第43話 君を葬り去る準備はできている 3
無意識に体が前に傾いた。周防がデタラメを言っているようには見えない。
「いったい、どうするんだ?」と俺は尋ねた。
「知りたいかい?」
「もったいぶるな」
「どうしよっかなぁ。そうだ。知りたければ、今すぐ土下座しろ」
「おまえ、友だちいないだろ」
その台詞を俺に言わせるのだから、こいつはよっぽどだ。
「友人はいなくても優里を救うことはできる」と周防は語気を強めた。「いいだろう、教えてあげよう。簡単な話だよ。全権を握っている父に頼めばいい。『タカセヤとトカイの合併に市として関与するのをやめてほしい』って」
「それで、おまえの親父さんはすんなり首を縦に振るのか?」
「もちろん、それなりの条件がある。なにしろ街の発展を託した一大プロジェクトを白紙に戻すわけだからね」
「条件?」
周防はうなずいて、元より切れ長な目を一層細めた。
「優里を我が家の一員に迎える。つまり、周防家の長男である僕が彼女と結婚することが、その条件だ」
また結婚か、と俺はうなだれつつ思った。
結婚結婚結婚。つくづくうんざりしていた。
この調子だといつの日か、高瀬を見初めたアラブの大富豪がラクダと引き替えに彼女から手を引けと迫ってくるんじゃないか。
もしそうなったとしても俺はラクダなんか要らないけど。こちとら、無愛想な大型犬一匹飼うので手一杯なのだ。
「市の未来より周防家の未来の方が優先されるのか」と俺は視線を上げて言ってみた。
「されるんだよ」
周防は顔をほころばせる。どうやら俺の言い方が気に入ったらしい。
「僕の父は絵に描いたような仕事人間だけど、子煩悩な一面も兼ね備えていてね。僕の願いはたいてい聞き入れてくれるんだ。もうすでに確約は取り付けている。僕と優里が結ばれるのなら、市としては金輪際この話にタッチしないと」
「仮に高瀬が周防家に嫁入りするとなったら、タカセヤとトカイはどうなる? そもそも両社の業績が芳しくないから持ち上がった合併話だぞ?」
「その点は心配に及ばないよ」と周防は涼しい顔で言った。「合併しなくても両社が生き残っていけるように、父がうまく取りはからう。当然だろう? 考えてもみろよ。さんざん今まで横から口を挟んでおいて、『このたびはうちの息子がタカセヤの娘さんを娶ることになりました。みなさまあとはお好きにどうぞ』なんてふざけた話が通るわけがない。そういうところは僕の父は抜かりないんだ。タカセヤ全九店、トカイ全八店はもれなく存続する。いや、父がさせる。周防家の名誉にかけて、ね」
市の要職に周防という苗字の人がいたかな? と俺は考えをめぐらせていた。たしか市長も助役も、そんな山口県に多そうな苗字じゃなかったはずだ。佐藤とか、田中とか、ありふれたものだったと記憶している。
俺の頭の中を見透かすように周防は「僕の父の存在は一般的には知られていないよ」と言った。「しかし力は持っている。本当に力を持っている人間は表舞台に出たがらないものなのさ。父の手にかかれば、目が飛び出るような大金をあっちからこっちに動かすことくらい、簡単なんだよ」
窓を打つ雨粒が大きくなってきた。予報にはなかった雨だから、街はいくぶん混乱している。時計は夕方の5時を示していた。
「神沢君。トカイの御曹司が――御曹司と言っても30代後半の中年だけど――どんな男なのか君は知っているかい?」
「ヒキガエルとナメクジを足して二で割ったような男だろ?」と俺は答えた。
「すばらしい。君の表現はなかなか要を得ている」
周防はたぶん心の底から俺を褒めたけれど、残念ながらその回答は太陽と高瀬父の受け売りだった。
「そうなんだよ。とにかく嫌な男だよ。生まれてきたことそのものが生命に対する冒涜と言えるほどひどい男さ。肉体も精神も醜い男。僕は思うんだけどさ、近い将来ネットで『醜い』と検索したらあの男の画像が出てくるようになるんじゃないかな。異形の魔物やグロテスクな深海魚に混じって。なぁ神沢君。そんな男の元にあの美しい優里を嫁がせるわけにはいかないだろう? もしそうなったら、これを悲劇と呼ばずして何と呼ぶ?」
「ああ。それについては100%同感だ」
彼は深く顎を引いた。
「僕だってね、彼女を救いたいんだ。優里が周防家に入れば、悲劇は回避される。おまけにタカセヤとトカイも救われる。万々歳のハッピーエンド。どうだ、完璧だろう?」
完璧だ、とあやうく言いかけた。認めてどうするのだ。その台詞を俺はカフェオレの残りで喉の奥へ流し込んだ。カフェオレはとうに冷たくなっていた。
「ただひとつ、大きな問題があってね」周防の語勢が弱まる。「優里が――肝心の優里本人が――この話に乗ってくれないんだよ」
俺は表向きは平然としていた。ただ、心では快哉を叫んでいた。ざまあみろ! と。
「悲しいかな、僕は男として優里に好かれていないんだ。優里が好きなのは――」
そこで周防は首をゆっくり横に振って、まぁいいさ、と自嘲気味につぶやいた。
「なぁ周防。おまえと高瀬は幼稚園の年長の頃からの知り合いなんだよな?」
「そうだ」
「おまえたちの間に、ひとときでも恋愛関係が成立したことはあったのか?」
それは彼と会ってからずっと心に引っ掛かっていた疑問だった。
「いや、ない」と周防は答えた。「僕が彼女のことを一途に想い続けているだけさ。ただの一度だって振り向いてはくれない」
俺は以前に高瀬が「恋をしたことがない」と言っていたのを忘れたわけではないけれど、三日前の「たいしたことじゃないの事件」が尾を引いていて、彼女の言葉を額面通り受け取れなくなっていたのだ。
というかやはり「たいしことじゃないの」は嘘だった。高瀬が周防と会っていたのには、重要な理由があったのだ。
「それでおまえは、最近高瀬に会って、周防家に入るよう説得を繰り返していたんだな」
周防は面白くなさそうにうなずいた。
「優里はね、一人の女としては、結婚相手とするならトカイの御曹司より僕の方がマシだと言ってくれたし、タカセヤの娘としては、タカセヤとトカイが合併しなくても両社は規模縮小せずに済むんだと聞けば、少しは興味を示しもしたんだよ。でも結局はだめだった。僕の提案をかたくなに受け入れなかった。彼女はこう言う。何度も何度もこう言う。『私にはある人と交わした約束があるから』――約束約束約束」
彼はテーブルを三度指でヒステリカルに叩き、俺を睨みつけた。
「優里の言う『ある人』とは、神沢君。君のことだね?」
ここで肯定的回答を口にするのは、自己過信でも勘違いでもないはずだ。だから「そうだ」と返した。「そうだ。俺と高瀬には約束がある。共通の夢を叶えるためのかけがえのない約束だ。その約束がある限り、どんな困難も乗り越えていける。そして俺たちは二年後、大学に行くんだ。誰にも邪魔はさせない」
「わからないなぁ」と周防は絞り出すような声で言う。早くも五度目だ。「君はもう忘れたのか、神沢悠介。さっき僕が教えてあげた、タカセヤとトカイの合併が持つ意味を。僕にはこの計画を止められても君には止められない。絶対に止められない。持っている力の大きさが違うんだ。優里を救うのはそんな空疎な約束じゃない。確かな力だ」
「偉大なるパパのお力、の間違いだろ」とけちを付けてやりたかったが、堪えた。お坊ちゃまの繊細な感情を逆撫ですると何が起こるかわかったものじゃない。
周防は一息吐いてから話し続けた。
「神沢君。ここでようやく最初の要求に戻ってくるわけだ。悪いことは言わない。優里から手を引け。まやかしじみた約束は破棄しろ。そうすれば彼女はきっと目を覚まして僕の提案を受け入れてくれる。君の約束が呪縛になっているんだ。優里を周防家の一員に迎える。それだけが彼女を救う方法だ。優里に会って話してみても『約束』の一点張りでまるで埒が明かないから、今日はこうして君にご足労願った次第だ。優里を救うために、悲劇を未然に防ぐために、彼女から手を引き約束を破棄すると、さぁ、今この場で誓え!」
俺の答えは決まっていた。
高瀬が約束を固く信じてくれている。それがすべてだった。
彼女の心では今この時も俺の言葉が絶え間なく呼吸しているのだ。それなのに俺が弱気になってどうするのだ。立ちはだかる敵の大きさに怯え、自分の無力さを嘆いている場合ではない。市の未来なんか知ったことか。なにが両社の合併が持つ意味だ。一人の世慣れていない少女を生け贄にしなければ発展が見込めない街なんか寂れてしまえばいいのだ。
「周防、感謝してるぞ」と俺は言った。「おまえは俺に初心を思い出させてくれた。起点として、高瀬を救えるかどうかなんて大層なことは考えちゃいけなかったんだ。そう考えると途端に頭が真っ白になって、前に進めなくなっちまう。
大切なのは――起点にすべきなのは――想いだったんだ。俺は高瀬が好きだ。彼女と一緒に大学に行きたい。大学に行くため足掻けるだけ足掻いてみる。手を伸ばせるだけ伸ばしてみる。それが俺の闘い方なんだ。
そうすれば望んだ結果は必ずついてくる。振り返れば今までだってそうだった。高瀬に出会ってから俺はそうやって降りかかる問題を解決してきたんだ。周防、俺の答えはノーだ。俺は高瀬から手を引かないし、約束も破棄しない。彼女の未来は俺が守る。トカイも周防もこの街の未来も糞食らえだ」
恋敵はぴくりとも動かなかった。俺も動かなかった。そのままの状態がしばらく続いた。窓の外では強い雨が夕方の街を濡らしていた。
先に動いたのは周防だった。彼は両肘をテーブルに突き、左右の手で顔を覆った。優里もやはり女なんだな。そんな台詞が指の隙間から聞こえてくる。
「女っていう生き物は、約束とか未来とか、そういう抽象的な言葉にめっぽう弱いんだ。世界を動かすのは具体的な力であることをちっともわかっちゃいないんだ。だからこんな馬鹿げた約束を軽はずみに信じてしまう。それが将来的に自分を苦しめることになるなんて想像も付かないんだ。優里、かわいそうな優里――」
俺はいかなる相づちも打たないことにした。言うべきことはもうすべて口にした。こちらが何も喋らないでいると、周防は時間をかけて顔から手を離した。その表情は殺気立っていた。
「神沢悠介。くだらない言葉で無垢な優里をたぶらかした君の罪は重いぞ」
「勝手に言ってろよ」
「残念だ」と彼は言った。「ついつい成りゆきで君を見下すような発言もしてしまったけれど、実は僕は君のことをそれなりに評価していたんだよ。君とならば、あるいは、良き友人になれるかもしれないと思っていたんだけどな」
「それは光栄の至りでございます」
「もっと話のわかる奴だと思っていたのに」
「あいにく、頑固なところがあるんだ」
高瀬の頑固さが移ってきたのかもな、と心で続けた。
「心から残念だ。父の力を使えば、君一人この街に住めなくすることくらい造作もないが、ここで父に頼るのはフェアネス精神に反するというものだ。だから、あくまでも僕のやり方で君という疫病神を優里から遠ざけようと思う。神沢君。君には消えてもらうよ。君を葬り去る準備はできている」
周防はあまり穏やかではない宣言を口にして、ブレザーのポケットに手を潜らせた。そしてそこから何かを取り出しテーブルの上にばらまいた。
それは数枚のカラー写真だった。どの写真にも、居酒屋「握り拳」で働いている俺の姿がはっきり映っている。
♯ ♯ ♯
周防まなとのフェアネス精神に満ちた脅迫を受けて、どう対処すべきか俺は訪れた土日を使ってひとりでじっくり考えることにした。
できればこの二日間は誰とも話をしたくなかったのだが、幸か不幸か日曜日には私服の高瀬がうちにやってきた。モップの様子を見に来たよ、と共同飼い主は言った。
もちろん高瀬そっちのけでひとり思考の海を泳いでいるわけにもいかないので、俺は気持ちを切り替えて彼女とさまざまな話をした。話の主役はたいていモップだった。
「モップの食欲はどう?」
「モップはなついてる?」
「モップって短足だよね」
そんな風に。
大人になって清掃会社に勤めでもしない限り、こんなにモップという単語を使う一日もそうはないだろうな、と思って俺は苦笑した。
俺は周防と会ったことを高瀬に打ち明けなかった。
打ち明ければ「何を話したの?」と高瀬が興味を示すのは目に見えていたし、そうなればどこまで本当のことを言えばよいのかわからず、自分が混乱してしまうのも目に見えていたからだ。
まさか馬鹿正直に「実は恋のさや当てをしていたんだ」と会話の全容を明らかにするわけにはいかないし、「日本の首都機能移転の是非について討論していたんだ」といい加減なことを口にするわけにもいかない。
俺はもうこれ以上、ふたりの間に無益な嘘を増やしたくはなかった。
「神沢君、なんか顔色悪くない?」と高瀬はモップの散歩中に心配してくれた。
「今日は発作が多くてさ」と俺は答えた。それは早くも嘘だった。
自分がたまらなく嫌になったが、大きな嘘をつかないための小さな嘘だと割り切って、モップの大きな糞を小さなスコップで片付けた。
そのように二日の休日があっという間に過ぎ去り、時計の針が0時をまわっても俺の頭に答えらしきものは浮かんでこなかった。
浮かんできたのは母の笑顔だった。例によって何の前触れもなかった。
二階の自室から急いで台所に向かったものの、間に合わず、居間に敷いてあるカーペットを汚してしまった。
その光景を見ていたモップがソファから寄ってきて(はじめは外で飼っていたのだが毎晩夜鳴きをして近所迷惑も甚だしいので、やむなく家に上げたのだ)、反吐の匂いを嗅ぎ、顔をしかめた。
四つんばいになって後始末をしながら俺は「ちくしょう!」と怒鳴った。堪えきれなかった。犬畜生がきょとんとしてこちらを見つめてきたので、声のトーンを落として話しかけた。
「まったくもう、最悪の春だよ。周防もひどいタイミングで現れたもんだ。ただでさえ人が弱ってる時に。なぁモップ。こういうのを人間の世界では、弱り目に祟り目って言うんだよ。俺は高校を辞めたくないよ」
モップは何も答えなかった。
それでも愚痴を聞いてくれる相手がいるというのは――たとえそれが人間ではなくても――だいぶ気が紛れるものだった。ひとりじゃないんだ、と俺は思った。
ひとりで考えてみても打開策は思いつけない。高瀬に相談するわけにもいかない。となれば、俺が取り得る選択肢はひとつしかない。
以前の俺と今の俺の違いは、そして周防と俺の決定的な違いは、仲間と呼べる存在の有無だ。
どうやらこの季節は、俺があいつらに助けてもらうことになりそうだ。




