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【完結済】未来の君に、さよなら  作者: 朝倉夜空
第一学年・冬〈試練〉と〈スーパーマーケット〉の物語
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第40話 ただ抱き合って 2


「あたし、良い母親になれるんだろうか」と柏木がつぶやいたのは、10時を少しまわった時だった。「有希子さんのことを『最低の母親』と(ののし)る資格は、あたしにはなかったんじゃないかな?」

 

 私服から浴衣(ゆかた)に着替えた俺たちは、カビ臭い布団と安物の毛布の下で体を休めていた。


 部屋の電気は消したけれども、暗がりに目が慣れてきたので、天井の模様くらいならば俺の0.9の視力でも把握できる。なんの風情も個性もない、この上なく退屈な天井だ。


 しかし天井だって、つい30分前まで女の肩を借りて号泣していた男にだけは、けなされたくないはずだった。


「突然、どうした?」と俺は隣の布団に向けて声を掛けた。


「あたしね、あの家の庭で木の陰から双子を見つけた時、『殺してやりたい』って思っちゃったんだ」

 柏木は溜め息まじりにそう打ち明けた。

「幸せそうな顔してるんじゃないよ。いくつの犠牲の上にある生活なのよ。その(ひと)は誰の父親だと思ってるのよ。そんな怒りが次々沸き上がってきて、狂いそうになった。もし手が届くところにあの二人がいたら、首を絞めていたかもしれない。ちょうど悠介が雪の上で吐いて、はっと我に返ったから良かったけど。


 おかしいよね、あたし。あの子たちにはなんの罪もないのに。こんなんで、『世界一幸せな家庭』の母親になんかなれるわけないよ」


「きれいなだけじゃ、生きられないだろ」と俺は言った。口にした後で、その台詞が母・有希子の受け売りであることに気が付く。首を振る。この先は自らの言葉で話さなきゃいけない。

「自分を捨てた親が他の子に愛情を注いでいる光景を見れば、誰だってまともな精神状態じゃいられなくなるさ。あの時のおまえはまだ記憶が戻っていなかったんだから、なおさらだ。自分を責めるな。俺たちは、世間一般から見れば、まだまだ未熟者なんだ」

 

 いくらなんでも殺意までは芽生えなかったが、俺にとってもあの双子はおよそ好ましい存在などではなかった。一回り年が離れた彼らのことを「血を分けたかわいい弟妹」なんて思えるほど、俺は高潔な人間じゃない。


 いずれにしても、柏木には前を向いていてほしかった。

「安心しろ。多くの痛みを身をもって知るおまえなら、将来必ず良い母親になれる。子供にとって必要な痛みとそうでない痛みを選り分けられる、厳しくも優しい母親にな。それは俺が保証する」


「今の、高校生の発言じゃないでしょ」

「今日一日で老けたんだよ、どっと」

 

「悠介に保証されてもなぁ」

「ふざけんな」

 俺は顔をしかめながらも安堵した。軽口を叩ける余裕があるのなら、大丈夫だ。実際、彼女は笑っている。


「サンキュ」と聞こえたのは、きっと空耳じゃない。


 俺は言った。「おまえは親父のことが好きだったんだな」


「まぁね」と柏木は照れ臭そうに言った。「ねえ悠介。あの人との思い出話、聞いてくれる?」


「ああ」

 眠気はまだ訪れそうにない。夜は長いのだ。


「あの馬鹿親父、心臓の病気のせいで外出することは多くなかったけど、それでもね、小学校の参観日にはよく来てくれてさ。あの人が来ると、教室の空気ががらっと変わるんだよ。とたんに他のお母さんたちがそわそわしだすから。

 

 お母さんだけじゃない。先生も。『トム・クルーズ以外の男とは結婚しない』とか言ってた西洋かぶれの女の先生が頬を染めてチョークを落としちゃったこともある。そんな風だから、後ろを振り向かなくてもわかっちゃうの。『あ、お父さんだ』って」


「トム・クルーズにも負けないくらい良い男だもんな、あいつ」

 

 俺は、柏木恭一が気取りのない笑顔でご婦人方を(とりこ)にする光景を頭の中でイメージしてみた。その映像は、お供え物目当てで猿が墓を荒らすシーンよりも簡単に思い浮かんだ。


「特別なものは着てないんだよ?」娘は誇らしげだ。「男の人はスーツで来ることが多いけど、うちのお父さんは、いつもよれよれのシャツに安物のチノパン。でもそれがスタイルの良さをかえって際立たせて、すごく似合うの。友だちには『晴香のパパ、格好良くていいな』って羨ましがられてさ。あれは良い気分だった」


「そのうえ、家では、洒落たお菓子まで作ってくれるんだもんな」

「すごい。少女漫画に出てくるような理想的な父親じゃん」


 柏木の顔はほころんでいる。見なくたってわかる。


 少し間を置いてから彼女は「ドッジボールくらい知ってるよね?」と尋ねてきたので、「嫌いなやつ目がけて全力で球を投げつける、野蛮かつ不健全な競技だ」と答えた。偏見に満ちていた。


「悠介、苦手そう」

「柏木、得意そう」


「得意なんだけど、その時はちょっとへま(・・)しちゃって」と彼女は言った。「相手チームの一人の男子がね、執拗にあたしのことばかり狙ってボールを投げてくるの。ま、結論から言うと、そいつはあたしのことが好きで、気を惹くために意地悪したかっただけなんだけど。名を島田君という」


「やっぱり不健全な競技だ」


 柏木は苦笑した。

「あたしも負けず嫌いだからさ。逆に島田君にぶつけてやろうとムキになって、自陣の最前線で応戦することにしたの。それがまずかった。彼に至近距離からもろに顔にボールを当てられて、その場でダウン。気が付けば、保健室のベッドの上で横になってた。鼻血が全然止まらなくてね。先生からの連絡で事情を知ったお父さんが、大慌てで小学校に乗り込んできた」


「騒動の予感しかしない」


「ピンポーン」と彼女は言った。「よりによって、謝りに来た島田君とお父さんが保健室で(はち)合わせちゃって。あの人、血相を変えて怒鳴る怒鳴る。『おまえか、島田、この野郎! 人の娘をこんな目にあわせやがって! 男が女を傷つけるなんて最低だぞ。惚れてんのなら、男らしく正々堂々想いを伝えやがれ――』えっと、長いから、以下省略ね」


「惚れてんのなら」のくだりは、俺の父に対する積年の怨嗟(えんさ)と取れないこともなかった。男とは忘れることを忘れた生き物だ。いつか観た映画で誰かがそう言っていた。トム・クルーズではない。

 

「大変だったのは、その後」と柏木は続けた。「あたしと先生たちでなだめたけど、あの人の怒りは収まらなかった。『二度と晴香を傷つけるんじゃねぇぞ』って島田君をたしなめた後で顔を歪めて倒れ込んじゃって。心臓の発作が起きたの。あたしも見たことがないくらい、激しいのが」


「健康体じゃないんだから興奮し過ぎちゃだめだよ、おとっつぁん」


「ねぇ?」柏木は語尾を伸ばして笑う。「結局、救急車を呼んでもらって、二人して病院に送られる羽目になってさ。搬送中にした会話を今でも覚えてる。『こんなことで死んだらどうするの』ってあたしが言ったら、あの人、こう答えた。『親ってのはな、命にかえてでも子を守るもんなんだよ。これで死ぬなら本望だ』」

 

 すぐさま俺の脳裏には「生き延びるためにその子を捨てたくせに」と浮かんだが、それを口には出さなかった。話の腰を折ってしまう。


 柏木は懐かしむ。

「救急隊員の人に『お父さん、命を粗末にしちゃだめでしょ! 娘さんも鼻血が出てるんだから、安静に!』って親子揃って叱られたのは今は良い思い出だな。もちろん一命は取り留めて、帰りは焼き鳥屋で反省会だった。レバーをいっぱい食べた。鉄分補給」


「手の掛かる父親と娘だ」


「すみません」と彼女は柏木家を代表して謝った。それから鼻をぐすんと鳴らした。「あの人はね、守るって言葉が好きなんだよ。ほら、今日の昼間も言ってたでしょ。『おまえが謝る必要なんかないぞ、有希子。今度はオレがおまえを守る(・・)番だ』って。あの馬鹿、似たような台詞をしょっちゅう吐いてるに違いないよ」

 

 その都度母の心が大きく弾んでいるのも間違いない。


「ああ、そっか。あたしと過ごした時間を『道草』って例えたのも、あの人なりの思いやりだったのかも。いや、それ自体は本心なんだろうけどさ。でも、敢えてそれをあたしに聞かせることで、『最低の父親だ』って思わせたかったんじゃないかな。そうすれば、あたしがこの先、未練なく生きていけると考えた。それが結果的にあたしを()()ことになると」


 俺がその考察をさまざまな角度から検証していると、先に柏木の口が動いた。

「ちょっと考えが飛躍しちゃったかなぁ? 前向き過ぎるよね、あはは」


「いや」彼女の見解はあながち間違っているとは思えなかった。「柏木恭一という男は、そういう奴だよ。あいつならそこまで想定して動いても、ちっともおかしくない。めちゃくちゃな人間だけど、根は優しい男だ。そしてとても賢い男だ。きっと今頃、うなだれているんじゃないかな。いろんなもんに(さいな)まれて」


「ありがと」と柏木は静かに言った。「あたしのお父さんを褒めてくれて」


 俺は無言でうなずいた。


「とにかくさ。あの人はあたしの自慢の父親だった。尊敬していたし、憧れてもいた。大好きだった。大好きだった(・・・・・・)


 俺はもう一度うなずいて横を向いた。柏木と目が合う。いつの間にか彼女もこちらを見ている。

「ねぇ悠介。そっちに行ってもいい?」


「そっち?」声が裏返る。

「そっちの布団。なんだか、寒いの」


「暖房はつけてるんだけどな」

「馬鹿じゃないの、鈍感」とささやいた柏木の行動は速かった。俺が謝る(いとま)すらなかった。


 彼女は上半身をさっと起こし、乱れた浴衣を直すこともせずに、こちらの布団へ潜り込んできた。そして俺の体に抱き付いた。さっそく、胸の辺りに湿り気を感じる。


 泣きたかったのなら正直に言えば良かったのに、と俺は思う。俺に対しては大きな貸しがあるのだから。何も恥ずかしがることはない。

 

「ごめん」と柏木は涙ながらに言った。「弱さを見せるのはこれが最後。泣き終わったら、あたし、強くなってるから」

 

 俺は黙って彼女の背中を両手で包み、震えるその体を強く抱き寄せた。

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