第46話 きっといつか許せる日が来るから 3
そうしようと事前に決めていたわけではないけれど、我々一行はさくら公園までやってきた。ここはモップからすれば捨てられた場所であり、俺からすれば面倒を抱え込むことになった場所だった。桜はまだ咲きそうになかった。
俺たちはベンチに座って一休みしていた。モップを飼うことになったいきさつを月島が知りたがったので、俺はかいつまんでそれを話した。
「そういうことだったの」と彼女は言った。「高瀬さんも隅に置けないねえ。捨てられた犬をかばうなんて。これでまた神沢の中でポイントアップだ。高瀬さん、10点獲得」
「なにもそんな言い方することないだろ」
月島はモップの頭を気持ち悪いくらい優しく撫でた。坊主憎けりゃなんたらとも言うし、彼女には目障りな存在に思えているかもしれない。可哀相なモップ。哀れなモップ。
「ちょっと聞いてもいいかな」と俺は気を取り直して言った。「月島は、小さい頃からずっと実家の店を手伝う気でいたのか? 何かしら夢みたいなものを持ったことはないんだろうか?」
大学のその先――やりたいことがいまだに見つからない高校二年生の頭に浮かんだ、素朴な疑問だった。
月島はコートの襟についたタンポポの綿毛を摘まんで息で飛ばした。
「夢、ねぇ。言われてみれば、ひとつだけあったな」
「何になりたかったんだ?」
「内閣総理大臣」
「はい!?」
「プライムミニスター」
「いやいや、言い換えなくてもわかるから」
「どうしたの、間抜けな顔して。私が総理大臣になりたかったっていうのが、そんなに意外?」
意外だった。「おまえさ、普段の自分のキャラクターを思い返してみるといいよ。俺が実は神父になりたかったんだって言ったら、驚くだろ?」
「なるほど」と月島はすんなり納得した。そして失笑した。聖書片手に白々しく教えを説く無神論者は、それなりにコミカルだったらしい。
「話を戻そう。何がどうなったら、せんべい屋で育った少女がそんな野望を抱くんだ?」
「別に日本の政治を変えてやろうとか、そういう高尚な考えがあったわけじゃないんだよ。前にもちょこっと話したけど、ウチの店があるのって両国国技館のすぐ近くでさ、小さい時はよくおじいちゃんと一緒に大相撲を観に行ってたんだ」
「たしか東京都の名誉都民なんだよな、月島のおじいさん」
「へぇ。神沢って、私の言ったことでもちゃんと覚えてたりするんだね」
「いちいち皮肉を挟まなくていいから」
「はっけよい、のこった」
月島は行司の真似をする。仕切り直し、ということらしい。
「ある時私は、どうすれば自分が土俵に上がれるか聞いてみたの。するとおじいちゃんは笑って無理だと答えた。『涼には無理だ。女は土俵には上がれない決まりなんだ』って。『どうしても上がれないかな?』と私は粘った。一度でいいから土俵の踏み心地やそこからの眺めなんかを体感したかったのね。
そしたらおじいちゃんはこう言ったの。そうだ、涼、ひとつだけ可能性がある。総理大臣になるんだ。大相撲には内閣総理大臣杯という賞がある。それを優勝力士に渡すという名目なら、土俵に上がれるかもしれんぞ――」
俺は頬がゆるむのを感じていた。「微笑ましいね、実に」
「お、馬鹿にしてんのか?」
「滅相もない」
はにかみの色が、彼女の横顔に滲む。
「こう見えてもけっこう本気だったのだよ、私は。おほん。続きまして内閣総理大臣杯の授与です。なんでも月島総理のご実家は国技館の近くのせんべい屋さんだそうで、小さい時によくおじいさんと一緒に大相撲を観に来ていたらしいですね。さて、いよいよ史上初めて土俵に女性が上がります。歴史的な瞬間です。おじいさんもどこかで見守っていることでしょう――。悪くないじゃん、こういうの」
共感したしるしに俺がうなずくと、彼女は「まあでも」とつぶやいて、いくぶん目を細めた。
「あの事件があって、月島総理誕生は幻となったわけですが。外国の要人――たいてい男だよね――に会って握手のひとつも満足にできない人間に国のトップは務まらないから」
俺は姿勢を正す。「すまんな、嫌なことを思い出させちゃって」
「平気平気。それより、今の話がちょっとでも参考になれば幸いだ。未来に悩める少年君?」
「未来ねぇ」声の成分のほとんどはため息だった。風がため息を回収した。「俺はいったい、将来何になるんだろう」
そこで月島は待ってましたといういう風に一度手を叩いた。
「実はね、悩める少年に朗報があるんだよ。今日キミに会いに来たのは、このグッドニュースをどうしても聞いてもらいたかったというのもあるんだ」
「朗報?」
月島は優しく微笑んだ。そして隣から俺の目をしっかり見据えた。
「神沢、大学に行けるよ」
「え?」
「え? じゃないだろ。キミはなにがなんでも大学に行きたいんじゃないの?」
「行きたいよ」と俺は即答した。そりゃあ、行きたいよ。
「行けるんだよ、大学に。東京に来て、私と結婚してくれるのならば、ね」
俺はベンチの上で反射的に月島との距離を詰めていた。傍から見れば不意の別れ話に我を失う軟弱男と紙一重の差だろうが、体裁まで気にかけている場合ではない。
「どういうことだよ!? 俺が大学に行けるって」
「額面通り受け取ってもらってかまわない」と月島は冷静に言った。「私ね、東京の家族に本当のことを打ち明けたの。お婿さんの候補が一人いるにはいるんだけど、その男には他に好きな娘がいること。彼には両親がいなくて、経済的に苦労していること。にもかかわらず、どうしても大学に進学する夢を絶ちきれないこと。無類の脚フェチであること」
「最後の、要らないよね?」
「そう? 割と重要な情報だと思うけど」
月島はこれ見よがしに足を組み替えて、話を続けた。
「キミの夢を叶えるために月島家として協力を惜しまない。それが家族会議で出た結論だった。つまり、神沢の大学進学にかかわる一切の費用をこっちで負担してもいいよ、とうちの人は言ってるの」
卑しいことに、頭の中ではいち早く勘定をはじめていた。
どう見積もってみても、¥の後に並ぶのは七桁の数字だ。それは決して小さい金額ではない。新車が買える。世界一周旅行ができる。大学に行ける。俺は混乱した。
「なぁ月島。どうしておまえのご家族は、俺にそこまでしてくれるんだ? 普通、見ず知らずの人間に対してそんな簡単に身銭を切れないぞ?」
それについて彼女はあらかじめ答えを用意していたようだった。すぐに細い指を二本立てた。
「理由はふたつある。まず、ウチは本当の本当に後継者を求めているの。何度でも言う、本当に。切実に。正確にはウチだけじゃない。近所の人や昔からのお得意様なんかもそう。お相撲さんだってそうだ。東京から月島庵がなくなるのは、日本から富士山がなくなるようなものだとまで言ってくれる人もいる。月島庵が存続できるかどうかは、単に月島家だけの懸案事項じゃないの。300年以上も続いてきた伝統の家業を私たちの代で終わらせてしまうのに比べれば、不幸な少年の大学費用を肩代わりするくらい、なんでもないことなんだよ」
そこで月島は指を一本たたんで、残った一本で自らの胸を示した。
「もうひとつの理由は――確認をとったわけじゃないけど――ウチの人たちは私を信頼しきってるという点に尽きるだろうね。『涼が好きになった男なら心配ないだろう』って」
それを聞いて、それじゃ遠慮なく世話になるよ、と即答できるほど俺は厚顔な人間ではない。
「なんだか申し訳ない気がするけどな」と感じたままを伝えた。
「お金のことなら、神沢はあまり深く考えなくていい」
月島は俺に染み込ませるように言う。
「私のママはしっかりしていて、私がいつ気まぐれを起こして大学に行きたいと言い出しても親として困らないように、充分な資金をきちんと確保してくれているの。でももう私が大学へ行くことはない。総理大臣に――政治家に――なる夢はきっぱり捨てたわけだからね。そんなわけで、その資金をお婿さんの夢のために転用することになる。いわばママのへそくりね。だから月島家としては、痛くも痒くもないの」
お婿さん、と俺は小さく声に出してみた。月島悠介。なんだか自分じゃないみたいだ。
「神沢はさ、大学を目指す他の生徒たちを毎日近くで見ていて、羨ましくなったりしないの? 連中にはキミとは違って選択肢が豊富にあるでしょ」
「羨ましいさ、そりゃ」と俺は本音を口にした。消去法が真っ当な進学先の選び方だとは到底思えない。まして残った地元の国立が世界で最も自分に相応しい大学だとも思えない。
「この話に乗ってくれるのならば、神沢だって大幅に選択肢を増やせるんだけどな。なにしろ関東一帯にある大学が候補になるんだから。北は筑波から南は横浜まで、国公立でも私立でも、文系でも理系でも、よりどりみどりだよ。一般受験生と同じように、第一志望や第二志望だけじゃなく、ちょっと高望み気味の大学にも背伸びして挑戦すればいい。滑り止めも受けなきゃね。もちろん受験料は全額うちが持ちましょう。神沢、あわよくば慶応ボーイになれるかもよ。どう? 東京に行きたくならない?」
しばらく黙りこくっていると、月島は体の向きを変えて俺の顔を覗き込んできた。
「そろそろ何かしら反応が欲しいところなんですが」
「すまん」と俺は詫びて、作り笑いを浮かべた。「あまりにもおいしい話すぎて、いまいち実感が湧かないんだよ。この体は悪いニュースには慣れているけど良いニュースには慣れていないんだ」
「まぁ無理もないか」月島も俺が不幸体質なのはよく知っている。「神沢はさ、もしかして、こんな風に考えてない? 『幸せは、苦労してこそ掴めるものだ』って」
俺は小さくうなずいた。
「キミはもっと楽に幸せになっていいと、私は思うんだ。少なくともその資格なり権利なりはあるでしょ。そして誰も責めない。苦労なら、これまでに人の何倍もしてきたわけだからね。今回みたいに目の前に幸せが転がってきたら、迷わず拾っちゃえばいいんだよ。何もわざわざ自ら進んで険しい道を選ぶ必要はないでしょう」
言外に見え隠れする月島の本心に気付かないほど、俺はぼんくらじゃない。「高瀬だな」とその名を出した。「暗に高瀬を諦めろと言ってるんだな?」
月島は不敵に笑ってから肩をすくめた。
「そうだよ。高瀬さんを諦めろと私は言ってるの」
俺は必ず高瀬を望まない政略結婚から救ってみせる。そんな決意を口にしようとした矢先、思いも寄らないことが起こった。それまでベンチの脇で静かにしていたモップが突然立ち上がって吠えだしたのだ。我々の背後へ向けて、怒りの形相で激しい咆哮を浴びせている。その姿はいかにも野獣だ。
いったい何事かと思い、俺と月島は後ろを振り返った。しかしどんなに目を凝らしてみても、そこにあるのはただの木々だった。数週間後には開花を迎える、桜の樹木だ。春の陽気に誘われた全裸男が踊っているわけでも指名手配犯が隠れているわけでもない。
「その犬には見えているのかもわからんよ」
呆気に取られる俺たちに声をかけてきたのは、通りすがりの爺さんだった。
「このあたりは出るんだわ。わしが昔飼っとった犬も散歩でここを通るたび、よくギャンギャン吠えとった。霊感が強いんじゃな。さあさあ若いの。暗くならんうちに、家に帰った方が身のためだど」
「身のためだど」
爺さんの姿が見えなくなってから月島が口ぶりをまねた。そしてベンチから腰を上げた。
「出るって言われちゃったら、帰るしかないか。それにしてもこの春はどこに行っても幽霊幽霊だ。そうそう、忘れちゃいけなかったね。まずは高校の幽霊騒ぎを解決しないことには、大学受験どころじゃないんだった。ということで、まずはがんばって謎を解き明かすことね。お姉さんは辛抱強く待ってるから」
♯ ♯ ♯
俺は居間のソファに寝っ転がり、未来についてぼんやり考えを巡らせていた。時刻は夜の十時を少し過ぎたところだった。モップはソファの下で我関せずと毛づくろいをしている。
「このあいだの柏木の提案といい、今日の月島の提案といい、俺からすれば受け入れない理由を探す方が難しい。それくらい良い話だ。でもどちらかは確実に断らなきゃいけない。いや、どちらも断る可能性だってもちろんある。……どうすんだ、俺」
モップは何も答えなかった。いつものことなので俺はそのまま話し続けた。
「そういえば、おまえも今日で三人娘の全員と会ったことになるんだな。実はいつもものすごく重要な話の席に立ち会ってるよな。俺の秘書かよ」
モップは何も答えなかった。その時だった。
それはいつもと同じように突然やってきた。発作だ。母のたおやかな笑顔が蘇る。俺はトイレへ駆け出す。途中、無意識に廊下の壁を殴る。拳が痛む。たまらなく腹が立つ。できれば今日は、今日だけは、吐きたくなかった。このまま眠りたかった。せっかく月島のおかげで温かい気持ちになれたのだ。ちきしょう、と俺は怒鳴った。怒鳴っても嘔吐を促進するだけなのに。でも母を憎まない。それはだめだと月島が言ったから。
自分以外の足音に俺が気付いたのは、トイレに入った直後だった。その足音は一切の迷いなくこちらに向かっていた。モップだ。彼は狭いトイレ内にするっと入り込むと、何を思ったか俺の腰あたりを爪でかき始めた。
「茶の間に戻れよ」と俺は身振り手振りでモップに伝えた。「馬鹿野郎、俺は今から吐くんだぞ。こんなに密着して、汚れたらどうするんだ!」
モップは何も答えなかった。むしろ、何があっても戻らないと決めたようだった。そしてその目は俺になにかを試すよう訴えているようだった。そんなモップを見て、俺の頭にある閃きが宿った。もしかして、と思った。試してみる価値はあるな、と。
俺はその場にしゃがみこみ、モップの体をひと思いに抱きしめた。きつく、強く、ありったけの愛をこめて。両腕が毛むくじゃらの背中に埋もれる。モップの体温を少しでも感じ取ることができるよう、神経を研ぎ澄ます。モップは少しも抵抗しなかった。
効果は信じられないほどすぐに表れた。母の笑顔は消え、胃の不快感はおさまり、吐き気はどこかに吹き飛んだ。嘔吐は回避されたのだ。モップは無邪気に舌を出していた。俺にはその顔は笑っているように見えた。もちろんめちゃくちゃ口臭がきついけど。
「おまえ、やるじゃねーか」と言って俺はモップをしばらく溺愛した。
モップを飼って良かったと心の底から思えたのは、これが初めてのことだった。




