第45話 おばけなんかよりもずっと怖いもの 2
「さて悠介、どこから調べる?」
校内への潜入が完了すると、太陽が口を開いた。
俺は生徒会長の周防姉から譲り受けた怪異ノートと自作の地図を床に広げ、そこに懐中電灯の光を向けた。
「『出る』と噂されている場所の中で、今俺たちがいる実習棟一階から一番近いのは、渡り廊下だな。とりあえずそこをチェックしてから、目撃証言の大半が集中している三階を目指そう」
「三階へは、どの階段を使うの?」
もう恐怖を感じているのか、月島はお守りで顔を隠していた。
「どの階段を使う……って、今の時点でそこまで決めなきゃいけないか?」
「心の準備ってもんがあるでしょ。私はキミたちと違ってビビリなんだから。西、中央、東。どの階段を使うかによって、気合いの入れ方が変わってくるの」
「月島さんのためにも、決めてあげようよ」と高瀬が言うので、俺はノートの目撃談を見てから口を開いた。
「東階段を使おう。ちょうどここは女生徒の霊の目撃証言が多いから」
「このろくでなしは、こともあろうに東階段から行くとほざいております」
月島はお守り相手にそう話しかけた。
「神様仏様ご先祖様、どうぞ私をお守りください」
「いやいや、そこは、『私たち』にしておいてよ」
柏木は図々しく恩恵にあずかろうとする。
高瀬がゴルフクラブを一段と強く握りしめた。「それじゃ、そろそろ行こうか」
「行こうか」と言って俺はうなずいた。他の四人もうなずいた。しかし合意とは裏腹に、誰一人として歩き出そうとはしなかった。
「先導は男の中の男である悠介でしょう」柏木は心にもないことを言う。
「先頭は懐中電灯を持ってる人だよね」高瀬の言い分は一理ある。
「霊を信じてない奴が先に行くべきだ」太陽も霊は怖いらしい。
「多数決は絶対なんだぞ」月島の発言は、民主主義の危うさというものを切実に考えさせる。
「わかったよ」と俺は諦めの声を出した。そして奮って第一歩を踏み込んだ。「後ろからついてきてくれる仲間がいるだけで、ありがたいと思わなきゃな。というか、絶対ついてこいよ? 途中で帰るなよ? 今の俺は、一時に比べればだいぶ人間不信を克服できているということだけは伝えておく」
♯ ♯ ♯
「音楽室、焼却炉、東階段、渡り廊下、女子トイレ、教室前廊下、そして調理室」後ろから柏木の声が聞こえてくる。「幽霊がよく目撃されるこの七つの場所にはある共通点があるんだけど、悠介はわかってる?」
「共通点?」
次に聞こえてきたのは、太陽のため息だ。「前にオレがちょっと話したじゃねぇか。鳴桜高校七不思議。その舞台となっているのが、ちょうどこの七つの場所なんだよ」
「七不思議」
俺は思わずオウム返ししていた。鳴桜高校七不思議。今の今まですっかり忘れていた。幽霊騒ぎの真相を解き明かそうとするならば、それは決して捨て置くことのできないキーワードだ。
「なぁみんな」と俺は後方に声をかけた。「七不思議がどんなものなのか、もう一度詳しく教えてくれないかな? たとえばこれから行く一階渡り廊下にまつわる七不思議は、どんな話なんだ?」
「たしか『渡り廊下の亡霊剣士』だよな」と太陽は言った。「昔の剣道部の顧問ってものすごく厳しい人だったみたいでよ、試合で負けた部員には、防具を着けさせないで指導してたっていうんだ。もうそれは稽古じゃなくて、実質体罰だよな」
柏木が継ぐ。「そしてその顧問はある日ついに、勢い余って一人の男子生徒を殺しちゃったの。血で真っ赤に染まった竹刀が、稽古のすさまじさを何より物語っていたんだって」
「不思議なことが起こったのはそのあと」背中のすぐ近くから、高瀬の声がする。「もちろん顧問の先生は処分されたんだけど、なぜか血で赤く染まった竹刀は、どこを探しても見つからなかったの」
月島も喋った方が気がまぎれるみたいだ。
「それからというもの、血にまみれた竹刀を持った霊が渡り廊下でたびたび目撃されるようになったとか。『先生、僕はまだ戦えます』と誰彼問わず声をかけて、その竹刀を渡そうとするんだって。殊勝だねぇ。怖いねぇ」
怪談リレーが終わったようなので、俺は一旦立ち止まってノートを再び開いた。皆の足音も止む。着目すべきは4月11日の証言だ。
「おかしいな」と俺は言った。「死に至る稽古では防具を装備することは許されなかったのに、幽霊になった途端に、きちんと一式、面まで身につけているのか」
「そういうこともあるんじゃない?」と月島が言った。「たとえば私はこんな話を聞いたことがある。恋人との結婚式を一週間後に控えたバスガイドさんが、不幸にもバスの事故で亡くなってしまいました。一人残された彼氏はその夜、恋人の霊を見ました。彼女が着ていたのはガイドの制服ではなく、二人で仲良く選んだウエディングドレスだったのです」
「幽霊は、亡くなった時の格好をしているとは限らないんだ」
高瀬はちょっと感動している。
「悠介は細かいことを気にしすぎなんだよ」と柏木がからかい口調で言ったので、俺は少々ムキになった。「いや、これでいいんだ」と首を振る。
「こういう不自然なところにこそ、謎を解く手がかりが眠っているんだ」いつか観たミステリ映画の受け売りだけど。「亡霊剣士の出没場所が渡り廊下という点も、考えてみればおかしい。剣道部に何の関係がある? 稽古場はずっと向こうの別棟だろ? 竹刀を返そうとするなら別棟に出るべきなんだ。渡り廊下じゃない」
太陽が俺の肩を軽く叩いた。
「疑問に思うのなら、どういう理由で渡り廊下をさまよっているのか、ご本人に聞いてみればいいじゃねぇか。どのみち、もうすぐ会えるよ」
「怖いこと言うなよ」
実はさっきから鳥肌が立っているのは、皆には内緒だ。
♯ ♯ ♯
「なんか今、動かなかった!?」と柏木が声を上げたのは、渡り廊下に俺が率先して足を踏み入れたまさにその時だった。
くるぶしを無数の見えざる手に掴まれているみたいに、その場に釘付けになる。
「悠介、右手を動かすんだ!」
太陽の指示にしたがい、懐中電灯の光を散らす。誰かが背中の裾を引っ張っているけれど、やめろとも言えない。もし「誰も引っ張ってないよ?」と返ってきたら気絶してしまう。
光が廊下の左奥のポイントを照らした瞬間、反射的にはっと息をのんだ。
何かがたしかに動いたのだ。
空気がにわかに重みを含む。現実と非現実の境界線があやふやになる。奥歯が震えだす。寒い。
その何かは光から逃れるようにしてより深い闇の中へと――実習棟側にいる俺たちからすれば教室棟側へと――姿を消した。
「今の、見たよな?」
後方に確認をとる。「見たよ」「バッチリ」高瀬と柏木がそれぞれ反応した。月島はうんともすんとも答えなかった。答えそうな気配もなかった。無理もない。お守りを介して祈祷している最中なのだ。振り返らなくてもわかる。
「ほら悠介、前に進めって!」
太陽の分厚い手が背中を押してくる。本音では、もう家に帰って毒にも薬にもならないお笑い番組でも見ていたかった。あるいは凡庸な音楽でも聴いていたかった。しかしそういうわけにはいかない。どのような結末が待っているにせよ、この夜の探索に未来が懸かっている。
俺はありったけの勇気を振り絞って、歩行を再開した。
俺の記憶にある渡り廊下は人の往来が絶えない場所だ。笑い声があり、教師の悪口があり、気になるあの娘のゴシップがある。
それだけに、がらんとしているとますます不気味に感じられた。まるで病院の霊安室に続く廊下を歩いているようだった。静けさが忌まわしくて仕方ない。
やはり学校は多少うるさいくらいがちょうどいい。なんだかんだ言っても学校の主役は生徒だ。今を生きている生徒だ。俺たちだ。
ひとつ勉強になったところで耳を澄まして足音を確かめる。大丈夫。四人とも後ろからついてきている。
「もう、なんだか陰気くさいねぇ」柏木が皆を代表して言う。「こんな時こそ、ミュージシャン様の出番じゃないの。さあ、一曲歌いなさいよ。ここは明るいナンバーをお願いね」
「お、おうよ」
太陽はウクレレの存在をすっかり忘れていたようだ。喉の調子を整えてから、弾き語りを始めた。それはあまり明るいとはいえないさだまさしの曲だった。
「なんでさだまさし?」と俺は真意を尋ねずにはいられなかった。
「さぁ? 自分でもよくわからん」と太陽は間奏時に答えた。ま、平常心でいろという方がもともと無理な話なのだ。
俺たちはたかだか25メートルそこらの道のりを、マラソン選手なら2500メートルを走りきれるほどの時間をかけて移動した。
もしもここが高校の渡り廊下ではなくお化け屋敷だったなら、業を煮やしたスタッフ兼お化け(きっと口からフェイクの血を流している)に「出口はこちらです」と誘導されていたことだろう。
道中、太陽は昔の曲を繰り返し演奏し、懐古趣味があるわけでもない三人娘をうんざりさせた。リクエストは一切受け付けない方針であるようだった。
「渡り廊下、終わっちゃったね」と高瀬は皆の緊張をほぐすように言った。
俺はうなずいた。「教室棟に、無事着いたな」
懐中電灯を右前方に向ければ、そこにはもう1年A組の教室がある。実習棟よりは何倍も親近感のある風景だ。誰かが背後でほっとため息をついた。
「なーんだ。結局なにも起こらないじゃないの」と言って舌打ちするのは、ただひとり金儲けを目論む柏木だ。彼女は次に、おーい、と叫び声を発した。「出てこーい、亡霊剣士! もしかして君は、臆病者なのかい!?」
「やめなって」月島は今にも泣きだしそうだ。「そんな風に挑発して、本当に出てきたらどうするのさ」
「出てくればいいんだよ。このままだと、何しに来たかわかんないでしょ?」
霊的な存在はないと踏んだのか、柏木は脳天気に笑う。しかしいつまでも笑ってはいられなかった。出し抜けに、物音がしたのだ。どすん。
俺はすぐさま後ろを振り返って、皆と顔を見合わせた。誰の表情からも余裕が消えている。俺だって人のことは言えないだろうけど。
全員でゆっくり物音のした方へ視線を転じた。
「購買部だよな、その辺って」太陽がひそひそと言う。「悠介、ライトを当ててくれ」
俺はもう一度うなずき、懐中電灯を持つ手を動かした。水平に、慎重に、おそるおそる。
ほのかな光が照らし出したのは、一組の男女だった。面も小手も竹刀もふたりは装備していない。着ているのは俺たちと同じ制服だ。購買部のカウンターの陰で、むつまじく寄り添っている。
「おまえ、何やってんだよ」
太陽は男の方に声をかけた。
「やっぱり葉山先輩でしたか」と男子生徒は光の中で照れ笑いをして、床からスクールバッグを拾い上げた。”どすん”の正体が判明した。
「葉山君、知り合い?」
高瀬が聞くと、中学の後輩のオバナだ、と太陽は答え、ふたりに近付いていった。
「おい尾花。おまえ、入学したばっかりでもう彼女ゲットかよ。ま、彼女と夜の学校で何をしていたかは、オレも男だ、問うまい。それは問わないから、代わりにひとつだけ聞かせろ。真っ赤な竹刀を持った剣道部員を、見なかったか?」
一年生カップルは揃って首を傾げ、揃って手を振った。
「もしかして――」
そこで何かに思い当たったように低い声を出したのは柏木だ。
「さっき、渡り廊下から教室棟へ逃げていったのって、あんたたち?」
「へへっ。すみません」彼氏は鼻先をかく。「誰かに見つかるとマズイと思って逃げたんです」
「まぎらわしい真似をしやがって。怪しいんだよ、おまえ」
太陽はでこぴんをお見舞いした。すると後輩は社交辞令的に痛がり、舌を出し、それから俺たちの姿をひとしきり眺めた。
「先輩らにこんなことを言うのは本当に気が引けるんですが、あのですね、怪しいのは、完全に皆さんの方っすよ?」
それもそうだな、と俺は心から納得した。他の四人も否定はしなかった。
ビデオカメラ片手に皮算用する者がいる。
巨大お守りにぶつぶつ祈る者がいる。
ウクレレでさだまさしを弾く者がいる。
ゴルフクラブで臨戦態勢をとる者がいる。
どう贔屓目に見ても、まともな集団とはいえない。
太陽はカップルに帰宅するよう命じ、ふたりはそれに素直に従った。彼らの姿が闇に消えると、俺は太陽に話しかけた。「今の彼、尾花っていうのか?」
「ああ。それがどうかしたか?」
「いや、たいしたことじゃないんだ、別に」
幽霊の正体見たり枯れ尾花。そのことわざを連想したのは俺だけだろうか?