たして、声の主はまさにその人だった。
「カンナ先生!」
担任の元を目指し、2年A組所属の月島が先がけて横断歩道を渡る。H組に属する俺たちも小走りでついていく。モップは、無所属だ。
「やぁ進路指導泣かせの生徒たち。憎たらしくて仕方ないよ」
先生はそう冗談めかして笑う。彼女はちょうど車から降りたところだった。愛車のいかつい黒のアルファードが目を引く。
「しっかし、休みの日に高校生が四人も集まって犬の散歩かい。なんだかもったいないねぇ。あんたたち、他にやることないの?」
そうは言いつつも先生は愛犬家らしく、大きく膨らんだお腹をかばいながらしゃがみ、慣れた調子でしばらくのあいだモップとじゃれ合った。よもや夜の校舎に忍び込んだ経験のある犬だとは思わないだろう。
「この子、信じられないくらい口が臭いんで気をつけてくださいよ。びっくりして転んだりしたら大変ですから」
月島が注意喚起を忘れない。なんのこれしき、と先生は顔を歪める。要するに強がっている。
「ところで、カンナ先生はここで何してるんですか?」
柏木のそのすっとぼけた質問を愚問だと一蹴しないあたりは、さすが教育者だ。先生はアルファードのトランクを開け、そこに山積みになっている荷物を指さした。
「あのさ。産婦人科の駐車場で私が今からフリーマーケットでも始めると思う? 『寄ってらっしゃい見てらっしゃい』って。そんなわけないでしょ。準備に来たのよ、入院の。あさっての最後のお務めが終わったら、その足でぱぱっと入院できるようにね」
「で、ですよねぇ」柏木は苦笑して唐突にモップを撫ではじめた。それが照れ隠しであることは誰もが見抜いていた。
「もういつ産まれてもおかしくないんですもんね」
高瀬が言う。私だったらそんなぎりぎりまで働けないな、と続け、尊敬の眼差しをカンナ先生に注いだ。
「それにしても、“渡りに船”とはよく言ったもんだわ」と先生は言った。「あのさ、ちょっとだけ、彼を借りてもいい?」
彼? 俺だけがモップを見て、他の四人は俺を見ていた。「どう考えてもおまえやないか」と月島が突っ込みを入れてくる。
「どっ」身構える。「どんな用件でしょう?」
先生の視線はトランクの中と病院を行き来した。
「この荷物を病室まで運ぶのを手伝ってほしいんだ。男手があれば楽だな、と思った矢先、幸運にもあんたたちを――というか神沢君を――見かけてね。これはまさに渡りに船だろう?」
「そういうことでしたら」すぐさま柏木が俺の背中を押す。「遠慮なく使ってください。なんの取り柄もない男ですが、物を運ぶ程度のことならできますから」
「おい」
「先生の病室は何階なんですか?」と高瀬が尋ねた。
「最上階の三階なんだ」と先生は答えた。
「最上階」俺の右半身は引きつった。「でもエレベーターくらいありますよね?」
そこでカンナ先生は、申し訳なさそうに手を振った。
「それがさ、あいにく今故障中なんだよ」
「故障中」左半身も引きつる。俺はトランクの中を確認した。荷物はそこだけには収まりきらず、後部座席までも埋め尽くしてしまっている。これはどう少なく見積もっても、駐車場と病室を七往復はする必要がありそうだ。
「三階なんですよね」と俺は念のため聞き返した。
「いかにも」と先生はいかにも古文教師らしく返した。
どうも今日という日は、どのみち異性に扱き使われる休日であるようだった。ある意味運命だと割り切るしかなかった。不得手な力仕事より、勝手知ったる台所で料理を作る方がまだマシなような気もするが、断れるムードでもない。
それになにより、カンナ先生は俺が例の発作で苦しんでいることを知っているにもかかわらず、こうして頼ってくれたことが嬉しかった。変に気を遣われた方がよっぽど応えた。
この依頼はいわば、あと二日で退任するカンナ先生からのさりげないエールなのだ。わけのわからない発作になんか負けるんじゃないよ神沢君、と。ならばここで奮起しなきゃ男がすたるというものだ。
「任せてください」と俺は柄にもなく腕まくりして仕事を請け合った。
♯ ♯ ♯
すべての荷物を病室に搬入し終えた俺は、腕と肩と腰と膝の疲労と闘っていた。息は切れ、汗は止まらず、目眩さえ覚える。最近はふとした時に将来どのような職業に就こうか考えを巡らせることも多いわけだけど、そのリストから引っ越し業者は除外した方が賢明なようだった。
荷物運びを手伝ってくれたお礼にフルーツを振る舞うと先生が言うので、俺は病室に残った。そして高瀬と柏木もやってきた。
高瀬は「できるだけ先生とお話ししたい」というほのぼのとした理由で。柏木は「産婦人科の雰囲気を肌で知っておきたい」という意味深な理由で。
ペット同伴可の施設が増えている時代だとはいえ、さすがに産婦人科には犬は入れない。よってモップは駐車場に残してきた。「私が見ていてやんよ」と月島が守り役を買って出てくれていた。
先生が入院する病室は個室だった。入り口には優しいタッチで描かれた鳥の絵が飾ってあり、訪問者にひとときの安らぎを与えていた。場所柄を考えると、それはコウノトリの絵なのだろう。これがもし老人ホームだったなら、同じ絵でも鶴に見えたかもしれないが。
カンナ先生はフルーツを大皿に盛り付けしながら、俺たちに多くのことを語った。
旦那さんとは遠距離恋愛の末に結婚したこと。
出産が終わって一段落ついたら、子どもと一緒に故郷の弘前に帰ること。
旦那さんはその弘前の博物館で学芸員として働いており、出産に立ち会えないこと。
その代わりといってはなんだが、高校生時代の恩師(不良少女だったカンナ先生を改心させた女教師だ)が二日後にこの街に来ること。
話が終わると高瀬と柏木は先生の膨らんだお腹をさわり、「今ちょっと動いた!」「赤ちゃん、この声聞こえる?」と二人で盛り上がった。
話題的になんとなく輪に入りにくいので、俺は窓から外を眺めた。
三階のこの病室からは、鳴桜の校舎がはっきり確認できる。地表とは違って視界をさえぎるものが何もないのだ。もう何日も幽霊騒ぎの捜査で実習棟三階のことばかり考えているせいか、無意識にそこに視線が向く。もちろん高さがそれほど変わらないというのも影響しているだろう。
ほどなくして新聞部室の窓が開き、女子生徒が顔を出した。彼女は身を乗り出し、眼下のグラウンドに声をかける。そこには練習を終えたサッカー部員がいる。どうやら二人は交際しているようだ。新聞部員の彼女とサッカー部員の彼氏。祝日の午前中の部活を終えた二人の午後を誰も邪魔することなんかできない。二人は両手をメガホン代わりにして、しきりに何かを言い合っている。
彼女は他の生徒が周囲にいないのをいいことに、「好き」と想いを伝えている。何度も。そして彼の「好き」を聞きたがっている。ところが彼はなかなかそのリクエストに応じない。ひたすら手を振っている。シャイなのだろう。
彼女がしびれを切らしてふくれっ面をしたところで、彼はゴールを決めた後のように空の一点を指さした。彼女は空を見上げた。俺も見上げた。そこにあったのは、ハート型の雲だった。
青春だ、と俺は思った。これぞまぎれもなく青春の1ページというやつだ。
本来、高校生活とはこうあるべきなのだ。普通の高校生は公園の土管の中で深夜の寒さに震えながらラーメンを食べたり、母親と共に逃げた男を殴りにわざわざ北陸まで赴いたり、口の臭い捨て犬を引き連れて夜の校舎に忍び込んだりしないのだ。
なにはともあれ、俺は自分の物語を続けるしかない。
「カンナ先生」と俺は振り返って言った。「この病院を選んだのは、窓からこうして鳴桜高校が見えるからですか? ここからだと目を凝らせば生徒の顔までわかりそうですよね」
「いやいや、そんなことはないよ」と先生はなぜか嬉しそうに言った。「はじめはうちの近所の産婦人科に通ってたんだけどさ、A組の生徒たちがどうしてもここに入院しろってうるさくてね。『学校から元気を送ります』って言うんだよ、あの子たち。まぁ私はこれまでに二回、流産してるからね。出産にあたって不安がないと言えば嘘だ。旦那も立ち会えないし。もらえる元気はありがたくもらっておこうと思ってここに変えたんだよ」
高瀬は腑に落ちたようにうなずいた。
「ここだと、学校帰りとかにお見舞いに来やすいですもんね」
先生は照れ笑いして、汗を拭う仕草をした。
「騒がしくなるだろうねぇ。個室にして正解だったよ。大部屋だと他のお母さんたちに迷惑をかけちまう。とはいえ、可愛い子たちだ」
それからしばらくは、カンナ先生が胸の内を明かす時間となった。先生は引き受けたクラスを卒業まで担当できないことに強い心残りを持っていた。教師を続けるため堕胎しようかと真剣に考えた時期もあったらしい。旦那さんの説得がなければ私は堕ろしていただろうね、と先生は述懐した。それだけこの仕事に私はすべてを注いできたのだ、と。誇りを持っていたのだ、と。
「あんたたちにひとつ、私から頼み事を聞いてほしいんだ」と先生は続けて言った。
俺たちは姿勢を正した。
「他でもなく、涼のことなんだ。もちろん知ってるよな? あの子がべらぼうに厄介なトラウマを抱えていることを」
月島を今も苦しめる厄介なトラウマ――それは中学時代の暴行未遂事件に起因する男性恐怖症に他ならない。高瀬、柏木と顔を見合わせてから、代表して俺が「はい」と答えた。
「私は涼の担任として、あの子が無理のない高校生活を送れるよう、そしてクラスに溶け込めるよう、可能なかぎり手を尽くしてきたつもりだ。完璧とまでは言えないにしたって、少なくとも涼がパニックに陥るような事態には一度たりともならなかった。A組の他の子たちもなんとなく涼の事情を察して、付かず離れずの関係を築いてくれたしね。だから私がいなくなっても、涼は学校でそれなりにうまくやっていけると思う。でもやっぱり不安は少なからずある。そこでさ、あんたたちに頼みたいんだよ」
先生はそこで俺たちに対して丁重に両手を合わせた。
「どうか涼のことを今まで以上に気に掛けてやってくれないだろうか。特に神沢君。あの子、異性でも君だけは大丈夫だっていうから」
「わかってますよ」
そう来るのは予想通りだったので、笑顔の準備ができていた。
「クラスは違っても月島は俺たちの仲間ですから。お節介だと言われない程度に、様子をうかがうようにします」
柏木は馴れ馴れしく俺の肩に手を置いた。
「なんの取り柄もない男ですけどね、これが意外といざって時は頼りになるんです。だからカンナ先生。安心して元気な赤ちゃんを産んでくださいね」




