第39話 小さな勇者たちに大きな拍手を 2
簡単に答えを返せるわけがなかった。そして母もそんな俺の胸中を察しているようだった。「こっちを選びなさい」と命じることもなければ、「早く何か言いなさい」と催促してくることもなかった。
俺は重力に逆らうのをやめて肩を落とし、首を左右に振れるだけ振った。「回答不可能」の意だ。
予想もしなかったかたちで、そして予想もしなかった人物によって、“未来の君”の正体が炙り出された。
いきさつはどうあれ、それは手放しで喜ぶべきなのだと思う。
なにしろずっと探し求めていた、幸せな未来へとつながる扉の鍵を入手したも同然なのだから。
あとはさっさと解錠し、扉を開け、道なりに進んでいけばいい。きっと俺を待っているのは、ささやかではあっても、輝きを放つたしかな光だ。
けれども俺は、少しも前向きな気持ちになれなかった。力が、意欲が、まったく湧いてこない。これでは、鍵穴の位置を確認することすらままならない。
それもそのはずだった。今この心を占めているのは、柏木が“未来の君”であるという事実ではなく、高瀬が“未来の君”ではないという事実なのだから。
「高瀬」
無意識に呼び慣れたその名を口にしている。彼女の耳に届くわけがないのに。
この先俺はいったい、どうすればいいのだろう?
今度君に会うとき、俺はどんな顔をすればいいのだろう?
そして俺たちの未来は、どこへ行くのだろう?
気付けば母は『未来の君に、さよなら』を適当に斜め読みしていた。
ページを小気味良くめくるその指使いに、高瀬のたおやかな姿が重なる。
それがきっかけとなって、俺ははっと我に返った。思い悩むことはいつでもできるが、今この時しかできないことがある。正月に請け合った、高瀬の依頼を忘れてはならない。
「母さん、突然で悪いけど、頼みがあるんだ」
彼女は無言で首をわずかに傾けた。話してみて、ということらしい。
「実は、この作品を書き直す許可が欲しくて」
「書き直す? 悠介が?」
「いや、さっきから話に出ている、直行さんの娘だ」
「悠介が想いを寄せる優等生」と母はわざわざ言い換えた。
「恭一は物書きとして『未来の君に、さよなら』で脚光を浴びることができなかったようだけど、彼女はこの作品に、大きな魅力を感じたみたいだ。自分が書き直すべきだという使命感すら持っている」
「直行くんの娘さんは、小説家志望なの?」
「そういうわけじゃない」
事情を説明しなければ、と思うと、どうしても照れてしまう。
「俺のためなんだ。彼女は新人賞を取って、その副賞の賞金を、俺の大学資金にするつもりでいる」
「まぁ」
母は感嘆の声を上げると、持っていた冊子をテーブルに置き、微笑みを見せた。
「それこそ、小説みたいなお話ね。素敵じゃない」
「男としては情けなくもあるけど」それを言うと高瀬は怒るけど。
「面白いものだわ」と母はつぶやき、目を細めた。「高校時代の直行くんは、『“小説”なんて言葉を聞いただけで反吐が出る。こんなものを書く奴の気が知れない』とまで言っていたのに。まさか、自分の娘が小説の新人賞を狙うことになるなんてね」
そこで彼女は思い出したように小さく手を叩き、子煩悩なお父さんになってそう、と愉快そうに推測を口にしたので、「大正解」と俺は答えた。
女の尻と白球を追っていた直行くんも今や、立派な社長であり、娘思いの父親だ。
母は眉をきれいに曲げた。心なしか、5歳くらい若返っていた。
「書き直してもいいわよ。許可しない理由が見当たらないもの」
「恭一の意思は確認しなくてもいいの?」
隣の和室から恭一の涙声が聞こえてくる。娘の晴香に、何かを熱心に諭している最中にあるようだ。
「いいのよ」と母はためらわず言った。「今はそれどころじゃないし、そもそも彼は小説に未練がないの。もしも今になって『やっぱりオレは小説で一山当てたいんだ』なんて言い出しても、そんなこと私が決して許さないから。著者である川岸小雪として、責任を持って、この作品を書き直すことを認めるわ。直行くんの娘さんに、よろしく言っておいて」
俺は深くうなずき、母から冊子を受け取った。どうしたって、本来の質量以上の重みが両手にのしかかる。
♯ ♯ ♯
『未来の君に、さよなら』関連の話が終わってしまうと、ねじを巻き戻したみたいに、居間には再び重い空気が降りてきた。喉がからからに渇いていた。なにか飲み物が欲しかったけれど、母にそれを要求できるほど、俺たちの心の距離は縮まってはいなかった。
それにだいたい、いくら水を飲んだところで癒える質の渇きではないのだ。
最終バスが来る時間は、着実に近付いている。
舌にまとわりつく粘り気の強い唾液を飲み下し、俺は口を開いた。
「母さん。これがこの旅の最後の目的になる。どうか、あなたの心の声を聞かせてほしいんだ」
「心の声」と母はうつむき加減で繰り返した。抽象的な表現だが、思い当たる節があったのだろう。
「母さん。振り返れば俺は、これまでにあなたの心の声というものを一度だって聞いたことがないんだ。俺の呼びかけに対するあなたの受け答えはいつだって事務的で、閉塞的で、必要最低限の言葉で構成されていた。まるで人工知能を搭載した人形と話しているみたいだった。
『明日は参観日なんだ』『行けない』、『晩ごはんは何?』『後でわかる』、『算数のテストで100点をとったよ』『そう』こんな感じで。
俺はけっこう辛抱強くあなたの胸元にボールを投げ込み続けたけれど、まともに返ってくるボールは結局一球たりともなかった。全球、行方不明だ。投げるボールがついに尽きかけたところで、あなたは家を出て行った。それが4年前のことだ」
試しに少し待ってみたが、母はどんな相づちも打たなかった。
「本音を言う。俺は母親であるあなたに褒めてほしかったし、叱ってほしかった。だから脇目もふらず勉強をがんばったし、あなたが大事にしていた花瓶をわざと割ったりもした。
煎じ詰めれば俺は、褒められるにしろ叱られるにしろ、あなたの心から出た声をどうにかして聞きたかったんだと思う。でもどんな時だってあなたは無感動だった。能面だった。俺の耳に届くのは、心の声と呼ぶにはあまりにも程遠い、地下牢の鉄格子のような冷たさを帯びた声だった」
「それで、私にどうしろと言うの?」
「今この状況で唐突に褒めてくれ、叱ってくれ、なんてことは求めない。だからさ、せめて一つの質問に答えてくれないかな。母さんの心の声で」
彼女は少し考えてから小さく一度うなずいた。
「恭一は、晴香や夏子さんと過ごした12年間を“道草”に例えた。あなたにとっても俺や父さんと過ごした期間は、似たようなものだったと思う。道草じゃなければ、そうだな、“雨宿り”だろうか?」
「雨宿り」
母はその一語を念入りに吟味する。
「そっちの方がなんだか風情があるわね」
「そりゃどうも」と俺はにべもなく言った。作家・川岸小雪と話す時間はもうとっくに終わっている。
「どっちにしても、不本意な歩みの道中で俺という子が産まれた。それに変わりはないはずだ。そこで尋ねたい。母さん。あなたという人にとって、俺はいったいどういう存在だったんだろう?」
母は深く顎を引き、真正面を、16年前に産んだ子の目を、じっと見つめてくる。
「私にそれを言わせるの?」白黒の無声映画ならば、そんな字幕が入りそうな場面だ。言わせるんだよ、と俺は時計を見て気負う。
「俺と晴香は間もなくここを去る。もう二度と富山の土を踏むことはないだろう。もしかしたら晴香は来るかもしれないけど、少なくとも俺は来ない。だから今この時がおそらく、俺とあなたが顔を見合わせて話をする最後の機会になる。厄介な質問だとは思うよ。でもさ、餞別だと思って答えてくれよ。一回くらい、生きた声を聞かせてくれてもいいじゃないか」
母は静かに目をつむった。そしてそのままの状態で口を開いた。
「愛すべき、存在」
俺は耳を疑った。思わず笑い出しそうになる。
「私は、悠介のことを自分の子として愛していた」と母はまぶたをゆっくり持ち上げながら言う。彼女の瞳には、俺の呆れ顔が映ったはずだ。
「あなたは残酷な人だね」と俺は言った。「この期に及んで、こんなふざけたことを真顔で言えるんだから」
「嘘じゃないわ――」
俺は顔の前で大きく手を振り、母の発言を遮断した。
「恭一が晴香に対して『愛していた』というのはまだわかるよ。なぜならあの男は、家を出る前は晴香と良好な関係を築いていたし、曲がりなりにも親の役割を果たしていたんだから。でもあなたの12年間はどうだった? 自分の胸に手を当てて考えてみなよ。そしたら到底、『愛』なんて言葉はその喉を通ってこないはずだ」
40℃近くの高熱が出て小学校を早退しても、日課だと吐き捨てて図書館へ行ってしまった彼女の後ろ姿を俺は今でも覚えている。その日のことを忘れたとは言わせない。
「当時の私は、母親になるには若すぎた」
「母親になるには若すぎた?」
「悠介の言う通り、お父さんとの結婚は私にとって不本意以外のなにものでもなかった。あの人と一つ屋根の下に暮らす日々の中では、自分の精神を正常に保つのに精一杯で、とても育児まで気が回らなかった。悠介が手の掛からない子供だったということに甘えていた部分もある。要するに私は、人間として、母親として、未熟だったの」
「精神を正常に保つため、毎日、図書館に通っていたというわけ?」
「平日の図書館だけが、苦悩から解放される場所だった」
「恭一と一緒に小説を創り上げていた頃の、理想の自分に戻ることができた」
「そういう側面もあったでしょうね」と母ははにかみ気味に言って、すぐに表情をリセットした。「言い訳がましくなってしまうけれども、年をとるにつれて私は、『このままではいけない』と思うようになっていったのよ。お父さんは腐ることなく真面目に働いて私たちを養ってくれたし、悠介も順調に育ってくれた。
いつまでも過去に囚われず、この生活の中で希望を見出して、前向きに生きなきゃ。悠介も多感な時期に差し掛かる。これからは母親としてきちんと向き合う方法を模索しなくちゃ。そんな風に考えるようになった。けれどもその矢先――」
彼女はそこで言い淀んだが、その先は聞かなくてもわかる。「恭一と再会してしまった」だ。脳内で補足したしるしにうなずき、話の続きを促す。
「悠介。人間はね、きれいなだけじゃ生きられない。どうしたって間違うし、汚れてしまう。私は母親としては失格だった。でもね、だからといってそれは、あなたを愛していなかった証にはならないのよ。私にとって悠介はこれまでもこれからも愛すべき存在。それが私の偽らざる心の声」
「そういうことだったのか、わかったよ母さん」と素直に納得できるわけがなかった。穏便に済ませるため、体裁を取り繕ったんじゃないかという疑念が拭えない。
俺が注意深く口を結んでいると、母が機嫌を取るような目つきをしてこう尋ねてきた。
「もしかして、あの子たちのことが、頭にあるの?」
「あの子たち。……双子のこと?」
「ええ」
「もちろん」と俺は答えた。
「あのね悠介。私はあの二人と同じだけ、あなたのことも愛している」
それを聞いた瞬間、俺の中を飢えた獣が縦横無尽に駆けめぐり、理性という理性を食い尽くした。
「何言ってるんだよ、あんた!」と俺は立ち上がって叫んだ。「馬鹿げた嘘で俺を愚弄するな! いい加減にしろ! あの双子と俺が同じ? そんなわけないだろ! 片や強く恋い焦がれ、共に生きることを熱望していた男とのあいだにできた子! 片やあんたを我が物にするため、卑劣きわまりない手段を使った男とのあいだにできた子! どっちがあんたにとってより愛おしい存在か、明らかじゃないか!」
母は首を振った。
「悠介、お願い、聞いて。父親は違っても、あなたも私の子であることに変わりはないの」
俺も負けじと首を振った。
「庭の芝の上で転んだときに双子に見せたあんたの笑顔。素敵だったよ。屈託のない笑顔とはまさしくああいうのを言うんだと、ひとつ勉強になった。だけど俺は、あの百分の一の笑顔だって見せてもらったことがない! いくら母親であることに戸惑っていたとはいえ、俺が大切だったなら、微笑みかけることくらいできただろう!?」
「悠介、もうやめて」
母は懇願の眼差しで見上げてくる。しかし皮膚の下で獣はまだ暴れ回っている。
「あの双子と俺を同じだけ愛してる。へぇ。だったら『一年の半分は俺と生活してくれ』と頼んだら、聞き入れてくれる? あ、いやいや、向こうは二人だから、均等に一年を三分割して、四ヶ月でいいや。明日同じ飛行機であの街に帰って、母親の仕事をしてよ。夏になったらまた、富山に戻ってくればいい。お土産を持たせてやるよ。三人の子どもを同じだけ愛しているのなら、多少面倒でもできるよね?」
「それは――」
目を泳がせて言葉を探す母。回答をいつまでも待ってはいられない。
「できないんだよ、そんなこと」と俺は自信を持って断言した。「できるわけがない。あんたは俺を捨てることはできても、あの双子を捨てることはできないんだ。今の間がそれをなにより物語っている。差は、存在するんだよ。
意地悪なことを尋ねてすまなかった。慣れれば一人暮らしもそんなに悪くない。俺は今の悠々自適の生活をそれなりに気に入ってるんだ。今更一緒に暮らそうなんて本当はちっとも思ってないし、幼いあの子たちからあんたを引き離すほど俺は鬼畜じゃないから、どうか安心してよ。母親の本物の愛情が、なにより大切な時期だもんな」
「悠介、お願い。どうか私の言葉を信じて」
横目には、柏木親子の姿が映った。俺と母の応酬が気になって、いつの間にか襖を開けていたらしい。彼らは顔の同じ場所に同じように皺を寄せ、こちらの様子をうかがっている。
「母さん、もう終わりにしよう」と俺は彼女を見下ろし言った。「心の声を聞かせてくれと頼んだ俺が馬鹿だった。そりゃあ俺だってあんたの言葉を信じて、温かい気持ちで帰途につきたかったさ。寒い富山まで来た甲斐があったな、と。残念ながらそれはもう無理だ。俺はあんたの『愛している』という言葉を受け入れることはできない」
そこで予想外のことが起こった。母の二つの瞳が、潤いで満たされたのだ。俺の頭はえらく混乱した。彼女は涙は女の武器と考えるような軽薄な人でもなければ、嘘泣きをするような青臭い人でもない。
母の端正な顔が崩れ、瞳から涙がこぼれ落ちるまで、時間はかからなかった。この人の泣き顔を見るのはこれが初めてだった。まさかこのようなかたちで涙の別れになろうとは、思いもしなかった。
俺は一度天を仰いでから隣の和室に視線を転じた。
すべての用件が終わったことを柏木に伝えようと口を開きかけたその時、文字通りドタバタと騒がしい足音が後方から、廊下から、聞こえてきた。廊下を蹴っているのは、どうやら二人だ。そういうことか、と俺は覚悟を決める。
「ママをいじめるなっ!」
双子の男の子の方が、母に近づき吠えた。母を守るように大きく手を広げ、俺を睨み付ける。
「僕のママから離れろっ!」
僕のママ。そうだ。それでいい、と俺は思った。
――誕生を祝福されし子。
その女の人はまぎれもなく君の母親だ。君が正統、俺は異端。君が勇者、俺は外敵。そしてこれが君の運命、これが俺の運命だ。
母は笑顔をむりやり作り、小さな勇者を安心させようと試みた。しかし彼の心の炎は簡単に消えなかった。彼を駆り立てているのは、俺の中の悪しき獣を焼き殺す、正しい炎だ。
「帰れよ、悪い奴っ! ママを泣かせる悪い奴っ! 出て行け! このおうちから出て行けっ!」
彼は限られた語彙の中から、最も自分の気持ちを的確に表現できる言葉を選んだのだろう。たいしたものだ。守るべきものがあると、男は強くなれる。
もう一つの足音の主は、柏木に狙いを定めていた。双子の女の子の方だ。見れば、手には銃のようなものを持っている。
「バカ!」と彼女は柏木に対して声を張る。「パパはこんなに赤くなかった! なんで叩くんだ! バカバカ!」
少女は勇敢にも柏木に銃口を向け、引き金を引いた。発射されたのは、水だった。
「ちょ、ちょっと!」
柏木は慌てて逃げ惑うも、少女は柏木を逃すまいと追い回す。恭一は止めない。少女は水鉄砲を撃ち続ける。小さな勇者たちに大きな拍手を。これがもし見世物ならそんなアナウンスがあってもおかしくない場面だった。
「あたし、足が痛いんだって! 走らせないでよ! わかったわかった! 帰るから! ごめんね!」
柏木は両手を挙げて降参しながら、こちらに目配せした。「もう行こう」ということだ。俺は無言でうなずいた。
見納めに母の顔を一瞥してから、指一本触れさせてたまるものかと臨戦態勢を崩さない凛々しい勇者の元へと歩み寄った。そして視線を同じ高さまで落とし、言った。
「ママをいつまでも守ってやるんだぞ。これは男の約束だからな」