第44話 誰かを愛することができるのだろうか? 3
「俺たちが居酒屋を継ぐ?」
柏木は大きくうなずいた。
「優里の『大学進学』や月島の『実家再興』に比べれば、あたしの手にしたい未来ってちょっと漠然としてたでしょ? 『幸せな家庭を築く』なんてさ。もしかすると悠介は『どうしたらいいんだよ』って困ってた部分もあったかもしれない。でも、ようやく具体的な道を悠介に示せるようになったの。これだ! って思ったの。うちで一緒に暮らして、一緒に働こうよ。それがあたしたちの望ましい未来なんだよ」
望ましい未来、と俺は小さく声に出した。
「絶対うまくいく」柏木はすかさずそう続けた。「考えてもみなよ。居酒屋をやっていくのなら、あたしたちみたいな最強コンビはそうはいないよ? 悠介は厨房担当。小さい頃からたくわえてきた料理のノウハウと一年間居酒屋でバイトしてきた経験を活かして、お酒に合うメニューをバンバン開発しちゃいなさい。接客とか配膳とかそういう愛想が必要な仕事はあたしが引き受けるから。
一見不器用そうだけど包丁を持たせりゃ腕は確かな大将と、美人でいつも陽気な女将さん。こんなふたりが切り盛りする居酒屋、繁盛しない理由を探す方が難しいでしょうが」
俺は思わず唸った。なるほどなぁ、と感心しないわけにはいかなかった。
「俺がこれまで一人で生活してきたことや、大学進学の為に足掻いてきたことが――つまり両親の不在によって課された諸々のことが――居酒屋を継ぐとなれば、無駄じゃなくなるというわけか」
「そうなんだよ」柏木は頬をほころばせた。「見方を変えれば、悠介の天職は居酒屋のマスターだったとも言えるの。これまでの苦労はすべて、この未来のためだった。悠介もそう思わない?」
「そうかもしれない」としか俺は言えなかった。柏木は満足げに大きくうなずいた。
「もし悠介の発作がこの先完治しなかったとしても、対応可能だよ。だって、働いてる時もそうでない時も、ふたりはずっと一緒にいるんだから。発作が始まればいつだってあたしが抱きしめてあげる。ぎゅって、愛をたっぷり込めて」
「いくらなんでも仕事中はまずいだろ。ミュージカルじゃあるまいし」
「事情を説明すれば、お客さんだってわかってくれるって。全然悪くないじゃない、ミュージカル居酒屋。歌って踊って抱き合う居酒屋。どうせなら愛と笑いに溢れる新時代の居酒屋にしようよ。きっと評判になるよ」
立つのは悪い評判でなければいいのだが。いずれにせよ、なかなかエキセントリックな居酒屋になりそうではある。
「そういえば」と俺は富山での彼女との会話を思い出して言った。「おまえ、俺が大学を目指すならそれを応援するって張り切ってくれたよな? あれは忘れたのか?」
「忘れるわけないでしょ」と柏木は即答した。「覚えてるし、一度言ったことは撤回しません。大学に行けるなら行けばいい。いつまでお金が続くかはわからないけど、続く限りは大学生でいればいい。でも卒業できるにしてもそうでないにしても、悠介は『その先』が決まってないんでしょ?
そして今あたしは、『その先』の話をしているの。なにも高校卒業と同時に働き始めろなんて言ってるわけじゃないの。大卒のフリーターがあっちこっちに溢れてる時代だもん、大卒の居酒屋の大将がこの街に一人いたって日本は滅びないでしょ」
「大学のその先を考えながら、これからの高校生活を過ごしてみてほしいの」
進路指導のカンナ先生も俺にそう諭した。大学のその先。いまだ未定の未来。カンナ先生も柏木も絶妙なところを突いてくる。
柏木が指を立てて俺の気を引いた。
「あたしさっき、いずみ叔母さんは何年後に恋人と一緒に住み始めるって言った?」
「たしか、六年後だったよな」
「そう。それで、今から六年後って、あたしたち何歳になってる?」
「22歳だ」口にしてすぐにはっとした。「ストレートにいけば俺が大学を卒業する年齢か。ちょうどうまい具合に重なるんだな。社会人一年生になる時期と店の後継者が必要になる時期が」
どの始点を選んでも終点は必ず居酒屋になる、精巧なトリックが仕組まれたあみだくじを引かされている気分だった。
「あたしはさ、叔母さんには心から感謝してるんだ」と柏木は落ち着いた声で言った。「だって大変なことだよ? 自分が産んだわけでもない子どもを引き取って面倒をみるなんて。精神的にも肉体的にも、もちろん経済的にもね。いくらあたしが兄貴の子で血のつながりはあるっていったって、大人になれば兄妹って他人も同然じゃない。
でも叔母さんは一回だって愚痴や嫌味をあたしにこぼさなかった。まるで自分の娘みたいに接してくれた。朝から晩までお店で働いて、その合間に洗濯や掃除をして、参観日にだって来て、休みの日になると『あんたは若いんだから、外で遊んできなさい』って笑顔で言えちゃう人なの。叔母さんは多くのものを犠牲にして、あたしのために生きてくれたんだよ。今のあたしがあるのは、あの人のおかげだよ」
社会があまたの不条理を抱えながらそれでも一定の健全さを保っていられるのは、いずみさんのような人がいるからなんじゃないかと俺は思った。立派な女性だ。柏木の言うように、なかなかできることじゃない。
その一方で自分で産んだ子を捨てた過去を省みず、さも真っ当な人間が真っ当な生き方をしているというような顔をする女がいる。本当に実在するのだ。俺の母だ。おめでたい女だ。
「あたしは叔母さんにも幸せになってほしいんだ」と柏木は続けた。「六年後にね、『お店のことはあたしたちに任せて、これからは心置きなく自分のために生きて』って送り出してあげるのが、叔母さんに対して一番の恩返しになると思うんだよ。そういう意味でも、悠介はなくてはならない存在なの。叔母さんは、悠介なら安心して後を任せられるって太鼓判を押してる。
ねえ悠介。あたしと一緒に居酒屋を継ごうよ。あたしに決めちゃいなって。そうすればいろんなことが丸くおさまるんだから。
この未来では、どんなにがんばっても国民栄誉賞やノーベル賞を取れるわけではないし、プールつきの豪邸を建てられるほど大金持ちになれるわけでもない。でもね、悠介が求めているのは、そういうものじゃないでしょ? 地味でも平凡でも、家族がきちんと家族として機能している、そんな毎日でしょ? 人の温もりがいつでも近くにある、そんな生活でしょ? あたしと一緒にがんばってみようよ。きっと、いや、絶対、幸せだと思える日が来るから。富山に逃げたあたしのバカ親父と有希子さんを見返そうよ」
喉がえらく渇いていた。何かさっぱりしたものが飲みたかった。しかしもちろん今ここで離席するわけにはいかなかった。柏木は俺の言葉を待っているのだ。
「ひとつ解けた謎がある」と俺はイエス・ノーを保留して言った。「俺が高校から退学処分を受けるかもしれないと聞いても、どうしておまえは冷静だったのか。当然だよな。この未来を想定していたのなら、俺の最終学歴なんかどうなろうと関係ないんだから」
「こう言っちゃ悪いけど、むしろ好都合なんだよね」と彼女は認めた。「高校を辞めさせられたら、迷わずうちにいらっしゃい。そして叔母さんの下でみっちり修行を積めばいい。あ、そうなると、そこのスケベ犬は処分してね。食品衛生上、動物がうちの敷居をまたぐのは好ましくないから」
隣でモップがにわかに警戒を強めた、ような気がした。柏木は「大丈夫」と続けた。
「中卒でも大学に行けるくらいの頭脳の持ち主であることは、あたしがきちんとわかってるから」
「プライドの問題じゃないんだけどな」
「じゃあ何が問題? やっぱり例のアレ? 悠介を幸せに導くっていう運命の人――“未来の君”?」
俺は胸にたまった息を吐き出した。柏木は富山で母が俺に語った“未来の君”に関する重大な真実をいまだに知らない(というかそもそも、小説『未来の君に、さよなら』が存在していること自体を知らない)。
したがって俺と彼女には、“未来の君”という言葉に対する認識の相違がある。
俺はその言葉を聞けばただちに柏木を連想する。対して当の本人は、自身と高瀬と月島を思い浮かべるはずだ。現に柏木は、真顔でこう尋ねてきた。
「三人のなかで誰が悠介の“未来の君”なのか、まだはっきりしないの?」
「あいにくヒントも手がかりも見つからないんだよ」と俺はしらばっくれた。
ふぅん、と彼女はあっけらかんとして言った。「ま、悠介に出会った頃から一貫して言ってる通り、あたしは柏木さんこそが“未来の君”だと思うけどね」
「正解だ柏木さん」と声高に叫んで彼女を抱き寄せたら、そこで何もかも終わってしまうんだな。そんな考えが一瞬でも頭をよぎったのは、柏木案に傾きかけている自分が俺の中にいる証か。
「あのさ」俺は気持ちを切り替え、ある疑問をぶつけてみることにした。「こんなことを尋ねるのは心苦しいんだけど、もし“未来の君”が高瀬か月島だとしたら、おまえはどうするんだ?」
「別にどうもしないよ」と彼女は言った。「だってあたしは本当に悠介のことが好きなんだもん。そして悠介と一緒に幸せになるっていう信念があるんだもん。それがすべてじゃない。“未来の君”かどうかなんてどれだけの意味を持ってるの?
もしも運命の神様があたしの前に姿を現して『悪いけど、晴香ちゃんは悠介の“未来の君”じゃないんだ。晴香ちゃんに悠介を幸せにすることはできないんだ。だから諦めてくれないかな』とか言ったとしてもあたしは聞き入れない。うっさいわこのボケ、って蹴っ飛ばしてやる。降参するまで腕ひしぎ逆十字固めをお見舞いしてやる。
あたしの未来を決める権利はあたしにしかない。神様にだってない。あたしは運命なんていう得体の知れないものより、自分の想いや考えの方を大切にする。富山から帰ってきて、そう決めたの」
皮肉なもんだな、と俺は思わずにはいられなかった。
去年の春に老占い師が水晶の中に見た人物――“未来の君”は誰なのか。
“未来の君”ではない(可能性が高い)高瀬がそれについて必要以上に気を揉み、“未来の君”である(可能性が高い)柏木がそれについてこだわらなくなっているのだ。
高瀬が真相を知ったなら、果たしてその時彼女はどんな反応を示すだろう?
「神沢君。私は“未来の君”じゃないけど、大学には連れていってよね」とワガママを振りかざしてくれると良いのだが。
いや、それはないな、と俺はその希望をすぐに打ち消した。なんといっても高瀬優里という人は愛する郷土のためなら18歳以降の自らの未来を差し出してしまえるのだ。利他主義者なのだ。良い子ちゃんなのだ。
彼女はエゴイストには転向できないし、神様に蹴りを入れるバチ当たりにもなれない。
神沢君は晴香と一緒なら幸せになれるよ。そんな感じの台詞を残して、俺の前から姿を消すに決まっている。そしてもう二度と大学に行く夢を語り合う機会は訪れないのだ。
「“未来の君”かどうかなんてどれだけの意味を持ってるの?」
その言葉を高瀬の口から聞けたなら、どんなに良かっただろう? どんなに胸がすいただろう? しかし事はそうは都合良く運ばない。雨の日に傘は無く、晴れの日に傘がある。
「あたし、待ってるね」柏木は帰り支度をしながらそう言った。「悠介から前向きな答えが聞けるのを待ってる。時間をかけてじっくり考えてみて。悠介にとって何が一番幸せなのか。悠介は将来、どんな自分になりたいのか。居酒屋を一緒に継ぐっていうあたしの考えはもう何があっても変わらないから。っていうか、もう、そういう方向で動き出してるし」
「そういう方向で動き出してる?」
黒板の消えかけた文字を読むように、俺はたどたどしく繰り返した。
「どういう意味だ?」
柏木は廊下へ通じるドアのノブに手をかけた。それから「そのままの意味だよ」と答えた。
「叔母さんにはもう言っちゃってるから。あたしと悠介で後を継ぐって。来週にはさっそく、どんな風にお店を改装するか、工務店の人と話し合う予定になってる。そういうわけで、もう後戻りはできないの。あたしは誰かと違って道草なんてするつもりはないの。……いっそのこと、退路を断ってみました」
「ちょ、ちょっと待てよ。俺の意思はどこに行った!? こんな大事なことをおまえの独断で決めるなって!」
「悠介との未来を夢見て、もう30人以上の男の求愛を拒んでるんだから、これくらいのフライングは大目に見てよ」
彼女はそう言い残すと、投げキッスを寄越して去って行った。
リビングで立ち尽くす飼い主をよそに、モップは楽しげに尻尾を振ってソファに向かい、柏木が座っていた場所の匂いを嗅いだ。変態、と非難されないのは犬の特権だ。
やがてモップはそこで体を横たえた。まるでこの残り香の主は自分の女だと言わんばかりに。
「あのお姉さんのことを気に入ったか」と俺はモップに声を掛けた。「でもな、残念ながら、あの人は俺の“未来の君”なんだよ。おまえのじゃない」
モップは何も答えなかった。
「おまえの命を救ってくれた優しいお姉さんが“未来の君”だったなら、俺としては言うことなかったんだけどな」
モップは何も答えなかった。犬相手に不平を言っても仕方ないので、やむなく俺は時計を見た。5時20分だった。待ち合わせの時刻まではまだ一時間近くある。
気分転換にシャワーでも浴びよう、と俺は思い立った。
今の俺はひどい顔をしているに違いない。そんな墓場から這い出てきた死人みたいな顔で高瀬に会うわけにいかない。幽霊の正体は俺なんじゃないかと彼女に疑われてしまう。
モップの飲み水とトイレシートを取り替えてから(雑種犬の世話もすっかり生活の一環となった)洗面室へ行き、給湯器の水温をいつもより3℃高く設定した。服と下着を脱いで浴室に入り、シャワーの下に立つ。
発作が起きたのは、熱い湯に打たれはじめてからおよそ3分後のことだった。
これまでの経験則からそろそろ来そうだという気はしていたので、さしたるショックはなかった。むしろ校内探索の最中に起きなくて良かったと胸を撫で下ろしたくらいだ。
とはいえ、嘔吐は嘔吐である。ゲップやしゃっくりとはわけが違う。体力の消耗があり、意欲の減退があった。シャワーによって排水口へ流されていく”かつて自分の一部だったもの”を眼下に見ながら、俺は肩を落とした。
「この発作はきっと、悠介の心が発信してるサインなんだよ」と柏木は言った。愛が不足しているという警告なんだよ。悠介は愛を知らない、と。
「愛かよ」可笑しくなってつい笑っていた。
しかし俺はそれを認めないわけにはいかなかった。俺は両親にもそれ以外の人間にも、愛と呼べるようなものは与えられることなく育ってきた。外観では決してわからない大きな欠乏を抱えた状態で、十代の後半を迎えたのだった。
俺は愛を知らない。
あらためて一人になって考えてみれば、そこには字義以上に大きな問題が潜んでいるように思えた。笑っている場合などではない。いつか柏木がたしなめたように、今や俺の問題は俺一人の問題ではないのだ。
高瀬優里、柏木晴香、月島涼。
きっと俺はこの三人のうちの誰かと共に生きていくことになるだろう。未来を開拓していくことになるだろう。だが誰と生きるにせよ、どんな未来を切り拓くにせよ、果たしてそのパートナーに愛を捧げることができるのだろうか?
愛の何たるかを知らない俺が、だ。
高瀬と大学に行くにしても、柏木と居酒屋を継ぐにしても、月島と東京へ渡るにしても、人を愛せないというのは、幸せを求めるうえで決定的な急所になるんじゃないだろうか? そして選んだ相手を傷つけてしまうんじゃないだろうか? 「こんなはずじゃなかった」と。
それは想像するとおぞましい未来だった。目眩がした。
俺はほとんど衝動的にシャワーを湯から冷水に切り替えた。
誰かを愛することができるのだろうか?
クールダウンした頭は、そんな問いを自分に投げかけていた。俺にはどんなポジティブな答えも思い浮かばなかった。
もしかしたら俺が闘うべき相手は、社会の不条理でもトカイでも周防でもなく、俺自身なのかもしれない。




