第42話 余白が消えるまでこのキャンバスを守り抜く 1
「『サクラサク』の時期に桜の花を見られないのは、北国の受験生のちょっとした悲運だよね」高瀬はそう言って、開花にはまだほど遠い桜の木を見上げた。
高瀬が男としきりに会っている。にわかには信じがたいそんな知らせを伝え聞いた日の翌日、俺はさっそく彼女と一対一で放課後に話し合う機会を設けた。
場所は市内の公園。カリフォルニアあたりの農場に匹敵する広さを誇る広大な園内には、いたるところに桜の木が植樹されている。
あさくら公園というのがこの場所の公的な名称だけど、市民は誰一人としてそんな呼び方をしていなかった。みんな“あ”を取り払って、さくら公園と呼んでいた。
あと一ヶ月もしないうちにさくら公園は、その名に恥じぬ見るも鮮やかな薄紅色の景色で人々の目を楽しませてくれるだろう。
高瀬はまだ桜の木を見上げていた。俺はそんな彼女の横顔を眺めていた。素敵な横顔だった。射し込む光の加減によって、大人の女にも幼い少女にも見えた。ありとあらゆる性質の輝きがそこにはあった。四六時中眺めていたってまだ新しい発見がありそうだった。
「よし決めた」と高瀬は言って手を叩いた。「ここにしよう」
思わず俺は桜のつぼみと高瀬の瞳を交互に見た。「決めた? 何を?」
「やっぱり忘れてると思った」高瀬は呆れる。「神沢君、自分で言い出したことでしょ?」
「なんだっけ?」
「お花見! 神沢君、『春になったらみんなで花見に行こう』って冬に言ってたじゃない! 私、すごく楽しみにしてたんだから」
すっかり忘れていた、とは口が裂けても言えなかった。
「いやほら、花がまだ咲いてないから、うまくイメージできなかっただけだよ。花見ね。覚えてた覚えてた」
「ならいいけど」と高瀬は疑念の残る声で言った。
自然観賞も悪くないけれど、そろそろ本来の目的に移るべきだった。
「とりあえず座ろうか」と俺は目に留まったベンチを指さして言った。
その近くには、ちょっとした藪がある。もし例の発作が起きたら――もちろん起きないことを祈るが――その中へ飛び込んで吐けばいい。まさか高瀬の前でだけは醜態をさらすわけにはいかない。
いざ彼女とふたりきりになると「誰かと会ってるみたいだけど」といきなり切り出すのは勇気が要った。それで俺は当たりさわりのない話題から入ることにした。
「小説の方はどう? 執筆は捗ってる?」
「うん、おかげさまで」と高瀬は言った。「書き直す許可を神沢君が原作者さんから取り付けてきてくれたから、気兼ねなく書けてる」
「それはなによりだ」
「小説を書いてると、あっという間に時間が過ぎちゃうんだよね。だから最近はなんだか寝不足。授業中もうとうとしちゃうくらい」
「それは問題だ」
「未来の君に、さよなら」
何を思ったかふいに高瀬はリライト中の小説のタイトルをつぶやいた。
「未来の君に、さよなら」
復唱してみたところで、頭上の桜が咲き乱れるというわけでもない。
高瀬は手ぐしで髪をすいた。
「今日は学校の外に誘い出してくれてちょうどよかったかもしれない。私も神沢君にひとつ確かめておきたいことがあったんだ。学校だとなかなかふたりだけの時間がとれないから」
「確かめておきたいこと?」
彼女は俺の目を見てゆっくりうなずくと、スクールバッグから川岸小雪著・『未来の君に、さよなら』の冊子を取り出し、抑揚のない声でこう言った。
「川岸小雪さんは――神沢君のお母さんと晴香のお父さんは――この小説を書くことになった背景を、忘れてなんかなかったんじゃないの?」
ご名答、と俺は心で返した。そして「ついにこの時が来たか」とやはり心でつぶやき、目を閉じた。まぶたの裏に、冬の寒々しい景色が戻ってくる。
♯ ♯ ♯
『未来の君に、さよなら』をリライトする権利を正式に得た旨を高瀬に伝える。それが富山への旅を終えこの街に帰ってきた俺が真っ先に果たすべき使命だった。
3月5日、その日街は雪だった。
もちろん彼女はその一報を聞いて喜んでくれたし、お疲れ様と言って笑顔で労をねぎらってもくれた。しかし問題はその後だった。笑みはその顔から消え、固くこわばった面持ちで彼女は俺に尋ねてきた。
この一編の古びた小説に潜んでいた大きな謎は解明できたのか、を。
すなわち、どうして柏木恭一と俺の母は20年後を暗示するような予言書めいたこんな小説を生み出すことができたのか、を。
「それがさ、昔のことだからよく覚えていなかったんだ」と俺は高瀬に答えた。閻魔大王がもし近くにいたら問答無用で舌を抜かれるような完璧な嘘だった。心なしか窓の外で雪の勢いが増した気がした。
俺は彼女に本当のことを言えなかった。言えるわけがなかった。
なにしろ3月3日の富山で母の口からもたらされたいくつもの事実は、小説の謎を解く鍵となるだけではなく、俺の“未来の君”の正体までも炙り出してしまったのだから。
それで俺は高瀬を前にして即席の嘘をついた。
“それがさ、昔のことだからよく覚えていなかったんだ”
我ながらひどい嘘だ。スマートさのかけらもない。何度頭で繰り返してみても冷や汗が出る。選挙期間中の政治家だってもう少しまともな嘘をつく。
しかしどれだけ高瀬に怪しまれようとも、何枚シャツが汗でダメになろうとも、俺はこの嘘をつき通す覚悟を持たなきゃいけなかった。
ひどい嘘と心中するのだ。
それ以外に時には歯を食いしばり、時には励まし合って高瀬と続けてきたキャンバスに未来を描く共同作業を、この先も継続させる方法は俺には思い付かなかった。
母から聞いた事実を高瀬に話すのは、俺の“未来の君”が高瀬ではなく柏木であると宣告するに等しい。どうしたらそんなことができるのだ?
俺を幸せに導く運命の女の子は君ではない。そう断ずるに等しい。どうしたらそんなことができるのだ?
『未来の君に、さよなら』は予言書めいた小説などではない。小説めいた予言書だったのだ。どうしたら本当のことが言えるのだ?
富山で俺は“未来の君”が柏木であるらしいということを知ってしまった。
柏木と共に生きる未来を思い浮かべ、心に一時の安らぎが訪れたのも事実だ。
しかしそれでも、俺は高瀬のことが好きだった。想いの強さはちっとも変わらなかった。その想いがある限り、高瀬が“未来の君”かどうかなんて、もはや取るに足らない問題になっていた。五億光年先の惑星で勃発した猿の縄張り争いくらい俺にとっては些細な問題だった。
俺と高瀬は一年かけて、真っ白だった一枚のキャンバスに彩りと輪郭を与えてきた。
季節を経るごとに使える色鉛筆の種類は増えていき、描ける線は着実に太くなっていった。
そうやって少しずつ地道にふたりでひとつの未来を描いてきたのだ。替えのきかない、いつか実現するはずの、色彩と希望に満ちた未来を。
俺は書きかけのこの未来を途中で投げ出すわけにはいかなかった。キャンバスは様々な色と想いで染まっていた。そしてまだまだ多くの余白を残していた。余白が消えるまでこのキャンバスを守り抜く。俺はそう強く誓った。
俺は高瀬と生きる未来を望んでいた。
3月5日、その日街は雪だった。




