第47話 この温もりを風がさらってしまわぬように 4
土砂降りのなかをモップと共にずぶ濡れになって帰宅した俺は、熱めのシャワーを浴びてから(モップも洗ってから)、夕飯の準備に取りかかっていた。午後九時だ。雨はもう上がっていた。気まぐれな天候だ。冷蔵庫からうどんを三玉と豚肉とキャベツと人参ともやしを取り出し、調理を開始した。
一時間前の出来事が脳裏に鮮明に焼きついているせいで、意識を手元に集中できない。いつもの感覚が戻ってこない。あやうく包丁で指を切りそうになる。今もなお心拍のリズムは乱れている。
音楽室の中へ足を踏み入れてからわずか一分のあいだに立て続けに起こったことは――ここで陳腐な表現しか思いつかないのは頭がうまく働かない証拠だと思うけれど――まさに悪夢だった。
『別れの曲』がぱったり止まったことから、すべては始まった。
その時俺たちは入り口から五歩程度進んだところにいた。もちろんそこからはまだピアノ付近の様子をうかがい知ることはできない。ピアノの音がどうして消えたのか、それについて話し合う間もなく、次の異変が起きた。
それを真っ先に察知したのは月島だった。「何かが這ってない?」と彼女は言った。何かが床を這う音がする、と。言われてみればたしかにそんな風に聞こえないこともなかった。
それで俺は息を呑んで、スマホのライトを床に向けてみた。男としてこの上なくみっともない姿を晒す羽目になったのは、その直後だ。
とんでもなく甲高い叫び声を俺は発していた。自分でも何を叫んだのかはあまりよく覚えていない。「ティダー!」だったような気もするし「テンダー!」だった可能性もある。いずれにせよ、そう、床を這っていたのは、手だった。いたるところが傷つき、黒ずんだ血にまみれた人の手だ。
ピアノがあるであろう辺りからこちらへ、光の中を一直線にそれは這ってきた。ちょうどドミノが次々倒れていくくらいの速度で。
特急列車に轢かれて死んだ女子生徒の右手だ、と誰もが思ったに違いない。少なくとも俺はその時そう思った。ピアノの演奏を中断して不届きな侵入者を追っ払いに来たのだ、と。
俺たちは逃げた。我先にとすたこら音楽室から逃げ去った。手を相手にお手上げだった。そしてモップはまたしても期待通りに働いてはくれなかった。
音楽室の一番奥にいたのは先導を務めていた俺とモップなので、逃げる際はおのずと俺たちが最後尾からのスタートとなった。
前を行く四人は、廊下を西側へと進んでいた。それについて俺は首を傾げた。逃げ場として西側がふさわしいとはどうしても思えなかったからだ。
怪異現象が頻発している三階からいち早く立ち去ろうとするならば、音楽室の間近にある中央階段を使うべきだし、ある程度安全が見込めるという観点では、来た道を戻って東階段を使うのも悪い選択ではない。けれども皆が目指していたのは、よりによって何が起こるかわからない西側だった。
「え?」と俺はつい疑問の声を口に出していた。ただ、冷静な判断ができなかったのを責めている場合ではないし、はぐれてしまうのだけは避けたい。俺は頭を空っぽにして、先行する四人の後をモップと共に追うことにした。途中で一度だけ後ろを振り返った。さいわいなことに”追っ手”はなかった。
すると四人は女子トイレの前で立ち止まっていた。すぐ背後には西階段があった。高瀬、柏木、月島の三人は何かに怯えて身を寄せ合っていた。そして言葉にならない言葉をたどたどしく発していた。
どうやら彼女たちは「トイレから女の声が聞こえる」と伝えたいらしかった。
じっと耳を澄ましてみると、たしかに「カエセ」というような女の声が聞こえてきた。「私の赤ちゃん、カエセ」と。恋する化学教師に騙されてこの場所で死産した女子生徒の話をみんな思い出しているに違いなかった。
では彼らがどうして西階段を使ってさっさと二階へ逃げなかったのか。その答えはリードの先にいるモップが教えてくれた。
見ればモップはいきり立っていた。牙を剥きだしにして唸り、姿勢を低くして臨戦態勢をとっている。
しかしながら、モップが向いている方向は、不気味な声のする女子トイレではなく、真後ろの西階段だった。モップが狂ったように吠えだすのと、雷光が窓越しに西階段の踊り場を明るく照らしたのは、ほとんど同時だった。そこには、本来いないはずの者がいた。いてはならない者がいた。
東階段の踊り場から忽然と消えた”嘆きの女生徒”が、再び俺たちの前に現れたのである。以前とは比べものにはならないほど危険な気配を漂わせて。
俺は気を失いそうになりながらもなんとか自分を律し、みんなに声をかけた。
「西階段がだめなら引き返すぞ! 中央階段から下に下りよう!」
♯ ♯ ♯
「どうだ、うまいか?」と俺はモップの機嫌をうかがった。ストーブの前でぬくぬくと焼きうどんを食べて目を細めるその姿に、もはや一時間前の彼の面影はない。「薄味だけど、我慢しろよ。できるだけ塩分を控えるよう、高瀬に釘を刺されてるんだから」
食欲などまるでなかったが、俺もうどんをすすった。せっかく発作を食い止める方法を見つけたのだから、無理をしてでも食べた方が良い。
「今日はいろんなことがあった」と俺は言った。「だけど、結局は逃げてきた。こんな調子で、今週中に幽霊騒ぎを解決できるんだろうか?」
モップは何も答えなかった。食事に夢中だ。仕方がないので、夜の校舎で起きたことを順番に思い出しながら俺は黙々と箸を動かした。数分が経過して、自分の中に決して小さくない違和感が芽生えていることを自覚する。
もやもやする。すっきりしない。何かが引っ掛かる。しかし、その何かの正体がわからない。肝心なところは霧で隠れている。
「なんだろうこの感じ。気持ち悪いな。うまく説明できないんだけど、もしかして俺は、もうすでに真相に近づくための重要なヒントを得ているんじゃないのか?」
与えられた分をすべて平らげたマイペース犬は、聞く耳をもたず水を飲みに行った。そこで突然テレビが点き、俺を慌てさせた。霊の仕業か、と。なんてことはない。モップがリモコンの電源ボタンを踏んだだけだった。
画面に映し出されたのはバラエティ番組で、お化け屋敷の特集を組んでいた。「最恐」と銘打たれたお化け屋敷を紹介している。
出口から出てきたばかりの若い女のグループに芸人がマイクを向ける。「○○(番組名)です、どうでしたか」。「恐すぎて泣きそうでした」「ねー。本当に最恐だったねー。でもまた来たいねー」。
「バッカじゃねぇの」と俺はテレビに対して言った。「なぁモップ、俺たちの方がよっぽど最恐体験をしてきたよな。お化け屋敷なんてたかが知れてるだろ」
お化け屋敷。その言葉が頭の中に強烈な風を発生させるまでそれほど多くの時間はかからなかった。風は勢いを増し、ついには霧を払う。
俺ははっとして「お手柄だ」とモップを褒めた。「よくこの番組を俺に見せてくれた。お化け屋敷。なるほどな。俺が抱いていた違和感の正体がこういうことだとすると、この幽霊騒ぎの真相は――」
頭の片隅でひとつの仮説がオートマティックに組み立てられていく。それはあまりにも突飛な考えであり、なにより俺にとっては、心情的に受け入れがたいものだった。しかしその考えであれば、多くのポイントで辻褄が合うのもまた事実だった。少なくとも違和感は解消される。この仮説を起点にして推理を進めろ。そんな声がする。
一気にゴールに近づける予感があった。すごろくで例えるなら、それまで1や2の目しか出せなかったのに、さいころを一度に5個振っていいと胴元に許可されたようなものだ。
まだ他に手がかりはないだろうか、と俺は知恵を絞った。仮説を裏付ける手がかりが、何か。何でもいい。
残念ながら、夜の校舎から証拠になりそうな新しいものは持ち帰ることはできなかった。
「いや、待てよ」妙に頭が冴えてきた。「別に新しくなくたっていいんだ! 俺はそれを持ち帰ってるじゃないか」
玄関へと突っ走り、今夜の捜査中に使い物にならなくなった懐中電灯を持ってリビングに戻る。背面のカバーを開け、目的のモノを取り出す。ビンゴ。そこに入っていたのは、俺が買った覚えのない電池だった。
「懐中電灯が点かないという話になった時に、きちんと確かめておけばよかった。動転していて、そこまで気が回らなかった」
後悔していても始まらない。調べるべきことがまだ残っている。俺はストーブの火を一旦消してから背面の電池を抜き、懐中電灯に入っていた電池とそっくり入れ替えた。そして再度点火を試みた。火の気が起きそうな気配はない。懐中電灯はどうだ? スイッチをオンにする。光が、まばゆいまでの光が、部屋を貫いた。
俺は仮説が正しかったことを強く確信し、近寄ってきたモップに微笑みかけた。
「なぁモップ。おまえは知らないだろうけど、俺たち五人はさ、今までに何度も力を合わせてその都度困難を乗り越えて来たんだよ。俺はてっきり、この春だってそうなるだろうと信じていた。だけど、今回はどうやら、これまでの季節とはまったく違った展開を見せることになりそうだ」
モップは何も答えなかった。ただ、聴いてはいる。
「おかしいと思ったんだ」と俺はモップ相手に続けた。「どうして突然懐中電灯が点かなくなったのか。それは霊的な力が働いたからなんかじゃない。もちろん俺が電池を替え忘れたからでも、懐中電灯自体が壊れたからでもない。ではなぜか。簡単だ。誰かが、わざと古い電池に入れ替えたんだよ。俺の目を盗んで、な。そしてそんなことができるのは――」
そんなことができるのは、と俺は頭で繰り返した。あまり良い心地はしない。
「まだまだわからないことはたくさんある。だけど、今の時点で断言できることもいくつかある。この一連の騒ぎを引き起こしているのは、やはり幽霊などではなく、俺と同じ人間だ。それも、一人や二人なんかじゃなく、もっと多くの人間が関わっている。そいつらは何らかの明確な目的があって、こんなにも手の込んだ芝居を打っている。つまり犯人は人間で、複数存在する、というわけだ。
そして――これはできれば認めたくないんだけども、認めるしかない――俺の仲間であるはずのあの四人の中に、間違いなく犯人の一味が潜んでいる」




