夏の始まり
僕が小学五年生の夏、百合は施設にやってきた。
施設には、親から虐待を受けたこどもや、事情があって親と離れて暮らすこどもがたくさんいる。
百合を初めて見た時、そのどちらかは一目瞭然だった。
泣き腫らしたように腫れた目元。
口は殴られた時に切れたのか、小声で話すだけでも痛そうだった。
服装は小学校の制服。制服こそ、あまり汚れてはいないものの、傷だらけのランドセルは顔の傷同様、見ているだけで痛々しかった。
かわいそうと言うより、またかと言う感じ。
今でこそ笑ってじゃれあっている子どもたちの中にも、あんな顔をして、施設にやってきた子が何人もいた。
中には、声が出せず、話ができない子や、ほんの少しごはんをこぼしただけで、震え上がって泣き出してしまう子もいた。
要するに、施設ではいつものことだ。
こんな光景は幾度となく目にしてきた。物珍しくもない。
なのに、なぜか目が離せなかった。
胸元くらいまである、細くてやわらかそうな黒髪が玄関から入って
くる風になびいて、白く透き通った肌が見えた。
園長先生が話しかけても、聞いているのか、いないのか、彼女は、終始俯き加減で、たまに頷く程度だった。
園長先生もそんな子には慣れているので、早々に話を切り上げ、彼女に靴箱の場所を教えた。
少し強めの風が、靴を脱ごうと屈んだ彼女の頬をかすめ、彼女が髪を耳にかけた時、目が合った。
その時僕は、ふと我に返り、とても恥ずかしい気持ちになった。
僕は彼女にずっと見とれていたのだ。
こんなことは初めてだった。
「あら。周くん、ちょうどいいところに来てくれたわ。ちょっとこっちに来てちょうだい。」
すぐにでも逃げ出したい。
そんな有り触れた感情ではなかった。表現しようのない、矛盾と理屈が僕を自然と追い詰めた。
「周くん、早くー。」
一瞬揺れた様に感じた世界は間違いなく彼女が連れてきた夏のはじまりだった。
園長先生に呼ばれた僕は、三つの紙袋のうちの二つを渡された。
一つは体操服や上履き、後は底の方に教科書の様な本が見えた。
もう一つはとにかく重たかった。
奥底に隠れた分厚い本が、この重みの原因であることは間違いなかったが、彼女のほんの少しの私物が表紙を覆い隠していたので、何の本であるかはわからなかった。
教科書は最初の袋に入っていたし、小学生が学校で使うような重さの本ではなかったので、とても気になったが、出会ったばかりの知らない女の子の持ち物を詮索したくはなかったので、紙袋の中身からは視線を逸らした。
「じゃあ、これ、よろしくね。ほんとっ、周くんがいいところに来てくれて助かったわ。百合ちゃん、この子はね、藤島周平くん。
ちょっと人見知りで照れ屋さんだけど、優しい子だから、何でも聞いてね。」
彼女が少し、僕の方に視線を向けたので、僕もあえて、彼女に視線を合わせた。
ここで視線を逸らして、恥ずかしがっていると思われることが、何より恥ずかしかった。
それでも、すぐに限界がやってきた。
初めて間近で見た彼女の目はとても綺麗だった。
彼女の目は、僕の中の数少ない優しい記憶を呼び起こした。
この施設に行くことが決まり、園長先生が迎えに来た日、施設に向かう途中で、僕は初めて海を見た。
「周平君は、海を見るのは初めて?」
僕は小さく頷いた。
「そう。とっても綺麗でしょう?あそこに船が見えるよ。ほらっ、あそこ。」
水面が輝く海も、その海を渡る船も、何もなかった僕の世界に広がる地図のように思えた。
ゴミの散乱した小さな部屋のことも、一滴の水の出ない水道管のことも、太陽の光の入らない窓のことも全て忘れられた。
そんな一時だった。
彼女の目が、僕にこの時の記憶に結び付いたのは、きっと、その時、僕のことをじっと見つめていた園長先生の目に似ていたからだと思う。
もちろん、二人の表情は全く違う。
優しく暖かな笑顔の園長先生と、時に目を逸らし、時に視線が刺さりそうなくらい僕を見つめる彼女。
でも、僕は確かに、あの時と同じものを感じた。
「じゃあね、後は周くんに任せるから、よろしくね。私は今から夕飯の支度だから。」
そう言って、園長先生はその場から立ち去った。
園長先生は大人に嫌悪感を示す子どもに、無理に近づこうとはしない。程よく距離をとって、この園に少しでも早く馴染める様に園の子たちと接する機会を設ける。
この気遣いが、ここで暮らす子どもたちの笑顔に結び付いているのだと思う度に、優しい気持ちになれる。
園長先生が、どうして僕らと過ごす人生を選んだのかは、他の先生も誰も知らないし、ここに来て、しばらく経った頃、一度聞いたことがあるけど、その時もはっきりとは答えてくれなかった。
また今度聞けばいいと思った僕は、その時、それ以上何も聞かなかった。
でも、六十も過ぎ、少しずつ老いていく園長先生を見るとたまにとてつもない不安に駆られることがある。
少し小さくなった気がする背中も、前より少し増えたしわもその不安をより一層駆り立てた。
僕は不安になる度、早く大人になりたいと思った。
毎日、太陽が昇って、沈んで夜になる。朝は鳥のさえずりが聞こえるけれど、夜はこの世に存在しているのは僕だけなんじゃないかと思うくらい静かだった。
でも、おなかがすいて、喉が渇いて、水が出ない蛇口の代わりに涙が出て、開かない気配のないドアの前で、あの人が帰ってくるのを待つ。
それだけが、朝も夜も変わらない僕の世界の全てだった。
そんな世界から、僕を連れ出してくれた人を失う怖さは、永遠に明けない夜に等しいものだった。
「行こうか。部屋、こっちだよ。」
僕は彼女の紙袋を両手に抱えて、部屋に案内した。彼女は、ただ黙って、僕について来た。
「ここが君の部屋。」
広くて殺風景な部屋は少し埃っぽくて、オレンジの夕空だけが、僕と彼女の沈黙を照らしていた。
ふと、彼女の方に視線をやると、部屋の片隅に畳んである服や、その服の山にもたれ掛かっているうさぎのぬいぐるみを見つめていた。
「じゃあ、また晩御飯の時、呼びに来るから。」
そう言って、僕は部屋を出た。あの沈黙を破るに相応しい言葉も、彼女にかける言葉も何もうかばなかったのだ。
そんな自分の情けなさに打ちひしがれていたのはほんの一瞬のことで、すぐに色んなことが、脳裏を駆け巡った。
トイレの場所も、布団が入っている場所も何も教えてあげていない。
それより前に、慣れないこんな山奥に来て疲れているはずなのだから、飲み物でも持って行ってあげるべきだった。
いや、そんなことより、あの状況で一人にするべきじゃなかった。
部屋から出て二分と経たない間に、ここ二、三カ月分くらいの後悔をした。
慌てて彼女の部屋に戻り、ドアを開けると、彼女が着替え終わった直後だった。
「ごめんっ。」
僕が慌ててドアを閉めると、すぐに彼女がドアを開けてくれた。
「大丈夫。もう着替えたから。今度からノックぐらいしてね。」
ドアの前に立ち尽くす僕を見た彼女はクスっと笑った後、少し痛そうな顔をした。
口元の傷が沁みるのだろう。
「呼びに来てくれたの?随分早い晩御飯ね。」
彼女はまたクスっと笑った。
彼女が僕に微笑んでくれることが、なぜかとても嬉しかった。
「いや、あのっ、晩御飯は、、まだなんだけど。」
僕と同じ口下手で、おとなしい感じの子と思っていた彼女は、意外にもはっきりした口調の女の子で、言いたいことがあるのに、すぐに言葉にできない僕の口下手が浮き彫りになった。
「ありがと。」
僕が言いたい言葉の切れ端を探していると、彼女が僕に言った。
「私のために、戻ってきてくれたんでしょ?」
「うん、まぁ。」
彼女はまた微笑んだ。その微笑みに僕は釘づけになり、全てを見透かされている気分になった。
「口、痛くない?絆創膏あるけど。」
僕はポケットに入っていた、少し折り曲がった絆創膏を彼女に差し出した。
「ありがとう。これぐらい大したことないけど、あんまり人に見せるものじゃないしね。」
彼女は絆創膏をパッと貼ると、悲しく笑った。
返す言葉に戸惑い、立ち尽くすことしかできない僕は夕焼けにキラキラと照らさて舞う埃と同じぐらい無意味な存在に思えた。
「ねぇ、どうしていなくなったの?この子。」
彼女はくたくたのうさぎの手足をばたつかせて見せた。
「その子、うちに来た時からあんまり御飯食べれなくて。
先生たちもその子が元気になる様に、色々したみたいなんだけど、やっぱり食べれなくて、この間、入院したんだ。
うちに来るまでは一口も口にしたくないって感じだったんだけど、倒れる少し前はちょっとだけど、自分で食べる練習とかできるまでになって。
園長先生、もう少し早くうちに連れて来てあげれてたらって、すごく悔しそうだった。」
「それ、多分、拒食症。」
彼女は自分の荷物が入った紙袋の中から、一番分厚い本を取り出しながら言った。
僕が気になっていた本だと思った。
彼女はその分厚い本を手慣れた手つきで、パラパラと捲る。
「きょしょくしょう?って何?」
僕が尋ねると、彼女は窓際に腰を掛け、窓を開けた。
その瞬間入ってきた、生温くて優しい風は、埃っぽくて閉塞的なこの部屋を蘇らせる息吹の様だった。
風にページを捲られた本を彼女は愛おしそうに見つめていた。
風が止み、いつしかオレンジの空は淡いブルーのグラデーションを築いていた。
「拒食症って言うのはね、心の病気なの。
御飯が食べられなくなったり、見ると気分が悪くなったり。でも、それは、食べ物が悪い訳でも、その子がわざと食べない訳でもなくて、食べようとしても、体が受けつけないの。
で、その理由は、悩みだったり、ストレスが原因だったり、心の病気だから、誰かが何かをしてあげたら必ずよくなるって訳じゃないの。」
彼女は本をたまに見るぐらいで、内容はもうほとんど頭に入っている様だった。
僕はますます彼女の本に興味が湧いた。
「ねぇ、その本、病気のことがたくさん載ってるの?
ちょっと見せて!」
「いいけど、読んでもわかんないと思うよ。」
僕は馬鹿にされた気がして、ちょっとムッとした。
仮にも、同じ五年生だし、漢字はむしろ得意だった。
でも、僕がその自信を失うまでに必要なページは、最初の一ぺージ、いや、最初の半ページで十分だった。
「これ、全部読めるの?」
彼女が読んでいたのは、医学を志す大学生か、はたまた医者が読む様な、医学用語の塊だった。
幼いながらに度胆を抜かれたあの時のことは、今でも鮮明に覚えている。
「全部って訳じゃないけど、わかんない漢字はこっちで調べるから。」
そう言って彼女は薄汚れたもう一冊の分厚い本を嬉しそうに見せた。
「この二冊はね、私の宝物なの。
家追い出された時、歩いてたら、捨ててあるの、たまたま見つけたんだ。
こんなの持ち帰ったら、何されるかわかんないから、秘密の場所にずっと隠してたの。
これ読んでると、時間経つの早いんだよね。」
何度も読み返したであろう二冊の本に向ける彼女の目は、いつか見たあの海の水面の様に美しかった。
「私ね、医者になるの。
私みたいに顔に傷がある子も、その子みたいに心の病気で苦しんでる子も、私が治す。絶対。
周くんは何になりたいの?」
僕は何も答えられなかった。
日が沈む。
淡いブルーの向こう側は、もう夜に染まっていた。




