第47話 この温もりを風がさらってしまわぬように 6
「まなとと会ったんだよね?」と高瀬が切り出したのは、幽霊騒ぎ関連の話が終わって数分後のことだった。
周防まなと。俺にとっては恋敵である周防。高瀬にとっては幼馴染みであるまなと。心臓のそばのやわな場所がちくちく痛む。嫉妬しているのだと遅れて気付く。彼女が「悠介」と下の名前を呼び捨てにしてくれる日はいつか訪れるのだろうか?
「周防は」慎重に言葉を選ぶ。「周防は、一方的に俺を呼び付けた。俺はその求めに応じただけだよ」
「それでその時、二人は何を話したの? いや、まなとは神沢君に対して何を言ったの?」
俺は無言でモップの背中を撫でた。
高瀬は沈黙を嫌って話し続けた。
「この件についてあまり詮索しないよう月島さんに注意されてたけど、私、我慢できなくてまなとに問いただしたの。でも、まなとは知らんぷりを決め込んで何も答えてくれない。神沢君、お願い。そろそろ本当のことを私にも話してよ。私はそれを知らなきゃいけない。まなとは神沢君に脅しをかけてるんじゃないの?」
どうやら隠し通すことは無理なようだ。事実を知るまで帰らないというような気迫をベンチの隣から感じる。
「そうだよ」と俺はやむなくそれを認めた。「俺が居酒屋でバイトしているのを嗅ぎ付けた周防は、それをネタにしてこう言ってきたんだ。『君の秘密を僕が高校にリークすれば、君は高校にはいられなくなる。ただ僕も悪魔じゃない。そして君は幸運だ。退学しないで済む方法をひとつだけ教えてあげよう。それは僕の要求を呑むことだ』。
一方俺は高校を辞める気も奴の要求を呑む気もさらさらなかった。だから生徒会長である周防の姉に助けを求めた。結果、協力を得るのと交換条件で幽霊騒ぎの捜査に乗り出すことになったというわけだ」
高瀬は何も言わずにうつむいた。下唇を噛んでいる。モップが散歩の再開を願うような顔で彼女を見上げているけれど、共同飼い主はまったくそれに取り合わない。モップの退屈はもうしばし続くことになる。
「要求」
高瀬は語尾こそ上げなかったが、俺に質問しているのは明らかだった。〈まなとの要求はなんだったの?〉。引き伸ばせばそういうことだ。さてどうしようか、と俺は池の水鳥をぼんやり眺めて考えた。
一、高瀬に対し好意が無いことをきっぱり告げる。
二、「大学に行かせる」という約束を破棄する。
三、もう二度と高瀬のそばに近付かない。
以上が周防の要求三点セットだった。もちろん正直に高瀬に話すわけにはいかない。だってそれはもう告白に等しいから。こんなかたちで想いを伝えるなんて、告白の方法としては最悪の部類に入る。ほとんど罰ゲームに等しい。風情もムードもあったもんじゃない。俺は彼女に本気の恋をしている。もう少しまともな告白をする資格くらいある。煎じ詰めれば、はぐらかすしかないな、という結論に至った。
「周防はさ、高瀬にどうしようもないくらい惹かれてるんだよ。だから高瀬の近くにいる男が目障りでしょうがないんだ」
言葉の端々に、答えなくてもだいたいわかるだろ? といったニュアンスを滲ませたつもりだった。彼女はそれを感じ取ってくれたのか、要求の中身について問い返してきたりはしなかった。
「なんだかごめんね」と高瀬はため息混じりに言った。「まなとは甘やかされて育ってきた典型的なお坊ちゃんだから、自分の思い通りにいかないことが許せないの。だからこんなひどいことだって平気でする。昔からそう。やってることがめちゃくちゃだよ」
君に優里は救えない。周防に言われたその言葉が俺の耳元でよみがえった。
「なぁ高瀬」と俺は言った。「でも、周防が高瀬のことを本気で救おうとしているのは、まぎれもない事実だろ?」
「というと?」
「高瀬が一度は受け入れてしまったトカイの次期社長との政略結婚を、あいつは平和的に潰す気でいる。それは俺も同じだ。ただ俺には――高瀬には申し訳なく思うけど――まだこれといった策がない。周防にはある。それも、実現可能性の高い具体的な策が」
高瀬は何かを言いかけて口を噤んだ。俺は続ける。
「周防の切り札は、なんといっても父親だ。あいつの父親はこの街随一の実力者で、そのうえ子煩悩ときている。高瀬が周防と一緒になればもちろんタカセヤとトカイの合併案は白紙に戻るのだから、両社はふたたび事業規模の縮小を検討せざるを得ないわけだけど、そこは周防家だ。周防の父親には家のメンツにかけても両社を守る強い意思があるらしい。
つまりタカセヤ全九店、トカイ全八店は今と何も変わらないまま存続できるということだ。それは、高瀬が望んでいた最高の結果なんじゃないか? 周防はたしかにめちゃくちゃな奴かもしれない。性格はえらく歪んでいるかもしれない。でも、高瀬の希望を叶える力をあいつが持っているのは間違いないんだよ」
優里を救うのは君の空疎な約束じゃない、僕の確かな力だ。周防の幻影は俺の耳元で今度はそうささやいた。
「ずいぶんとまなとの肩を持つんだね」と高瀬は言った。
「俺には高瀬を救うための手段も力も今はない。大学に行かせるという約束を交わしただけで、それきりちっとも前に進めていない。スーパーマーケットのシステムや企業の合併制度を勉強するどころか、正体不明の発作と朝から晩まで闘っている。ふがいない。当然、後ろめたさはあるよ」
君に優里は救えない。周防の幻はしつこくそう続ける。
「なあ高瀬。周防のこの提案は、千載一遇のチャンスだろ? ろくでもない中年男と結婚しなくても、この街で暮らす多くの人たちを悲しい目に遭わせずに済むんだ。もう一度、周防と一緒になることを真剣に考えてみた方がいいんじゃないか?」
「怒るよ?」高瀬はしばし言葉を探すように考え、やがて何を思ったか、俺の右手首を鷲づかみした。そして自身の頬に俺の手のひらを押し当てた。「こういう時は言葉じゃない。私の頬、どう?」
俺は目をしばたたいた。彼女の意図がよくわからなかった。だがとにかく、感想を求められていることだけはたしかだ。他でもなく頬の感想だ。
その感触のすばらしさといったら、それに釣り合う表現がすぐに思い当たるような生半可なレベルではなかった。過去に手で触れたどんな物体よりもやわらかく、みずみずしく、なめらかだった。弾力性に富み、潤いに満ち、生命の息吹を感じられた。どことなくミステリアスで、それでいてなぜか懐かしかった。
その半径3cm程度の小宇宙には、俺の手には収まりきらないほどの光があり、夢があり、愛があり、未来があった。俺は素直に感動した。
どのような所感を述べるべきか頭を整理していると、「どう?」と高瀬が返事を催促してくるので、俺はやむを得ず「気持ち良い」とだけ答えた。身も蓋もない回答だったけれど、思いのほか彼女はそれで満足したようだった。
「そうでしょ? 触ると気持ち良いでしょ? でもね、女の頬がこんなに気持ち良いのって、若いあいだだけなんだから。おばさんになったら、こうはいかないんだから。うっかりするともうあと十年もしないうちにシワやたるみができて、神沢君はお世辞や機嫌取りじゃない限り『気持ち良い』だなんて言えなくなる。本当だよ? だからみんな必死になって化粧をするんだよ」
「はぁ」こういった場合、男は聴き入るしかない。
「私が何を言いたいかというとね」高瀬はそこで、俺の右手首を握る力を一段と強めた。「私は若いってことなの。まだ若い16歳の女の子なの。子どもではないけど、大人でもないの。“力”なんて言われたって少しもピンと来ないの。『周防家の人たちに任せておけば安心だ』なんてちっとも思えないの。
それにだいいち、面白くないでしょ。気持ち悪いでしょ。自分の知らないところで高そうなスーツを着た偉そうな大人たちがこそこそ動いているのなんて。そんなの、ときめきなんかひとかけらもないじゃない。それに比べれば、約束の方がよっぽど健全。そのうえワクワクできる。ドキドキできる。前向きに毎日を生きていられる。実際、この一年間、どんな時も私を支えてくれたのは約束だった。約束はときめきを与えてくれた。だから私は、その約束を信じて神沢君に期待をかけているんじゃない。それなのに、肝心の神沢君がそんなに弱気になってどうするの。しっかりしなさい、悠介」
聞き間違えなどでは、決してなかった。高瀬はたしかに言った。悠介と。下の名前で呼び捨てにされる日が果たして来るのか、つい数分前に思い悩んだばかりだが、まさかそれが今日だったとは。いつの間にか右手は汗ばんでいた。そして自由になっていた。俺は名残を惜しんで右手を引っ込めた。しっかりしなきゃな、と思う。強く。
長らく心に留まっていたわだかまりが薄れていく感覚があった。にわかに風が強くなってきた。高瀬のまっすぐな髪が風の機嫌しだいで右に左に揺れた。俺はしばらくその様子を眺めていた。右手に残るこの温もりを風がさらってしまわぬように注意しながら。風が止む頃には、忌々しい周防の幻影はどこかへ消えていた。
「目が覚めたよ。高瀬のおかげだ」
「ゆ」悠介、と言いかけて高瀬は照れ臭そうに髪を耳にかけた。「やっぱりまだ言い慣れないから神沢君で。いいよね?」
俺は少し残念に思いながらもうなずいた。
「そうだ神沢君」と彼女はあらたまって言った。「ちょうどいいや。実はね、最近になってようやく、自分のやりたいことが――就きたい職業が――わかってきた気がするんだ」
大学には進学するのが夢だが、その先の展望が開けない。それが俺と高瀬に共通する課題だった。つまり彼女は、俺より一歩先に進んだことになる。
「本当か?」
「うん。それを実現するためには、やっぱり大学に行って専門的な勉強をする必要があるの」
「で、高瀬がやりたいことって、何なんだ?」
「今はまだ言えない。この意欲が自分の中で揺るぎないものに変わるまで、もう少し時間がかかりそうだから。でも、ちょっとだけヒント」
彼女はバッグに手を伸ばし、そこから見慣れた冊子を上半分だけ外に出した。川岸小雪著・『未来の君に、さよなら』だ。
「小説家、ってことか?」と俺は探りを入れた。
「さぁ、どうでしょう」と高瀬はいたずらっぽく微笑み、それから冊子をバッグに戻した。「とにかく、私は夢を見ていたいの。そして叶えたいの。でも周防家に入ったら大学には行かせてもらえなくなる。まなとは独占欲が強いから私を決して外には出さない。だから私はまなとと一緒にはならない」
高瀬の頬に触れていた右の手のひらが脈を打っていた。痛いくらいに。まるでそこに心臓がもうひとつ出来上がったかのようだ。
「よし」と言って俺はベンチから立ち上がった。「高瀬の夢を叶えるためにも、まずは目の前の問題を片づけなきゃな。高瀬、それからモップ、さっそく高校に戻るぞ」
「え!? 今から?」
「幽霊騒ぎの真相に近づくため、どうしても今日中に調べておきたいことがあるんだ。ついてきてくれるか?」
「もちろん」と高瀬は何の迷いもない声で言い、モップはどうでもよさそうに腰を上げた。
「あ、そうだ」確認しておきたいことがあった。「一応聞いておくけど、俺たちの中に潜んでいる内通者・Xは、高瀬じゃないと考えていいんだよな?」
「どうだろうね? どの未来を選ぶのかなかなか決められない神沢君を快く思わない裏の高瀬さんが、実は事件の黒幕なのかもよ?」
「やめてくれよ」
じゃんけんの結果、モップを引くのは俺の役目になった。利き手ではない左手でリードを握って、再び歩き出す。足取りは軽い。胸も高鳴っている。