第46話 きっといつか許せる日が来るから 2
「それにしても、あれには参ったよね」
月島は小振りのバッグを居間の隅に置くと、春用の洒落たコートを脱いでそれを慣れた手つきでたたんだ。コートの下は洒落た白のフリルブラウスと洒落たブーツカットジーンズという装いだった。彼女が着れば囚人服でさえも洒落て見えるかもしれない。
「あれには参った?」と繰り返して俺は考えをめぐらせた。「ああ、このあいだの幽霊か」
「そうじゃなくて」と彼女は言った。「それもたしかに参ったけど――参ったどころの騒ぎじゃないけど――私が言いたいのは、ホワイトデーのこと。何を神沢にお返ししてもらったか、教え合う羽目になるなんて夢にも思わないじゃない」
俺はその時の心境を思い返して大きくうなずいた。
「月島が機転を利かせてくれたおかげで、俺の悩みがひとつ増えずに済んだ」
「キミさ、本当にくまさんのぬいぐるみを買ってくれないかな?」と月島は冗談口調で言った。「もし高瀬さんか柏木がうちのマンションに遊びに来たら、面倒臭いことになる。『あれ? ぬいぐるみなんか無いよ』って」
「特に柏木には気をつけろよ」と俺は注意を喚起した。「あいつなら、ぬいぐるみの有無を確かめるために予告なく突撃しかねないからな」
「夜中とかにね」
「夜中とかにな」
「そう、夜中なの!」月島は呆れて言う。「柏木のやつ、夜中の三時過ぎに電話をかけてきて、何て言ったと思う? 開口一番『愛だよ愛』だって。『悠介に足りないのは愛なんだよ。愛の不足がすべての元凶なんだよ。悠介の発作を治すには愛が必要なんだよ。だから月島も悠介に愛をお裾分けしてあげてよ。かといって何をしてもいいってわけじゃないからね。エッチなことは厳禁だよ、エッチなことは。わかった? それじゃあおやすみ』。ガチャン。……寝られるかっての」
「なんかすまんな」
「神沢が謝ってどうする」月島は肩をすくめる。「だいたいさ、柏木はあたかも世紀の大発見でもしたかのように言うけれども、私だってそれはなんとなくわかってたよ。薬もカウンセリングも効かないとなれば、発作を止めるのは“愛的な何か”しかないじゃないの。どこかの弾丸娘と違って私は愛という言葉を簡単には使いたくないから、そういう言い方を敢えて選んだが」
モップが月島のコートとバッグの匂いを注意深く嗅いでいた。習性なのだ。柏木が来訪した時とは違って、彼は月島には欲情しないようだった。俺は安堵した。欲情したらいささか厄介なことになっていた。
「それで」と言って月島は、鼻のわきを指でかいた。「柏木の台詞を借りれば、どうすれば神沢に愛をお裾分けできるか、私なりに知恵をしぼって考えたわけ。いつもみたいに料理をふるまっても良かったんだけど、発作で戻しちゃうと悲しいでしょ、私もキミも。だからね」
彼女はそこで言葉を切って、部屋の隅へと向かった。そして、いつまでくんくんしてるの、とモップを諭すと、バッグから細長い棒のようなものを取り出した。
「してあげる」
彼女は正座し、自身の太ももを枕にするよう、手で俺に合図する。
「ほら、突っ立ってないで、横になりなよ」
「耳かき?」
「そう。これが私なりの愛だ。不服かい?」
「とんでもない」
♯ ♯ ♯
「柏木にぎゅっと抱きしめられたら、発作が起きても吐かずに済んだんだって?」
耳掃除のあまりの気持ち良さにうとうとし始めた俺の眠気を吹き飛ばしたのは、月島のそんな質問だった。
「柏木から聞いたのか?」と俺は念のため聞き返した。
「まあね」と月島は答えた。「安心しなよ。嫉妬に狂って鼓膜を突き破ったりしないから」
「頼むぞ、本当に」
月島は耳かきをちょっとだけ乱暴に扱って、いたずらっぽく笑った。
「まったく、恥ずかしくて仕方ないよ」と俺は正直に言った。「もし医者に話したら妄想癖のある頭のおかしい患者が来たと思われるのがオチだよな。『異性に抱きしめられたら治ったんです』なんて。俺の体はいったいどうなっちまったんだ。わけがわからん」
「私はわからなくもないけど」と月島は言った。「私だってホワイトデーに神沢に抱きついて匂いを補充して以来、おかげさまで夜は安眠できてるんだもん。それまではあの日の出来事が夢に出てきて眠りを邪魔されることも少なくなかったのに。似たようなものじゃないか」
あの日の出来事――頭の中で、中学時代の強姦未遂事件と変換する。
月島はとくべつ動じることもなく話し続けた。
「人間の体の仕組みで私たちがきちんと正しく理解できている部分なんて、実はまだほんの一部に過ぎないのかもよ。どんなに医療や科学が発達しても、説明のつかないことは世の中にたくさんあるって。病人に特効薬だと偽って単なる砂糖のかたまりを飲ませたら、体調が回復したとかいうワンダフルな例も実際にあるわけでね」
「俺のこの発作は、愛や温もりが足りていないという、心からのSOSである」
柏木の説を引用した。
「がんばれ、愛の戦士」
月島は、こんなに大きいのが取れたよ、と誇らしげに耳垢を見せてくる。
窓からはやわらかな春の光が筋状に射し込み、ソファの上に神々しい日だまりを作りだしていた。そこに西洋風の剣を刺しておいたら、どこからともなく勇者が現れて抜いていきそうなくらいだった。
しかしながら実際に陽光を受けているのは薄汚れた大型犬だった。
モップはソファを独占し、毛づくろいをしている。暇さえあれば(だいたい一分おきに)外と俺の顔を交互にうかがい、〈散歩に行くにはちょうどいい時間ですね〉とそれとなく訴えかけてくる。頼むから空気を読んでくれよ、と俺は顔つきで懇願する。時計の針はちょうど二時半を指していた。
「つかぬことを聞くけど」と俺は言った。「月島のご両親って、どんな人?」
「どんな人」月島は耳掃除する手を一旦止めた。ほどなくして返ってきた答えは「普通の人たちだよ」というものだった。「UFOにさらわれたこともなければ、聖火ランナーを務めたこともない。ビール会社の懸賞で松阪牛かなんかのステーキが当たって、一生分の運を使い果たしたねとか言って笑ってる、平々凡々なおじさんおばさんだ」
「親子関係は良好か?」
「普通だよ。可も不可もない。ママとはつまらないことで口喧嘩するし、パパの言うことは八割以上聞き流してるし。おやおや、こう言うと不可しかないな」
月島はひとしきり苦笑してから耳かきを再開した。
「どうした、神沢。この手の質問をするなんて他人に無関心なキミらしくないな」
「実はさ、最近、こんな風に考えることが多くて」
リラックスしているせいか、本音が口をついて出る。
「俺たち五人は多くの問題を抱えてる高校生だけど、それでも、俺以外の四人は親の愛情を受けて育ってきたんだよなって。そしてそれは前に進むうえで大きな差なんじゃないかって。さっきの口ぶりから、月島もご両親に恵まれたのはよくわかるよ」
彼女はそれを否定しなかった。「柏木はどうなの?」
「あいつの家の場合、両親のあいだに埋めがたい溝があっただけで、父親/母親としては、娘の晴香を可愛がっていた。そして柏木自身にもその認識はあった。だからこそあいつは、富山で父親に会うことで、一応の心の整理をつけられたんだ。俺が母親に会うことでこの発作をしょい込んでしまったのとは逆に」
月島は何も喋らなかった。俺の言葉を待っているようだった。
「はっきり言って、みんなが羨ましくなるよ。普通の両親との普通の親子関係。最高じゃないか、そういうの。嫌味じゃないぞ。本当にそう思ってるんだ。それは、どんなに努力しても俺はもう手に入れられないものだからな。子に冷淡な態度を取り続けたあげく家を出て新しい家庭を築いた母親と、汚い策略によって妻にした女に逃げられ図書館に放火して逮捕された父親。――なんだって俺はこんな両親の間に産まれてきてしまったんだ」
「ユキコさんっていうんだっけ? 神沢のお母さん」
「知ってるのか」俺は月島に母親の名前を教えた覚えはなかった。
「詳しい話は柏木から聞いた」と月島は言った。それから思いも寄らないことを口にした。「私はユキコさんを責める気にはなれないな」
どんな反応を示せばよいのかわからなくなってしまった。とりあえず、へぇ、と当たりさわりのない相槌を打っておく。なんでだよ、と発狂するほど俺も幼稚ではない。
「中学生の時の事件、未遂に終わったわけだけど、私は女としてどうしても『もし』ってことを考えてしまうんだ」
月島は深呼吸してからそう話し始めた。
「もしあれが未遂に終わらなかったら。もし運悪く排卵日が重なって妊娠してしまっていたら。そしてもし中絶する機会を逸して子どもを産むしか選択肢がなくなったとしたら。私はそんな風にできた自分の子どもを愛することはできない。絶対に。
もし産まれたのが男の子であれば、自分を強姦した男の面影をずっと近くに感じながら生きていかなきゃいけなくなる。もしそうなっていたとしたら、まともな精神状態を保ち続けていられる自信が私にはないよ。
子どもの顔を見て、突発的に殴ったり蹴り飛ばしたりすることだってあるかもしれない。場合によっては、最悪の事態になることだってあるかもしれない。『産まれてきた子どもに罪は無いのに』と人は言うだろうね。わかってる。そんなの、わかってるんだよこっちは。でもしょうがないの。そういうものなの。私は聖人君子でもなんでもない。普通の両親から産まれた普通の人間だ。我が子に対して抱くのは、愛情ではなく憎しみだよ」
聞いているしるしに俺はうなずいた。
彼女は言った。「ユキコさんは、神沢のお父さんと不本意ながら結婚したと私は聞いた。本当に好きだった人と別れなければいけなかった、と」
「それが柏木の父親だ。柏木恭一。ま、結局ふたりは元の鞘に収まったかたちになるんだけど」
「たしかにユキコさんは息子である神沢に愛情を注がなかったかもしれない。でも、憎しみもしなかった。そうでしょ? もちろんレイプ犯と神沢のお父さんを同じレベルで語るわけにはいかない。
それでも、ユキコさんが好きでもない――どちらかといえば憎んでいる――男の子どもを妊娠し、産んだのは事実なんだ。葛藤はあったと思う。苦しかったと思う。でも産まれてきたその子を憎むことはしなかった。タバコの火を体に押し付けることもなければ、真冬の夜に外にほっぽり出すこともなかった。
ユキコさんは、母親として自分が選べる最善の道を選んできたんだよ。それが、息子に対して一定の距離を取るというやり方だった。そうすることでユキコさんは自分の身を守り、そして何より、息子の――神沢の身を守った」
いつしか体は震え始めていた。それに気づいて月島は俺の肩や背中を撫でた。
「勘違いすんなよ。今の話は、あくまでも私個人はこう思うよってだけだから。歯車がちょっとでも狂えば不当な妊娠を強いられる可能性もあった女の意見だ。決して一般論として語ったわけじゃない。これを聞いてどう受け取るかはキミの自由だ。ただ、これだけは言っておく。『正しい正しくない』っていう尺度だけで物事を見ていると、大事なことを見逃しかねないよ。私たちが生きている世界はそんなに単純じゃないし、人間はとてつもなく複雑な生き物だ」
俺はどんな言葉も口にすることはできなかった。身動きも取れなかった。体を横たえたまま時間が過ぎるのをただ待っていた。沈黙を破ったのは月島だった。
「いろいろ言ったが結局なにがいちばん言いたいかというとだな」
彼女は俺の顔を両手で掴んで強制的に上に向けた。おのずと視界は月島の顔で占められる。彼女の頬はいつになく赤く染まっている。目が合う。
「私はね、神沢のこの顔が好きなの。大好きなの。目の位置がもうちょっと上でも下でもだめだし、鼻がもう1㎜高くても低くてもだめだし、唇の色がこれ以上健康になっても不健康になってもだめなの。絶妙なの。ジャストなの。たいして格好良いわけじゃないけど。ユキコさんと神沢のお父さん。この二人が親じゃなかったら、当然この顔にはならなかったよね? だから私は二人に感謝してる。会ったことはないけど」
息継ぎ。
「いいかい神沢。世の中には私みたいな変わった女の子もいるんだから、『なんだって俺はこんな両親の間に産まれてきてしまったんだ』なんてことは言わないの。それはだめ。言っちゃだめ。自分で自分の首を絞めてるようなものだよ。私は思うんだけど、そんなことを言ってるうちは、この発作は絶対に治らないよ。大丈夫。お母さんとお父さんのこと、きっといつか許せる日が来るから」
「月島……」俺は彼女の名前を呼ぶのが精一杯だった。
わかった? と月島の口が動いたように見えたので俺はうなずいた。その場しのぎなどではなく、本当に自分を戒めていた。どたどたとアニマルライクな足音がしたのは、月島の唇がじゃっかん近付いた直後だった。ソファから駆け下りたモップが、俺の隣で待ちきれないといった様子で準備運動を開始した。
月島は顔をしかめた。
「やれやれ、モップ君とやら、邪魔しないでくれたまえ。私が神沢とこうやってふたりきりになれる機会は、そう多くないのだよ」
「すまんな、月島」と俺は飼い主として詫びた。時計の針は三時を指していた。「いつもなら、そろそろ散歩の時間なんだ」
「しょうがねぇな。それじゃあみんなで外の空気でも吸いに行くか」
「すまん」と俺はもう一度詫びた。そして立ち上がった。軽い立ちくらみがしたけれど、体の震えはもう収まっていた。