第44話 誰かを愛することができるのだろうか? 1
「悠介」と柏木はたしなめるように言った。「ゴハンくらいちゃんと食べなきゃ、まとまる考えもまとまらないよ?」
高校へ来る最大の目的が幽霊騒ぎの解決となって、初めての昼休みを迎えていた。火曜日だ。
正午をちょっと過ぎた教室内では、午後の授業に備えて誰もが腹ごしらえと気力の補充につとめている。ただひとり俺を除いては。
俺が今すべきなのは、前日に得られた情報をひとつひとつ精査することだった。有用なものとそうでないものに振り分けるのだ。この幽霊騒ぎの真相に辿り着けるかどうかが、そのまま未来の明暗に直結する。悠長にメシを食べてなんかいられない。
それに、食べたところでどうせ例の発作ですべて戻してしまうのだ。
未消化の食べ物が排水口や便器へ流れていくその無惨でグロテスクな光景は、いつだって俺の情緒をひどくかき乱した。それは何度繰り返し見たからといって慣れる代物ではなかった。だから見たくない。ならば食べなければいい。そういう結論になる。皮肉にも空腹で何かを考えることにこの体は慣れ始めていた。
「腹が減ってる方が頭が冴えるんだ」と俺は前の席の世話焼きにやんわり返した。
「授業中もずっと、ああでもないこうでもないって独り言をぶつぶつ言ってたでしょ」
柏木は左手に弁当箱を持って、体を完全にこちら側へ向けた。
「後ろの席に変質者がいるみたいで、落ち着かないんですけど」
「それくらい耐えてくれ」と俺は理解を求めた。「今のうちにひとつでも多く手がかりを見つけて、放課後の捜査を効率良く進めたいんだよ。とにかく時間がないんだ」
「そんなに急がなくたって大丈夫だって。期限の日までまだ13日もあるんだから」
「たったの、13日だ」
柏木の余裕はいったいどこからやってくるのか、俺にはさっぱり理解できなかった。
なんとなしに首を回してみる。2年H組の教室には高瀬も太陽もいない。
高瀬はきのうの仕事をサボった件で風紀委員会に怒りの呼び出しを受けていたし、太陽は以前から交流があった周防姉にあらためて感謝を告げに出向いていた。ふたりには後で、幻のきなこメロンパンでもおごってやらなきゃ合わせる顔がない。
「で、何かわかったの?」
俺にそう尋ねた後で柏木は、ふりかけがかかったご飯をしなやかに口へ運んだ。転落事故の後遺症で箸すらまともに使えなかった冬の彼女の姿が思い出される。
悠介くんが食べさせてくれると何でも美味しい。柏木にもそんなことを言う幼気な時期があった。胸が温もる。俺は頭を振った。センチメンタルになっている場合ではない。
「ちょうどいい。ここで一度、情報を整理してみよう」と俺は言って周防姉から渡されたノートを柏木に向けて開いた。
「注目すべきポイントは今の段階では大きく分けて三つある。一つめは、幽霊騒ぎが始まった時期だ。ノートを見てくれ。おかしな出来事は一学期の始業式直後から相次いで発生している。柏木、これはいったい何を意味すると思う?」
「お化けも春休みが終わったんでしょ」
「そんなわけあるか」
彼女に助手を期待した俺が馬鹿だった。
「いいか、一連の心霊現象は、やっぱり人為的なものなんだよ。誰かがなんらかの意図を持って騒ぎを引き起こしている。俺にはそうとしか思えない。なにしろ三月以前は幽霊のゆの字も話題にならなかったんだ。それがどうだ、幽霊は四月になってからは毎日のように出没している。こいつはあまりにも不自然だ。不自然さがあるということは、そこに人間の思惑が絡んでいるんだよ」
「でもさ、悠介の言う通りだとしたら、いったい誰がなんの目的でこんな悪趣味なことを企むわけ?」
「さぁね。それがわかったら、苦労しないって」単なるいたずらにしては、手が込みすぎている。「なにかしらあるんだろうさ。春光うららかな季節に陰気くさい幽霊騒ぎを起こさなきゃいけない理由が」
柏木は、ふうん、と興味なさそうに相づちを打って、エビフライを食べた。
「第二のポイント」と俺は落ち込むでもなく続けた。ノートに指を置く。
「それは、時間だ。みんなの証言によれば、夜の六時から七時のあいだに集中して怪奇現象は起きている。特に七時頃に何かがあったというケースがとても多い。ま、幽霊だけにお天道様が出ているうちは活動できないってことなのかもな。いずれにせよ、これは謎を解くうえで見逃せない共通点だ」
「そういえば、きのうの放課後に話を聞かせてくれた人たちも、そろって七時くらいって言ってたよね」
俺は回想し、うなずいた。
「なんだかみんな、ずいぶん後ろめたそうな口ぶりだったよな」
ある生徒は決して口外しないでくれと釘を刺してきたし、またある生徒は必要以上に周囲を気にかけて話したのだった。
「そりゃそうだよ」柏木は眉を上げる。「七時って、校則で決められた完全下校時間なんだもん。たぶん皆、七時を過ぎても学校にいたのがばれると困るから、そわそわしてたんだよ」
「へぇ。でもそういう奴らって、何が楽しくてそんなに遅くまで学校に残ってるんだろう。やることなんか別にないよな?」
好奇心からそんな疑問をなにげなく口にした俺は、相変わらず青かった。柏木の瞳が妖しくきらめいて、自分の想像力の乏しさを思い知る。やることなら、ある。あんなことやこんなこと、だ。
「部活してる人なんかはなにかと忙しいからさ、マジメに規則を守っていると、恋人とふたりきりで会う時間をなかなか作れないわけですよ」
柏木はやけに同情的に語る。恋のためなら校則をも恐れぬ彼らをまるで英雄視する口ぶりだ。
俺は手を扇にして顔をあおいだ。「けしからんな」
「おー、怒ってる怒ってる」
「幽霊の正体がわかった」と俺は語気を強めた。「不純異性交遊をこの高校から追放しようと奮闘する風紀委員たちだ。俺は応援するぞ」
「それ、本気で言ってる?」
「そんなわけないだろ」
「第三のポイント、どうぞ」
「今度はこいつを見てほしい」と俺は咳払いしてから言った。そしてメモ書きや筆記用具のたぐいが折り重なって出来た山の中に手を突っ込んだ。一枚の紙を引っ張り出してくる。
「見取り図ですか」
「生徒手帳にあったものを図書室で拡大してきた」と俺は言った。「第三のポイントは、場所だ。怪奇現象は校内のあっちこっちで起こっているというのが生徒の共通認識らしいけど、実際に証言をみてみると、実習棟の三階とその付近に事例が集中していることがわかる」
「黄色いマーカーで塗ってあるところが、そうなんだね?」
「ああ。それからもう一点、忘れてはならないのは、裏庭の存在だ。図を見ればわかるように、男のうめき声が聞こえてきたという焼却炉は、教室棟側ではなく、実習棟側の裏庭にある。4月15日には調理室の窓に鬼火のようなものが見えたらしいけど、その目撃者がいたのもやはり裏庭だ。実習棟三階と裏庭。このふたつのエリアに謎を解く鍵が――言い換えるなら幽霊の正体を示す何かが――あると俺は考えている」
「ふうん。まぁ、解決に向けてがんばって」
ずいぶん淡泊だな。そう言おうとした瞬間、それは突然やってきた。
邪悪な魔術師が巨大な杖で地上からあらゆる光を吸い取ったかのように、目には闇しか映らない。しかしその暗転が一時的なものであることはこの体がよく知っている。次に何が見えるかはもっとよく知っている。幸せな一家だ。その中心には母がいる。俺を取り除いた世界で彼女が築き上げたかけがえのない自分の居場所。
闇が次第に薄まってくる。そこから絹糸にも似たか細い線が現れる。線は輪郭を形づくる。予想通り輪郭は三輪車になり柏木恭一になり幼い双子になり母になる。そして母は至福の笑みを浮かべる。それと同時に強烈な吐き気が俺を襲う。やはり今回も例外ではなかった。
157回目。
通算157回目の母親の笑顔のフラッシュバックであり、それにともなう発作だった。
たまらず俺は席を立ち、教室の外へと駆け出していた。
廊下へ出るとまっしぐらに最寄りの男子トイレを目指す。今回の儀式はそこで執り行う。生徒のあいだを縫うようにして俺は走る。できるだけ最短距離で進むことを心掛ける。時にはわずか一秒のロスが命取りになる。公衆の面前でだけはヘドをぶちまけるわけにいかない。
「悠介っ!」
背中に金切り声が刺さった。柏木の声だった。こともあろうに彼女は俺の後を追ってきたらしい。振り返る余裕は今の俺にはない。ただ、次第に大きくなる足音で、距離が縮まっているのは把握できる。
柏木がその気を出せば、陸上部員の自己ベストを上回るタイムをたたき出せる脚力の持ち主であることは周知の事実だった。そして彼女は今その気を出している。足音がそれを物語っている。病み上がりなのだから無理をしてはいけないのに。
儀式の舞台に到着した俺は、ふたつの事実によっていっときの安息を得た。ひとつは吐くまでにいくばくか時間のゆとりがあること。そしてもうひとつは、トイレには俺以外に誰もいなかったこと。
考えられるなかでは最良の状況といってもいい。とりわけ後者は今が昼休みであることを考えれば、幸運以外のなにものでもなかった。
手洗い場のシンクに両手を突き、息を殺して儀式の開始を待つ。目の前の鏡に自分の姿は映らない。映るのは母の姿だ。母は飽きもせずまだ笑っている。まるで幸せを、あるいは愛を、誇示するように。
「こっちは見飽きたんだよクソったれ!」ついそんな言葉が飛び出す。無意味なのは重々承知している。まぁ、ささやかな抵抗だ。そして抵抗むなしく、胃の内容物が食道を進軍しはじめた。全身を悪寒が駆け抜け、あとには鳥肌が残される。
想定外のことが起こったのは、来るなら来いと俺が覚悟を決めたその時だった。
柏木と、目が合った。鏡越しに。そこにはもう母はいない。鏡に映っているのは、肩を上下させ激しい口呼吸をする柏木の姿だ。柏木が母の幻を撃退したのだ。俺は即座に振り返る。
「おまえ、なんでここまで入ってくるんだよ! 男子トイレだぞ!?」
彼女の動きにはいっさいの無駄がなかった。一直線にこちらへ向かってきたかと思えば、次の瞬間にはもう俺に抱きついていた。背中に十本の指が深く食い込んでくる。
「ごめん!」柏木は声の震えを隠さない。「悠介がこうなっちゃったのって、あたしのせいだよね! 絶対そうだよね! 悠介が苦しむ姿はもうこれ以上見てられないよ!」
「おい! 吐いちまうって! 今まで一回だって例外はなかったんだ! 今回も吐くって! 離れろって!」
柏木は離れるどころかむしろ、より体を密着させた。
「あたしはね、富山で本当に生まれ変わることができたんだよ! もやもやしたものを抱えながら毎日過ごしてた四年間が嘘みたいに! それなのに、今度は悠介がおかしくなっちゃった。きっとそれまであたしに取り憑いていた悪い何かが、悠介に乗り移っちゃったんだよ! だから悠介が苦しむのはあたしのせいなんだ! ごめん! 本当にごめん!」
「今はそんなことを言ってる場合じゃないだろ! とにかくすぐに離れろ! おまえの制服を汚しちゃうって!」
柏木は何も答えない。ひとり激情の渦の中にいる。午後の授業はまだあるのにどうするんだ。そう声を張ろうとしたところで、何かが、何かが、意識の扉をノックしていることに俺は気がついた。その何かの正体は、違和感だった。
あるはずのものがない――より正確にいうならば――来るはずのものが来ない。そんな違和感。近くの空で雷が光ったのに、いつまで経っても轟音が耳に届かない。そんな違和感。俺ははっとして喉に手をやった。
「あれぇ?」つい、間抜けな声が出る。
「どうしたの、悠介」
柏木の潤った瞳を鼻先にぼんやり認識しながら、俺はまとまった量の唾を飲み込んでみた。唾は滞りなく体の奥へ落ちていった。そこから導かれる事実はひとつしかない。
儀式は、中断されたのだ。
「吐き気が、おさまってる」と俺はきょとんとしてつぶやいた。「初めてだ。157回目で初めて法則が崩れた」