おくさまはこうさぎ。 1
小ウサギがあったかい毛皮にくるまれてもぞもぞと動きます。
「おはよう、お嬢ちゃん」
こしこしと目をこする小ウサギに、とっても優しい声が降り注いできました。そしてねぼけまなこな顔をぺろりとなめてくるのは、大きなおおかみです。
小ウサギはそんなおおかみに、まだ半分寝ぼけた様子でぽわぽわっと笑いかけます。
おおかみはその笑顔を見て幸せそうに目尻を下げました。
そう、なんとこの小ウサギプリムラとおおかみラグラスは夫婦なのです!
そんなとっても幸せな朝のひとときを過ごす二匹ではありますが、実はこの日はとっても大変な日なのです。
今日この日、ラグラスはプリムラと過ごすこの大切な毎日を守るため、疎遠になりかけている群へ向かい、一匹狼として生きていくことを宣言しに行くのですから。
ラグラスはプリムラに微笑みかけながら今日しなければならないことを思い、胸の中で決意を新たにします。
自分との生活のために、それまでの生活を捨ててくれたプリムラ。そんな愛するプリムラと生きていくためなら、何よりも大切にしていた群でさえ、去ることを辛いとは思いません。
群との決別です。
ですが、ラグラスはそれが簡単なことではないことも重々承知していました。ラグラスは群ではかなり大きな影響力があるため、群の方がラグラスを簡単に手放すわけがないのです。
それでも……!!
お嬢ちゃん、俺はがんばるぜ!!
ラグラスは気を引き締め、その誓いを更に確かなものにしようと愛する小ウサギさんに目を向けました。
目の前で、愛する小ウサギさんは、大きなニンジンをかかえるようにしてぽりぽりと食べ始めています。
その瞬間、全ての理性は吹っ飛びました。
……か、かわいいじゃないかっ、お嬢ちゃん……!!
そのあんまりにもな愛らしさに、ラグラスの引き締まった顔は一瞬にして崩れ、抱きしめたい衝動に駆られたぐらいです。
しかし、理性は飛んでいてもそこは何とかぐっとこらえます。そんな事をしたらプリムラの食事の邪魔になってしまって、とってもかわいそうです。
今日も、小ウサギさんにラブラブパワー全開なおおかみさんなのでありました。
そんなこんなで、とっても緊張感にあふれた一日が始まろうとしていたのでした。
さて、そんな、状況的にだけなら緊張感にあふれつつも、心情的には非常に幸せな時間を過ごしている真っ最中のこと。
タッタッタ……
地を駆ける音がします。
ぴくんとラグラスの鋭い聴覚が遠くから響くその小さな足音をとらえました。耳を澄ましてその音に注意を払っていると、だんだん近づいて来るその足音は巣の前でぴたりと止まりました。そして荒い息の音が聞こえてきます。
ラグラスは、途中からその足音の主に気付いていました。
……随分急いで来たな。
どうしたことだと思いながら、ちらりとプリムラに目を向けると、まだプリムラはニンジンと格闘中でした。ラグラスはさりげなくその場を離れ、外へと出ていきました。
「……どうしたんだ?」
「……緊急事態よ」
巣の外で荒い息を繰り返していたその主は、出てきたラグラスを確認すると、ようやく息を整えて呟きました。
そう、やって来たのはラグラスの仲間であり、理解者でもあるメスおおかみのベロニカです。
彼女はとっても深刻な顔をしてラグラスに詰め寄りました。
「……プリムラのことが、ばれたわ」
何ということでしょう!
その低く呟かれたベロニカの声はひどく動揺しているのが判ります。ラグラスはその短い言葉の意味するところを瞬時に読みとり、一瞬言葉を失いました。
「逃げるなら、手を貸すわ」
ひどく切羽詰まったベロニカの声に、ラグラスは群の状況までも把握することができました。
これはとんでもなく大変な事態です。
そう、おおかみがうさぎと夫婦などという事に、群のおおかみたちは良い感情など抱いていないのです。つまり、プリムラの身が危険なのです。
このまま、この地を離れるべきか……。
ラグラスは一瞬のうちに、ありとあらゆる可能性と移すべき行動の選択肢を考え、そして決断しかねて頭を軽く振りました。
どうするべきか……。わずかな時間で判断するには難しいこの状況に、ラグラスはそっと巣の中に目をやり、プリムラの様子をうかがいました。
巣の中で、プリムラは(まだ)ぽりぽりとニンジンを食べています。もうそろそろ葉っぱの辺りまでさしかかろうとしていました。
ラグラスは切羽詰まったこの状況の中、頭の片隅でぼんやりと、プリムラのお食事タイムは終わりに近づいているなぁ、と思いました。ラグラスの頭の中は既に、逃走計画ではなく、プリムラが食べ終わったら抱きしめることができる……ということでいっぱいした。
葉っぱだけ残ったニンジンを見て「どうしようかな?」とでも言うように首を傾げるプリムラ。どうやら真剣に悩んでいます。
ともあれ、そんなプリムラの姿に、ラグラスの心は決まりました。
「……ベロニカ、力を貸してくれ」
断腸の思いでプリムラから目を背けると、ラグラスはベロニカを振り返り言いました。
真剣な表情のラグラスに、ベロニカは強ばった表情で頷きます。
ですが、ベロニカが聞いた言葉は、想像だにしなかった思いがけないことでした。
「……俺は、プリムラを仲間に会わせようと思う」
「……なんですって?!」
ベロニカは自分の聞いた言葉が信じられず、思わず叫びました。驚愕と動揺を隠しきれずに、ベロニカはラグラスを見ます。
「あなた、一体何を考えているの……!!」
ベロニカの声が震えました。それでは、プリムラを死なせると言っているも同じです。
いくらラグラスが強いからといって、いくらベロニカが手助けをするからといって、たったの二匹では群の中にあってプリムラを守りきれるはずがありません。
「……正気なの?!」
ベロニカの責めるようなその呟きは怒りを含んでいました。
ラグラスは、真剣だった表情をふっと和らげると、頷きました。
「あぁ。……何か、……大丈夫な気がする……」
ラグラスはちょっと遠い目をして呟きました。
その視線の先にはプリムラ。
頭の中は、プリムラと出会った遠いあの日にすっ飛んでいます。
「……何をバカなことを言っているの……っ」
ベロニカは呟きながら、ラグラスと一緒にプリムラを見つめます。
ベロニカのプレゼントしたニンジンを食べ終えて満足そうなプリムラ。
どうやら悩んだ挙げ句、葉っぱまで食べたようです。小ウサギさんはお腹いっぱい、幸せいっぱいという表情です。
なんてかわいい子なの……。こんな可愛いプリムラを文字通りおおかみの群に放り込むなんて、私には……っ
ベロニカが苦悩しながら見つめる先で、プリムラがベロニカの存在にようやく気付きました。プリムラの顔がパアッと笑顔に輝き、うれしそうに自分に向かってはねて来るではありませんか。
満面の笑顔で自分に向かってぴょこぴょことはねてくる姿。
……らぶりーかも。
目の前までやって来たプリムラが「おはようございます!」と元気にあいさつをして、ちょこっと小さく首を傾げる姿を見ながら感じる、この得も言えぬ幸福感。
ベロニカも何だか大丈夫な気がしてきたのでした……。
つづく。