キュウコン
「舶来の花の球根だよ。育ててみるまでどんな花が咲くか分からない」
汗ばんだ手で銀貨を握り締める少年に、老爺はくつくつと笑って見せた。露天商たちがひしめく神社の参道、植木鉢とじょうろに囲まれた一角。秋晴れの空からは、とんびの声が降ってくる。
色とりどりの陶器で出来た鉢の中、恥じらうように埋もれた幾つもの球の根たちは、頭のてっぺんと伸び始めた薄緑の茎だけを土から覗かせて、新しい主の到着を待っていた。
「おじさん、これ頂戴」
少年は、ひときわ赤い頭とひときわ青々とした葉を持つ小さな球根を指さして、いかにも待ちきれないと言った顔で銀貨を差し出す。
「へい、毎度。大事に育てておくれよ、坊ちゃん」
「うん! 絶対枯らさないよ」
「花が咲いたら見せておくれ、な」
「もちろんさ!」
大事そうに鉢を抱え、その場を去って行った少年の背を見つめて、老爺はくつくつと笑った。
皺の奥できらきらとまたたく目は金色の光を放ち、歯のないその口は、耳元までざっくりと裂けていたという。
少年が一日に何度もじょうろを手に植木鉢の方へ行くものだから、父親は笑いながら彼を止めなくてはいけなかった。
「こらこら、そんなに水をやっては根が腐って枯れてしまうぞ」
少年は不服そう な顔で、だって、とつぶやく。
「だって、早く花が咲いたところが見たいんだもの。花売りのおじさんとも約束したんだ、花が咲いたら見せに行くって」
飽き性な少年が何日も続けて水やりを忘れていない上、家族以外の大人とそんな話をしたことが嬉しかったのだろう。父親はにこにこと機嫌よく笑いながら、少年の頭を撫でた。
「有名な植物学者の本に書いてあったんだが、毎日鉢植えの仙人掌に話しかけ続けたら棘が全部抜けたり花が咲いたりしたそうだよ。植物にも人間の言葉が分かるし、話しかけられると嬉しいんだそうだ。どうだい、毎日球根に『早く咲いておくれ』と頼むのは」
「えぇ、返事もしないのにずーっと話すの」
「何もおしゃべりをしろと言ってるんじゃない。水やりの度 に、あいさつみたいに話しかければいいだけさ。一言、二言で十分だ」
「……」
疑わしそうに首をかしげながら残った水を辺りにまきはじめた少年に、父親はからかうように言った。
「ひょっとしたら、返事を返してくるようになるかもしれないだろう」
「おはよう。水だぞ」
朝の金の光の中で、じょうろから降り注ぐ雫がきらきらと光る。土に沁み込み、茎を滑り、葉を光らせ球根にまといつく水の滴は雲母の欠片のようだった。少年は眩しさと美しさに目を細める。
「お前は綺麗だね。水を浴びるといっとう綺麗だ」
半信半疑、嫌々話しかけていたのが嘘のようだった。今ではこの球根が少年の親友であり、弟のようなものだ。学校であったこと、帰り道に見つけたもの、家族に言 えない秘密の相談。水をやるのと同じように、少年は言葉と声を、生き生きと伸びる葉とそれを支える球根に注ぎ込んだ。
風もないのに、葉が揺れることがあった。少年はそれを球根の相槌だととらえ、揺れるごとにじょうろを置いて葉に指を滑らせるのだった。
「お前は賢いね。大好きだよ」
うっとりと、小さな声で囁きながら。
「お前が咲くの、楽しみにしてるからな」
ある日少年は、泣きながら帰ってくると鞄を床に投げ捨てて蹲った。鉢植えは、少年の部屋の出窓で静かに夕日を浴びている。
「お前のこと一番の宝物だって言ったら、女々しいって、男らしくないって」
恨めし気に睨まれて、ゆら、と葉が揺れる。少年はそんなこと気にも留めずに、涙で顔をぐしゃぐしゃに しながら立ち上がり、大きな足音を立てながら鉢植えへ近寄った。
「考えたら馬鹿みたいだよな。お前はいつまでたっても咲かないし、僕はそんなお前にずーっと話しかけてる。お前は葉っぱを揺らすけど、それだって僕が気づいてなかっただけで風が吹いてたのかもしれないし」
乱暴に鉢を掴み、階段を下りて勝手口を出る。庭の敷石の上、ゆっくりと少年は腕を振り上げた。
「本当に馬鹿みたいだ」
そのまま指先に力を籠め、敷石に鉢を叩きつけようとした刹那。
「駄目…!」
か細い声が、まるで頭の奥に湧きあがるように響いた。
驚いた少年は、取り落としかけた鉢をすんでのところで受け止め、胸元で抱きしめる。
「誰だ…!」
あたりを見渡しても、狭い庭の中に は少年しかいない。勝手口の方を振り返っても、姉や母の姿は見えない。
狂ったように視線をそこらじゅうに走らせる少年の頭の奥、また小さく声が響いた。
「そんなに勢いよく鉢を割ったら貴方が怪我しちゃうわ。お願い、捨てるならあたしをそっと引き抜いて捨てて」
「……お前……」
「ごめんなさい、ずっとお話出来なくて。まだ育ちきってなかったから、あたし」
間違いない。その声は球根が頭を出す辺りから響いているのだ。鈴を転がすような、高く澄んだ声だった。
「茎のてっぺんが膨らんできてるでしょう。もうすぐ蕾ができるの。出来ることなら、花が咲いて散るまで抜かないでほしいけど……あたしのせいでいじめられるなんて貴方が可哀そうだし、あたし切なくって。…… いいわ、抜いて捨てて頂戴。土が重たくて、あたし自分じゃ出られないの。ごめんなさい」
「そんな……謝るのは僕の方だ」
ぎゅっと鉢を抱きしめて、土に沁み込ませるようにしながら、少年は低く優しい声で語りかけた。
「ごめん。僕の勝手で君を枯らすなんて、鉢を割ろうだなんて……君はこんなに優しいのに」
「初めに優しくしてくれたのは貴方だわ。貴方が言葉を教えてくれたんじゃない。あたし、貴方がたくさん話してくれたから、心も言葉も持つことができたのよ」
「……僕がしてたことは、無駄じゃなかったんだね」
「無駄なもんですか。……ねえ、あたし貴方が大好きよ」
咲いていないはずの花の怪しい匂いが、少年の鼻腔をくすぐった。うるんだ目でじっと、茎の先、わず かに色を見せて膨らんだ部分を見つめながら、少年もささやき返した。
「僕もお前が大好きだよ」
「おはよう、今日も綺麗だね」
「……恥ずかしいわねぇ」
「そう?」
きらきらと雫が散る。ぱらぱらと言葉の降る。
少年の吐く息は少し白くなっていた。
「最近、お日様を長く浴びられなくてつまらないわ」
「もうすぐ、冬だからね。……お前、寒いのは平気」
「分からないわ……。あたし、今年一年きりしか生えていられないから。冬を越したことなんて、ないし」
少年は、じょうろを取り落としそうになりながら固まった。
「……どうかしたの」
「いや。……なんでもないよ」
「そう。なら、いいのだけど」
ふふ、と軽やかに笑う声が胸をかきむしる。少年はじ ょうろを片付けるふりをしながら、激しく鼓動する心臓を落ち着けようと必死だった。
いなくなる。もうすぐ、球根の中の彼女はいなくなってしまう。咲いて散って枯れたらそれでおしまい。考えてみれば当たり前のことだ。よほど大きな木でもない限り、植物の寿命は人間より短いのだから。
(種は……種をとって、撒いて、また育てたら……)
駄目だ。それは彼女の子供かもしれないが、彼女そのものではない。彼女は本当に世界のどこにもいなくなってしまう。枯れ朽ちて、どこかへ消えて逝ってしまうのだ。
少年は、いつかのように目と鼻の奥がじんと熱くなるのを感じた。同時に、自分が彼女をどう思っているのかも悟ってしまった。
彼女は、親友でも兄弟の代わりでもなくなって いた。
「あたし、もうすぐ咲けるわよ」
嬉しげに歌うように、声は言った。少年は、指で優しく蕾の部分をなぞりながら尋ねる。
「寒くないかい」
「平気。ストーブってすごいのねぇ」
少年の部屋は暖かく保たれていたから、球根は霜枯れせずにすんでいた。でも、と少年は表情を曇らせる。
もし、花が咲き切ってしまったら。温度なんか関係なく、花の命の終わりが来てしまったら。
「……あら、あらあら、ねえ、どうして泣いてるの」
は、と気づくと、少年の頬を伝う雫が、じょうろの水のようにきらきらと球根の上へ降り注いでいた。
「……お前が枯れたらと思うと悲しくて」
少年の震え声とは対照的に、球根はひどく落ち着いた声で言った。
「仕方ないわ。人だ っていつかは死ぬでしょう。同じことよ。時間が違うだけで、あたしたちは同じ場所へ行くのよ」
まるで母親と小さな子供みたいだ。思わず少年が頬を赤らめながらうつむくと、球根がくすくすと笑う気配がした。
「あたしってば幸せねぇ。人より短い命なのに、並みの人の何倍も貴方に好かれてる気がするわ」
「気じゃなくて本当だもの。僕はお前が大好きなんだよ」
「……ねぇ、大好きって、どれくらい?」
少し熱っぽい声が、少年の鼓膜をさわさわと揺さぶった。少年は熱に浮かされたように答える。
「お前が人間だったら、結婚したいくらい」
「……ずっといっしょにいたいくらい?」
「出来るなら」
「あたしのためなら何でもできる? あたしが、もし枯れずにいる方法があるとしたら?」
「あるのかい、そんな方法が」
少年は、思わず大きな声で球根に尋ねた。球根は、ささやくように少年に告げる。
「蕾にキスをして。あたしを愛してると言って。神様に、命に誓いを立てて」
周りの景色が一斉に色あせたようだった。少年の耳には、自分の鼓動と球根の息遣いだけが聞こえていた。
ひゅ、と吸い込んだ息が冷たい。最愛の花を生き延びさせるための魔法の呪文を唱える準備。
「……神に誓って。お前を一生愛してる」
ふるり、と、茎が、葉が、歓喜に震える。そっと指先を根元から蕾まで滑らせると、球根が小さく息を漏らした。蕾が、揺れる。
あの、冷たく甘い怪しい匂いが、少年の鼻腔を深く突き刺した。燃えるような夕日が、少年の涙で 満ちた両の瞳を赤く燃やす。
昼と夜の境、黄泉が近づく境目のちょうどその時。
少年は、甘い香りの源に、そっと口づけた。
その晩、夕食に降りてこない息子を怪訝に思って部屋まで探しに来た母親は、彼が冷たくなって床に突っ伏しているところを見つけることになる。
あたりには大量の赤い花びらがまるで血潮のように吹き溜まっていたが、不思議なことに、彼が大切にしていた球根から咲いた花は散った様子もなく、ふっくらと赤い花弁をストーブの暖かい風に揺らしていた。
駆け寄った母親が少年を抱き起した刹那、少年の唇からは強い花の香りがしたという。