第41話 すべて燃え尽きてしまえばいいのに 1
「これから卒業までの二年間なんて、あっという間に過ぎちゃうんだから」
それを聞いた俺の落ち込み具合が予想以上だったのか、カンナ先生は柔らかい表情で「若い子をむやみに脅すつもりはないけれど」と補足した。
二年生に進級してむかえた三度目の月曜日、俺は進路指導室に呼び出されていた。その理由はひとつしか思い当たらなかったわけだが、案の定カンナ先生の右手は机にある進路希望調査票へと伸びた。先週、俺が苦心の末に提出したものだ。
「もう何回も調査票を出してもらっているけれど、神沢君の場合、埋まっている欄はいつも第一志望校だけ。第二・第三志望校の欄が空白なのはまだ仕方ないとしても、せめて学部くらいはそろそろ決めておかないと。あなたももう二年生なんだから」
「はぁ」と俺は恐縮して言った。前もって準備していた相づちだった。
「進む学部が文系か理系かによって、選択する授業だって変わってくるでしょう?」
「わかってはいるんです」机を隔てて座るカンナ先生の目を見る。幾多の苦境を乗り越えてきた女の人の目だ。「ただ、どうしても決められなくて。『第一志望・鳴大』だけじゃ、だめですか?」
「進路指導担当としては、看過できないなぁ」
「では、経済学部ということにしておいてください。鳴大の経済学部」
「神沢君」カンナ先生は優しい顔に似合わないどすの利いた低い声でたしなめてくる。「真面目に考えなさい。これは、あなたの未来のことなのよ?」
――未来。
一年生の頃はなんの気なしに使っていたその言葉が、今は重圧となって両肩にのしかかってくる。
卒業の日は着実にひたひたと近付いている。だが俺はどんな答えにも近付いてはいない。換言するならば、どんな未来にも。
気分転換に首を回してみた。
いかにも進学校らしく、部屋の棚を七割近く占拠していたのは、全国の有名大学の入試過去問題集だった。いわゆる“赤本”だ。
意欲的な連中はよくここに来て、東大や京大といった難関校の過去問をコピーし、昼休みなどに腕試ししている。
「やっぱオレは私立だな」と言う奴がいる。
「こんなイナカから脱出できるなら大学はどこでもいいや」と言う奴もいる。
そういう奴らに羨望の眼差しを向けてしまう自分がいる。
公私の差やキャンパスの所在地なんかを気にかけることなく自分に合う大学を選べたら、どんなにいいだろう? 各大学のパンフレットはさながら招待状のように見え、日々の勉強にも一段と精が出るんじゃないだろうか。
しかしそれは決して届くことのない理想だった。
資金力という決定的なハンディキャップを抱える俺には、そもそも家から通える地元の国立・鳴大しか門戸が開けていないのだ。
「神沢君は、成績だって悪くなかったはずだよな?」カンナ先生は分厚いファイルを見て言った。俺のデータを見つけたのか、うんうん、とうなずく。「このままの成績をこの先も維持できるなら、過去の実例から言って、鳴大以上のところに入れると思うんだ。思い切って、旧帝大でも目指してみない?」
ここで「実は五年前に父が放火をして――」とこちらの境遇を一から説明するのも億劫だった。それを話すべきかどうかためらっていると、引き続き先生が言葉を発した。彼女はファイルの上から俺の顔色をじっとうかがっていた。
「気分を害したら謝るけれど、私も神沢君の家庭の事情はなんとなくわかってる。わかってる上でこの話をしているんだ。だって経済的な理由で若者が自分の可能性を閉ざしてしまうなんて、社会全体の大きな損失じゃないか」
長らく社会の蚊帳の外に追いやられていただけに、そう言われても、あまり実感がわいてこない。ただ悪い気がしなかったのも事実だ。
「奨学金制度が充実している大学も少なくないから、先生としては、考え直してほしいんだな」
俺は悩むふりをしてから口を開いた。
「いいんです。この街から出て行く気はありませんから」
「地元志向が悪いことだとは言わないけれど……」
嘆息しかけたカンナ先生は、ファイルを静かに机に置き、手を叩いた。何かを思い出したようだ。
「そういえば、神沢君と同じようなことを言っていた子がいたぞ。そうだ、高瀬さんだ。あの子も鳴大志望で、他の大学を勧めても、『この街から出て行きたくない』の一点張りだった。もしかしてあなたたち、示し合わせていたりするんじゃないでしょうね?」
もちろんそれは冗談めかした推理なんだろうけど、あながち的外れじゃなかったから、反応に困ってしまう。とりあえず作り笑いを浮かべ、「高瀬もここに呼び出されたんですね」と言ってみた。
カンナ先生は画鋲を踏んだような渋い顔でうなずいた。
「あの子も誰かさんと同じで、これまで一度も志望学部を書いてくれないんだ。『やりたいことが見つからない』らしくてね。もっとも、あの子は大学に行けることそれ自体が嬉しいみたいだから、私もそんなに厳しくは言えなかったけれど」
瞳を輝かせて大学の話をする高瀬を思い浮かべていると、「っていうかね」と先生がざっくばらんに吠えたので、俺は身構えた。それは四十代前半の女性教師とはとても思えぬ口調だった。
「あなたたちは大学名を書いてくれるから、まだいいの。問題は、柏木さんと葉山君。あのふたりにはどうなってるの? さすがの私ももうお手上げ。柏木さんの第一志望なんか、『最強のお母さん』だもの。幼稚園児ならそれで微笑ましいけれど、ここは高校よ? それも進学校。よくそんなことを堂々と書けるもんだ」
柏木は柏木で本気なんですよ、とフォローを挟むのも何か違う気がしたので黙っていた。
「葉山君に至っては『ロックンロール!』ですって」先生は額に手を当てた。「もう、馬鹿馬鹿しすぎて、個別に話をする気も起きないわ。どうしてこうも2年H組には、進路指導担当泣かせの生徒が集まっているんだろうね」
「なんか、すみません」
未来に困難が立ちふさがる者たちを代表して俺が謝ると、カンナ先生はすっぴんに近い顔を茶目っ気たっぷりに歪めた。
「あら迂闊。私ったら、他の子の個人情報をペラペラ喋っちゃダメじゃないねぇ。守秘義務ってもんがあるんだから」
「そうですよ」と俺は答えたが、とがめるつもりは少しもなかった。なぜならこの人は、俺たちが将来について語り合うほど昵懇の仲であることをとうに知っているから。
一年ものあいだほぼ毎日のように空き教室で集会を開いていれば、高校は狭い世界だ、教師陣からマークを受けることになるのは必定だった。
「担任の篠田先生にあまり迷惑かけちゃ、だめだぞ」カンナ先生は真剣に諭してくる。「良いガタイしてる割にあの人、けっこう繊細なんだから」
「はい」と素直に返事はしたけれど、そこはなんせ俺たちのことだから、担任にはこれからも多大な迷惑をかけることになると思う。たぶん。
♯ ♯ ♯
我らが鳴桜高校では進級に伴うクラス替えが存在しないので、カンナ先生の言う通り、俺と太陽、高瀬と柏木は相変わらず級友でもある。月島と、それから日比野さんは、2年A組に籍を置くことになった。そのA組の担任は斉藤カンナ先生。すなわち、今俺と対面している人だ。
「カンナ先生」は学内において彼女のオフィシャルな呼び方だった。
本人に確認を取ったわけではないが、普段は居丈高な校長でさえそう声をかけるのだから、間違いない。
彼女が苗字ではなく名前で呼ばれているのには、ふたつの理由がある。ひとつは斉藤姓の教師が三人もいることによる混乱を防ぐためであり、もうひとつは――これは俺の主観ではないと言い切れるけれど――純粋にみんな、この女性教師に親しみを感じているからだ。
客観的な見解として、カンナ先生はよく言えば世話好き、悪く言えばお節介な人である。しかし後者のような不評をまったく耳にしないのは、大多数の生徒が彼女の指導や助言をありがたいものとして受け入れてきた証だろう。
事実、「線引きの達人」と担任を称えていたA組の生徒もいる。月島だ。彼女は言った。
「生徒たちの個性や特徴に合わせて、『この子ならここまで立ち入って良い』、『この子はこれ以上はだめ』っていう線引きが絶妙なの。すごい先生だよ。プロの教師だ」
それを聞いて俺は、なるほどなぁ、と感心したものだった。一見やれ不平等だやれ贔屓だと批判されかねない姿勢ではあるが、高等学校の教師なんて、杓子定規なやり方では務まらないのだ。与えられた立場が学級担任であれ、進路指導担当であれ。
カンナ先生はその面倒見の良さから、まるで母親のように慕われることも少なくなかった。
「20年前はお姉さんだったのに、10年前くらいからお母さんになっちまった。ちきしょう」と彼女はよく授業中の雑談で自虐気味に振り返っていた。
そんな我が校の名物教師も、ほどなく、本当のお母さんになろうとしている。
正面でカンナ先生は、大きくふくれたお腹を愛撫していた。
「ま、もうすぐ高校を去る私が何を言っても、生徒にとってはうっとうしいだけか」
俺は慌てて首を振った。
「いえいえ、そんなことはないです。親身になってくれて、感謝しています」
先生は申し訳なさそうに眉を曲げた。
「せめてあなたたちの代が卒業するのを見届けたかったんだけど、こればかりは授かり物だから、仕方ないんだよな」
「産休をとるわけではなく、先生を辞めちゃうんですよね?」
「そうだね。この年で初産というのは、何かと負担が大きいから。これでハードワークに忙殺される日々ともおさらば。故郷の弘前に帰って、のんびり子育てさせてもらうことにするよ」
無意識のうちに俺は、この人ならば疑いの余地なく良い母親になるんだろうな、と我が子を慈しむカンナ先生をイメージしていた。睦まじい母子のイメージ。
――それがまずかった。
まずいと認識した時にはもう手遅れだった。
その母子の光景は、瞬時に脳内で、別の母子に取って代わられる。
いつも通り、途端に胃が強烈な不快感に侵されはじめた。間を置かず、昼に食べたものが食道を逆流してくる。俺は口を右手でおさえて椅子から立ち上がり、扉めざして一目散に駆け出した。
それがいかに礼を欠く行為であるかくらい、重々わかっている。けれども部屋の主に退室を断る余裕などない。
さいわいなことに、廊下へ出るとすぐに手洗い場が目に入った。
頭を空っぽにしてシンクとの距離を一気に詰め、前傾姿勢をとり、吐く。吐いて、咳込み、また吐く。胃だけでなく、手足までも痙攣している。心臓の鼓動は乱れに乱れている。それでも吐く。さわやかな四月の放課後が、汚れる。
蛇口のハンドルをひねり、血肉になることを拒絶された食物の残骸を排水口に流す。
頭を持ち上げるとそこには、気色の悪い顔面蒼白の男がいた。それがまさしく自分の姿だと認めるのに、いくらか時間を要する。続いて、鏡越しに、小柄な女子生徒と目が合った。まだ垢抜けていない。この春入学したばかりの一年生だ。彼女は変質者を見るような視線を俺に刻みつけると、逃げるように走り去っていった。
呼吸が落ち着くのを待って蛇口を上に向け、水で口の中をゆすぐ。何度もそうする。舌の裏までまんべんなく洗浄しておかないと、再び悪心に見舞われることになる。そして気づけば、背後にカンナ先生が立っている。
「またなの?」と先生は言って、背中を優しくさすってくれた。「このあいだの授業中とまるで同じじゃないか」
彼女は俺たちの古文の担当でもあった。
「消化器がとくべつ弱いんです」と俺は嘘をついた。
「どうする、保健室に連れて行こうか?」
「大丈夫です」俺は強がって笑った。「すみません。本当は僕が先生をいたわらなきゃいけないくらいなのに」
「一丁前にそんなことを気にしなくていいの。この場所では私は教師なのだから」
「心配おかけしました。もう平気です。さ、戻りましょう」
口元を制服の袖で拭って、俺は進路指導室へと歩きだした。その足取りは、覚束ない。
さまざまな人と出会い、さまざまな出来事を体験してきたことで、ずっと俺を縛りつけていた人間不信の鎖が確実に断ち切られつつあったのが、つい先月、一年生の三月だった。
しかし、自由で穏やかな日々の到来が二年生で待っていたわけではなかった。「そう易々と楽をさせるものか」と悪魔が微笑んでいるようだった。
新たな頑強な鎖が――油断したつもりはこれっぽっちもないけれど――全身に絡みついていたのである。
それはいつも突然やってくる。予告も前兆もない。先ほどのように、訪れを察知できるケースは稀だ。
母・有希子が、柏木恭一との間にできた幼い双子のすぐそばで、至福の笑みを湛えている光景。
三月三日の富山で大木の陰から垣間見たそのシーンが脳裏に復活し――ありありと復活し――やはりあの時と同じように、激しい吐き気を催してしまうのだ。
決して小さくない衝突や失望があったとはいえ、結果として俺はあの旅をどちらかといえば前向きな気持ちのまま終えたはずだった。柏木だってそう認識していた。
俺は少なくとも自分を捨てた母親に会いに行ったことを後悔はしていないし、過去にけりをつけて未来に進むためには、避けて通れぬ道だったと確信すらしていた。
「誰も悪くない」
「誰かを憎むのはよそう」
未熟な我々なりにそう結論づけて、柏木と共にこの街へ帰って来たのだった。
それなのになぜ、なぜ、未練がましくこのような現象がこの身に起こってしまうのか、いくら考えても俺にはさっぱりわからなかった。ネットで調べてもよくわからなかった。母の写真を見てももちろんわからなかった。わかろうとして最寄りの心療内科に足を運んでみたりもした。
しかし二時間半待たされた挙げ句獲得することができたのは、「大変ですね」という医者のありがたいお言葉と大量の錠剤と日常の中で意識的に笑うことを推奨する小冊子だった。
小冊子のタイトルが「笑顔で元気 こころとからだ」だったので、一行も中身を読まずにごみ箱にぶん投げた。記憶から消し去りたい笑顔のせいでこうなっている俺からすれば、皮肉以外の何物でもなかった。頭にきたので、帰りにカレーショップに寄ってカツカレーを二杯も食ってやった。まさしくヤケ食いだった。もちろん胃もたれを招いたが、どういうわけか、カツもカレーもライスも戻すことはなかった。わけがわからなかった。
予想を裏切らず、薬では何も解決しなかった。
平均すると一日に二回から三回、多いときでは五回六回と母の笑顔は蘇る。そしてそのたび、俺の胃は機能を失う。
なにが一番厄介って、その作用がこっちの事情なんかお構いなしに起きることだ。
俺が授業中であれ食事中であれバイト中であれ排尿中であれ、狂った儀式はきわめて厳格に執り行われる。ただの一度だって中断されたためしはない。愛に満ちた母子の姿が浮かんだら最後、どうあがいても嘔吐を免れることはできないのだ。
そんな具合だから俺は、眠っているあいだ以外の時間は常に気を張っていなければならなかった。それはタイトな毎日だった。一日が終わる頃には、神経はすっかり磨り減っていた。
外出する際は、トイレや水場の位置を確認するのが習慣となった。夢の中でさえも吐ける場所を探していた。富山への旅の前は64㎏あった体重も、この一ヶ月ばかりで50㎏台まで落ち込んでしまった。
淡い期待をかけて、家に残っていた母の写真をかき集めて庭で燃やしてみたりもした。しかし症状が快方に向かうどころかむしろその最中にも発作は訪れた。庭が嘔吐物で汚れた。自分が滑稽で仕方なかった。
できることならば、いっそのこと頭から脳を取り出して、燃え盛る炎の中に投げ込んでやりたかった。
母の記憶なんかすべて燃え尽きてしまえばいいのに。
反吐にまみれた俺は、そんなことを思った。
新たな鎖は強く深くこの体に食い込み、今や心までも雁字搦めにしようとしていた。