第41話 すべて燃え尽きてしまえばいいのに 5
「ただいま」と言って入室した柏木は、ただちに俺の異変に気付いた。彼女はこちらへ近寄り、手遅れの虫歯を見つけた歯科助手みたいな目つきで俺の顔をまじまじと見てきた。
「どうしたの悠介、ぽかんとしちゃって」
「まぁ、ちょっと」
まともな言葉を喋れるようになるには、時間がかかりそうだった。頭では太陽の言葉が何度も繰り返されている。
「少女Aは最近、おまえ以外の男と密かに会ってるみたいだぞ、頻繁に」
男と密かに会ってる?
俺はおそるおそる少女Aを――高瀬を――見る。
彼女の顔にとりたてていつもと違った様子は確認できない。1メートル先にいるのは、俺のよく知る高瀬優里だ。
「私の顔、どこか変?」と彼女は言った。
「いや」と俺は言った。そして目を逸らした。男と密かに会ってる?
「まぁまぁお嬢さん方。いつまでも立ってないで席について」太陽が気を利かせてくれる。「で、本日のおやつはいったいなんだい?」
「アイス」柏木が代表して答え自分の席に座った。横目では俺をうかがっている。「まだ4月だっていうのに、なんだか今日は暑いから」
高瀬と月島も着席しパッケージを開封した。三人が買ってきたのは同じ商品だった。もなかタイプのバニラアイスだ。
「晴香が買ってるのを見たら欲しくなっちゃって」高瀬は苦笑した。
「高瀬さんが買ってるのを見たら欲しくなっちゃった」月島は微笑した。
「いいなぁ。誰かお裾分けしてくれよ」
太陽のおねだりが聞き入れられたためしはないが、この日の彼は粘り強かった。一番近い席の柏木に対して手を合わせる。
「一口でいいから、プリーズ」
柏木はこれ見よがしにもなかを頬張った。
「なんで庶民の娘が大病院の坊ちゃんに奢らなきゃいけないのよ。普通、逆でしょうが」
「だ、か、ら、オレが自由に使える金はほとんどないの。アイスなんて高級品、買えないの!」
「そうだったねぇ。この街きってのプリンスが金欠王子に落ちぶれたのには、ちゃんとした理由があるんだったねぇ」
「柏木、おまえな、つらい過去を思い出させんな、悲しくなるから!」
そう嘆くと太陽は、俺の背後にある棚をちらりと見やった。そこには実に四つの冒険の証が並んでいるわけだが、視線の先にあるのは、疑いの余地なく自らの涙が染みたロケットペンダントだろう。
今でも羽田星菜の記憶は、太陽を苦しめていたりするのだろうか?
「それはそうと、あれ、何度見てもムカツク」と仏頂面で指を突き出したのは柏木だ。「あたしが記憶喪失になっているあいだ、ずいぶん仲が良かったみたいじゃない。優里、悠介」
柏木を憤らせているのは、冬の冒険の証である漫画家・吉崎アゲハのサイン色紙に他ならない。
色紙には、和気あいあいと語らう俺と高瀬の姿が描かれているのだから、当人からすれば、鍋敷きにでもしたいくらいなのではないか。
「まぁまぁ」と高瀬が隣の怒れる女をなだめた。「こっちもこっちでけっこう大変だったんだから。ちょっとは大目に見てよ」
「そうだよ」自然に口が動いた。やっと、まとまった言葉が出てくる。「あの冬はいろいろあったけど、みんなこうして無事に二年生に進級できたってことで、御の字じゃないか」
語調と顔つきで、俺たちの富山行きを高瀬は止めなかったんだぞ、と暗にほのめかした。それでフィフティフィフティだろう、と。
「しょうがないなぁ、許してやるか」一転柏木はほがらかに笑った。そしてばつが悪そうに鼻をかいた。「ま、冬はみんなに迷惑かけまくりだったっていうのもあるしね。そうそう偉そうなことは言えないか。骨折が完治して、記憶が戻ったのも、四人のおかげです。よし、ここは、春の大感謝祭といこう」
柏木は残っていたアイスを三等分して、俺と太陽に一切れずつ差し出した。
もちろん太陽は喜んでそれを受け取った。俺もできることなら祝祭の輪に参加したかったところだけど、口の中に胃酸のつんとした匂いがまだ残っていたので、なくなく首を横に振った。
「すまん柏木。気持ちだけ、受け取っておく」
「え、なんで?」
「えっと」言い淀む。でも言うしかない。「実はついさっき、吐いちまって」
「また?」柏木は顔をしかめる。「今日だけでもう、三回目じゃない」
「ごめん、神沢君」高瀬は食べかけのアイスを慌ててパッケージの中に戻した。「配慮が足りなかったね」
月島はアイスを見ているようで俺をじっと見ていた。
雰囲気がぎすぎすし始めていた。それを肌で感じた俺は「大丈夫だ」と言った。「みんな、いつも通り振る舞ってくれてかまわないから。変に気を遣われるのが、胃に一番こたえるんだって。さぁ食べてくれ。今日は4月のわりには暑いから、溶けちゃうぞ」
そうは言ったものの、ひとたび澱んだ空気がすぐに回復するわけもなく、俺の目にはみんなのこわばった表情が映ってしまう。そしてまず柏木のアイスが溶けだしてしまう。ああ、と俺は声を漏らしてしまう。
「そろそろ限界だ」と切実な声でつぶやいたのは太陽だ。彼はそれから俺以外の三人に「みんなもそうだよな?」と同意を求めた。
ようやくこの時が来たか、という風に彼女たちはそろって深くうなずいた。
「なぁ悠介。いい加減に白状しろ。そいつはただの胃の不調なんかじゃないよな?」
俺は四人に本当のことを話していなかった。どうせこんな症状は一過性のものだろうと高をくくっていたのもあるし、なんといっても発作の正体をみんなに知られるのがたまらなく恥ずかしかったのだ。
「どう考えてもおかしいだろ」と太陽は続けた。「この一ヶ月でげっそり痩せたのに気がつかないほど、オレたちの目は節穴じゃねぇぞ。悠介、おまえさんの身にいったい何が起きてんだ? また一人で抱え込もうとしてるんじゃないのか?」
「隠し事は嫌いだ」
そんな聞き覚えのある台詞が月島から出たと思ったら、次に柏木がこう言ってきたから、俺は逃げ道を完全に失った。
「悠介の問題は、悠介だけの問題じゃないんだよ」
俺は胸に籠もっていた古い息を吐き出して、少しずつ新しい空気を取り入れた。考えを改めよう。柏木の言う通りだ。今や、俺の問題は俺だけの問題ではない。
「わかったよ。事の発端は、3月3日の富山である光景を目撃したことだ――」
俺が筋道立ててすべてを語っているあいだ、四人の中でもっとも沈痛な面持ちをしていたのは、旅の同行者である柏木だった。話を中断して一声かけようかと思ったくらいだ。彼女のことだから、何かしら責任のようなものを感じてしまったのかもしれない。
「――というわけなんだ」と俺は言った。「唐突に双子のそばで笑う母親の姿がフラッシュバックし、それを拒むように嘔吐する。その繰り返しさ。まったく、これじゃあまるで母親の愛情に飢えているみたいじゃないか。自分が情けなくなる」
すぐには誰も喋らなかった。いや、喋れなかった、という方が正しいかもしれない。二分ほど経ってからようやく、高瀬が口を開いた。
「なんとかして、吐いちゃうのを防げないのかな?」
俺は首を傾げた。
「いろいろ試してはみたんだけどな。でもだめなんだ。万策尽きて、なすがままの状態だ」
「そりゃ食欲なんかなくなっちゃうよな」と月島がつぶやいた。
「食べる前からどうせ吐くってわかっているわけだからな」と俺は返した。
「なんだってこうも、厄介なことばかり起こるかね」と太陽がつぶやいた。
「同感だ」と俺は返した。同感だ。
この会話の流れに乗って一度は何かを言いかけた柏木だったが、俺と目が合うとぎこちない咳払いをして、黙り込んでしまった。
それでも、彼女の喉にぶら下がっている台詞はだいたい予想できた。
「あたしのせいだ」とか「富山に行かなきゃよかった」とかだ。いずれにせよ、あまり生産的なコメントとはいえない。空気を今以上重くするだけだ。そして彼女もそれがわかっている。だから発言することができない。
早く誰かがこの話を締めくくってくれないかなと期待をかけたが、誰の口も結ばれたままなので、結局俺がその役を担うしかなかった。
「ほらほら」二度手を叩き、皆の注目を引く。
「まぁ、多少痩せはしたけれど、まさか命まで取られるわけじゃないし、そんな深刻に考えないでくれ。俺は現にこうして一日も休まず学校に通えているし、夜は居酒屋のバイトにだって行っている。そういう意味では、インフルエンザにかかったりするよりよっぽどマシさ。今まで通りだ。何も変わらない。元気元気。誰かの未来が危うくなったら、これまでと同じようにいつだって駆けつけてやるぞ。季節も変わったことだし、そろそろまた誰かの元に面倒な問題が転がり込んでくるんじゃないか? その時は仲間はずれにするなよ」
意識と舌がうまく連動していなかった。要する俺は、虚勢を張っていた。
高瀬はそれを見抜いていた。
柏木もそれを見抜いていた。
月島ももちろんそれを見抜いていた。
太陽は軽く舌打ちした。
みんなの懐疑的な視線が痛かった。たまらず俺は立ち上がって窓辺へ行き、そこから春の街を眺めた。日陰の雪も完全に溶けきり、若い緑が芽吹きはじめていた。街は春の暖かな光を余すことなく享受していた。
最高の春だ、と俺は思った。
わけのわからない発作に一日何度も襲われ、将来の自分の姿はいまだにちっともイメージできず、こともあろうに高瀬には他の男の影がちらつく。素晴らしい。最高だ。反吐が出るほど最高の季節だ。
落ち着こう。美しい空を見よう。こんな時はいっそ未来のことを考えよう。
「大学卒業後のその先を考えなさい」とカンナ先生は言った。大学を終着点にしてはいけない、と。たしかにその通りだ。大学大学と能天気に言っていればそれだけで前に進めた季節はすでに終わった。
これからは10年後20年後の自分を考えなきゃいけない。
具体的な未来。俺が選ぶべき未来。実現可能性のある未来。
俺はいったい将来何になるのだろう?
そもそも俺は大学に進学するべきなのだろうか?
高校を停学や退学になるリスクを背負ってまで進学費用を稼いでいるものの、現状のままでは、たとえ四年制大学に合格できたとしても最初の一年しか籍を置けないのだ。
それも国立の文系学部という限定付きだ。どうにかして大金を獲得しないかぎり、俺は大学中退という刃の折れた剣だけを手に社会という戦場に放り出されることになる。
××大学××学部中退。
そんな生半可な肩書きを履歴書に書くためだけに俺は多くの時間と労力を費やしているのか。考えてみればこれほど割に合わない努力もそうはないな、と俺は心で自嘲した。
閑話休題。
「就きたい職業によっては、無理をして大学に行く必要はなくなるかもしれない」ともカンナ先生は言っていた。ごもっとも。我々生徒は、なにも母校の進学実績の見映えのために生きているわけではない。
大学に行かなくても就ける職業は世の中にいくらでもある。
たとえば市役所職員。
高卒でもよほどの贅沢さえしなければ、食いっぱぐれることはないはずだ。
たとえば調理師。
中学以来続く長い自炊経験は、俺に料理の楽しさを植え付けていた。
実現可能性のある二通りの未来を思い浮かべてみたところで、口の奥から胃酸の不敵な匂いが漂ってきて、俺を萎えさせた。
今のままではどちらも俺が就くべき職業ではないようだ。
誰が好んで納税相談の途中に嘔吐する職員がいる役所に行くだろう?
誰が好んで調理中に嘔吐するシェフがいるレストランに行くだろう?
少なくとも俺なら行かない。よって、却下。
たとえば消防士。
何を馬鹿なことを。父は放火犯なのだ。よって、却下。
早くも手詰まりのようだった。
なんだか悲しくなってきた。大学のその先。イメージができない。なりたいものがない。結局そこに帰結してしまう。
もう今日は考えるのはやめよう、と俺は思った。このままでは埒が明かない。
発作を止める術も見つからなければ、将来の目標も定まらない。一歩も前に進めていない。今俺がすべきなのは考えることではない。動くことなのだ。
ひとつだけはっきりしているのは、高瀬の周辺で何かが起きているということだ。俺と彼女の関係性を根本から揺るがしかねない大きな何かが。
なにはともあれ、まずは高瀬とふたりきりでじっくり話をすることだ。
そこから何かが動き出すような気がする。
――そしてこの予感は、見事に当たることになる。




