第42話 余白が消えるまでこのキャンバスを守り抜く 3
全力で足を前へ動かしているけれど、歯がゆいことに、高校指定のローファーはまったくもって短距離走に向いていなかった。
地面を蹴れども蹴れども、走っているという感じがしないのだ。前方に目をやれば、若作り女はシートベルトもせずに今にも車を発進させようとしている。一秒でも早く犯行現場から立ち去る気なのは明白だ。
「生き物を捨てるなんてひどいこと、許されるわけない!」高瀬は憤慨する。「あのオバサンを思い留まらせなきゃ! 間に合うといいけど!」
もちろん間に合わなかった。俺たちが犬の元に到着した時には、女の運転するミニバンはすでに春の街へと消えていた。
履いていたのがもしランニングシューズならば、車のナンバーくらいはかろうじて目視できたかもしれない。しかしこうなってはもう、犯行に使われた車を特定するのは不可能だ。黒のミニバンなんて、大型量販店の駐車場に行けばうんざりするほどある。
怒りの矛先を失った高瀬は、自らをなだめるように胸に手を当てて呼吸を整えていた。
ふいに、犬と目が合う。
俺はべつに動物愛護に熱心な人間じゃないけど、それにしたって可哀相ではあった。声くらいかけてやることにする。
「おまえ、捨てられちまったみたいだぞ」
犬は俺と高瀬の匂いをくんくん嗅ぐと、ふたりからやや離れた地点に位置を定めて座った。犬には首輪もリードもついていなかった。
「それにしても、捨てられた割には、ずいぶん平然としてるな。普通、ちょっとは吠えたり、車を追い掛けたりしないか?」
犬は後ろ足を使って耳をかいていた。気持ちよさそうだ。呑気なものだ。
「あれ? この子、もしかして」
息が落ち着いた高瀬は、構図にこだわる写真家みたいにいろんな角度から犬を見る。
「やっぱりそうだ。どこかで見たことがあると思ったんだ。つい先週まで、市の保健所のホームページに掲載されていたワンちゃんだ」
「保健所」
保護した捨て犬の新たな飼い主をインターネットで募集していたんだな、と頭で補完した。
「ということは、こいつは、さっきの女に一旦は引き取られたんだ」
「そうだね」
「そしてたった今、また捨てられた」
「そうだね」
「というか、なんで高瀬はこの街の捨て犬事情にそんなに詳しいの?」
きっかけは、なにげなく見ていた夕方のニュース番組で捨て犬の特集が組まれていたこと、らしい。
「それでさ」と高瀬は語気を強めた。「うちの街はどうなのかなって思って、保健所のホームページをチェックするようになったの。そうしたら、いるいる。可哀想なワンちゃんたちが。ニャンちゃんもだけど。それだけ、命を命と思っていない、無責任な人が多いってことだよね」
「あの女のように」
高瀬は怒りと悲しみが混じった顔でうなずいた。
「どうりでこの子、寂しがらないはずだよ。あのオバサンとはたった一週間しか一緒に過ごしてないんだから」
「保健所までわざわざ出向いてまで身受けしたんだから、ずっと飼ってやればいいのに」
「言葉は悪いけど、期待外れだったんじゃないかな。動物は実際に飼ってみなきゃわからないこともたくさんあるから」
そう言うと彼女は、励ましてやるつもりなのか、しゃがんで犬の頭をそっと撫ではじめた。美しい手による美しい愛撫だった。なれるものなら犬になりたいと俺は思った。
犬は高瀬の愛撫に身を任せている。舌を出したその顔は笑っているようにも見えた。
さぞかし慈愛に満ちた表情を高瀬は浮かべるんだろうな。そう思って彼女を見てみると、予想は外れた。その顔にあったのは、平安ではなく混沌だった。
「おい、どうした高瀬?」
「くさい」
「く、くさい?」
「こういうことだったの」
高瀬はしかめっ面のまま鼻に手を当て、逃げるように後ずさる。
「あのオバサンはたぶん、これが耐えられなかったんだ。ニオイ。お口の!」
ほら、神沢君も嗅いでみるんだよ。この悲劇を分かち合おうよ。そんな風に彼女の瞳が圧力をかけてくるので、仕方なく犬に顔を近づけてみた。死ぬかと思った。
「ダスイスト!」ドイツ語っぽい意味不明な声だって出る。本当に臭い。「有毒ガスだ。軍隊か化学工場に引き取ってもらった方がいい。研究材料として」
「牛乳を炎天下の中置きっぱなしにしたら、こんな感じ?」
「そこに腐った魚の内臓も混ざっているかもしれない」
「ああ、それと、雑巾の絞り汁も」
「なぁワン公」と俺は言った。「おまえの口の中、いったいどうなってんだ?」
犬は自らの酷評を意に介さず、片足を上げて用を足している。それを見て高瀬は、マイペースだねぇ、と嬉しそうに笑う。
ゴールデンレトリーバーを枕にして昼寝する幼少時代を過ごし、今現在もボーダーコリーと共に暮らすご令嬢は、犬に関する豊富な知識を頭の中に蓄えていた。
犬博士の解説によればなんでも、この悪臭犬は雑種という扱いになるらしい。
毛並みや体つきから判断するに、“なんとかハウンド”と“なんとかシープドッグ”の血を引いているという。
「高級犬だ」と面白半分に言ってみると、「どっちもすごく高級な犬だよ」と返ってきた。驚いた。せっかくなので試しに「高貴なる雑種」と犬に称号を与えることにした。博士は「格好良いね」と言って笑った。犬はそれを聞いて得意になったような気がした。
犬博士と助手が割り出した犬のプロフィールは以下の通りだ。
性別はオス。
年齢は8歳から9歳。
虚無的な傾向がある。
(誰かに似て)人間不信のきらいもある。
少なくともこれまで二度は飼育放棄されている。
虐待を受けていた形跡はない(人の手を怖がらなかった)。
よく見れば愛嬌のある顔をしている。
しかし偉大なる口臭を抱えている。
この犬の外見における最大の特徴は、なんといっても全身を覆う長い体毛だった。
縮れた灰色の毛によって、目も鼻も半分以上隠れてしまっている。もし教室の床を滑らせるように這わせたら、ゴミがごっそり取れること請け合いだ。その後が大変だけど。
そんな光景を思い浮かべていたら、元より薄汚れているのもあって、目の前の大型犬がなんだかだんだんモップに見えてきた。高貴なるモップ。可哀想なモップ。悪くない。俺は便宜的に以降、この犬をモップと心で呼ぶことにした。
「さてどうしようか」と高瀬は言った。嫌な予感は、格好良いね、と言って彼女が笑ったあたりから漂い始めている。
「どうしようかって、俺たちがこいつをどうにかするの?」
「こうしてこの子に関わっちゃった以上は、私、放っておけないよ」
「保健所に連絡する」高瀬の顔が引きつる。すぐに撤回する。「わけには、いかないよな」
「もう一度引き取り手が見つかる可能性は低いと思うし、それになにより、保健所には保護期限っていうものがあってね」
その保護期限とやらが過ぎた動物たちはどうなってしまうのか。それくらい、動物を飼ったことのない俺だって知っていた。殺処分、というやつだ。
「神沢君。それでね、ひとつお願いがあるんだけど」と高瀬は言った。「神沢君のおうちで、この子を、飼ってあげてくれないかな?」
高瀬は真剣だった。ふたつの瞳の奥で、使命感が燃え盛っている。
彼女は続けた。
「もちろん、ずっと、とは言わないから。ちゃんとした飼い主さんが見つかるまでの、緊急措置として」
「ちゃんとした飼い主? そんなに都合良く見つかるだろうか?」
「私が探すよ!」高瀬は意気込む。「近所の犬好きの人に掛け合ってみたり、お姉ちゃんに頼んで大学でも募集してもらう。そうだ、ポスターを作って、タカセヤ全店にも貼り出そう。きっと一人くらい心の温かい人が名乗り出てくれるって。この子、ちょっとお口に問題はあるけど、顔自体はかわいいわけだし」
「素朴な疑問があるんだけど」と俺は言った。「高瀬ん家じゃ、こいつを飼えないの?」
「うちのボーダーコリー、若い女の子なの」とだけ答えた高瀬の顔には、一人娘がどこの馬の骨とも知れない男に汚されるのを懸念する母親さながらの不安が浮かんだので、心中を察した。
高貴なる雑種。可哀想なモップ。まあそれで言うと俺も雑種みたいなものだが。
彼女は一歩前に出た。
「そういうわけで、頼めるの、神沢君しかいないんだよ」
男としてはそう言われて悪い気はしない。ただ、確かめておきたいことはまだ残っていた。
「柏木の家でも飼えない?」
「晴香の家は食べ物屋さんだから、無理」
「月島のマンションは?」
「あそこ、ペット禁止だから、無理」
「太陽の家は?」
「葉山君のお母さんって、ひどい犬アレルギーらしいから、無理」
「日比野さん家は?」
「日比野さん、犬が大の苦手だって言ってたから、無理」
高瀬が最近よく会っている男に頼めば? そんな卑屈きわまりない台詞も脳裏をかすめたが、それを実際に口にしたら俺が殺処分だ。だから代わりに、はあ、とため息をついた。モップを見る。モップもこっちを見上げてくる。
「ほら。これも何かの縁だと思って」愛犬家はぐいぐい押してくる。「未来に困難が立ちはだかっているという点では、私たちと同じじゃない。仲間だよ仲間。助けてあげようよ」
「未来、ねぇ」
言われてみればたしかに、犬にだって明るい未来を望む権利くらいある。
高瀬はまた一歩近付いてきた。
「今は発作があって、神沢君がつらい時期だっていうのは私もよくわかってる。それでも、このままだとこの子、長くは生きられないんだよ。ね。お願い」
「発作の有無はともかくとして、俺にきちんと面倒が見られるだろうか? 犬なんか飼ったことも飼おうとしたこともないぞ?」
「大丈夫だって。絶滅危惧種の動物を引き取るわけじゃないんだから。犬ほど飼いやすい動物はそうはいないって」
「こいつの場合、犬にしては飼いにくいから、最低二度は捨てられてるんじゃないのか?」
「あんまり難しく考えないで」と彼女は優しい声で言った。「責任を負うのは神沢君ひとりじゃない。私もだから。住む場所を提供してあげるのは神沢君だけど、当面の飼い主はあくまでも私たちふたり。飼うにあたってわからないことがあればその都度教えるし、神沢君だけに負担がかからないよう、できる限り一緒に過ごすから」
俺は胸の前で腕を組んで唸った。悩むフリをしている。というのは、実は内心ではとっくに答えは出ていた。
俺はこの捨て犬を家で飼ってみようと腹を決めていた。
かけがえのない命をひとつでも救わなければ! なんて高尚な思いが芽生えたというわけではなくて、純粋にモップに感謝していたのだ。
こいつの話題が契機となって俺と高瀬は会話のリズムを取り戻せたし、それによって、一旦は離れてしまったふたりの心の距離は縮まっていた。高瀬の顔を見てみても、先ほどまで浮かんでいたわだかまりはさっぱり消え去っている。
誰のおかげだ? モップのおかげだ。モップが俺たちのあいだのチリやホコリを文字通り取り払ってくれた。報いてやってしかるべきだった。
そんなわけで今の俺には、目の前の小汚い雑種犬が、天からの使者なのではないかとすら思えていた。
「しょうがないなあ」と俺はさも大決断を下したかのように言って、モップに向けて微笑みかけた。「おまえ、このお姉さんに感謝しろよ? 命の恩人だぞ」
「よかった!」高瀬は今にも飛び跳ねそうだ。「神沢君なら、この子のことを絶対に見捨てないと思った。それじゃあさっそく、名前を決めようか」
「名前。そうだよな。なにか思いつく?」
「私、この子を一目見た時から、あるモノに似てるなあって思ってて。実は心ではもう、そのモノの名前で呼んでたんだ」
おのずと笑みが漏れた。声が弾む。
「俺もだよ。それって、学校の教室にあるものだろ?」
「掃除用品じゃない?」
互いの仮の呼び名を言い合ってみることになった。
1、2の3で、もちろんふたりの声は重なった。
まったく、モップさまさまだ。




