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bloodshot【推しのアイドルは吸血鬼!?】

作者: すずき
掲載日:2026/03/31

 初めて目が合ったのはテレビの画面だった。

 平日の昼間に放送されているその番組は、夜に収録されたものらしい。

「アイドルですか? 楽しいですよ……自分がこんなにも、たくさんの方に興味を持っていただけるなんて、ね」

 そう笑っていた彼に、私は恋心にも似た感情を抱いた。

 公式プロフィールでは二十代前半とうたっているが、その艶やかな色気は若者のそれではない。西洋ルーツの明るい髪と王子様然とした見た目。

 ドイツ出身らしいが日本語はネイティブのそれと遜色なく、日本語の美しさまで理解している。

 珍しいソロアイドル。一人でもアリーナを埋められるくらいの人気者。

 これが私の最推し、エリアスくんである。

 ファンに対してもいつも敬語。テレビで見る姿も、ライブでのトークもいつも敬語。紳士的な話し方に、現代の王子様として人気をどんどん高めていった。


 そんなエリアスくんだが、決まってライブは日が沈んでからで、テレビの収録だも夜しか参加しないらしい。抜けるように白い肌をしていたから、吸血鬼みたい、といつのまにか揶揄され始めた。


 イソスタライブでは、その美肌と美白の秘密は、マメなクリニック通いと食べ物だと言っていた。

 アイドル界隈だけじゃなく美容界隈でも話題になる男。アリーナの二階席から、彼はダイヤモンドみたいに輝いて見えた。


 一度だけ、メジャーデビュー決定記念、と言う事で握手会の抽選に当たって、手が届く距離でエリアスくんに会ったことがある。


「吸血鬼みたい? 僕に血を吸ってほしいって?」

 揶揄されるうちに吸血鬼キャラも定着しつつあった。

 血を吸って、首をお願い、なんて下心見え見えの下衆なコメントに嫌な顔をすることなく笑って答えている。

「襲われたいなんて、悪い子たちですね」

 食べちゃいますよ、なんてエリアスくんがファンサービスをすると、女性ファンは黄色い声で叫んだ。

「こわーい! けどかっこいー!」

 ははは、と笑いながら答えていたエリアスくんの顔を、列に並びながらずっと見ていた。

 整った顔と、白い肌。照明に照らされる金髪。

 自分の番が来た。いざ目の前に最推しが現れて、私の息は止まってしまった。


 その瞳に時が止まったような、止められたような感覚。


 その感覚に音を失った世界から私を引き戻したのはエリアスくんの声だった。

「怖くなってしまわれましたか?」

 流暢な日本語。

 見た目は西洋人なのに、もうずっと日本語を喋っていたみたいにイントネーションに違和感のない言葉。

「あ、いえ」

 しっかりしろ私。たった数秒の時間を無駄にするな。気の利いた応援とかを考えてたのに全部飛んだ。

 エリアスくんのビジュが良すぎるだけじゃない。

 かけられた声が優しくて、目の前にしたその顔が、慈しむ表情だったから。


「エリアスくんなら、なんだって怖くないです」


 それしか言えなかった。

 その目が大きく見開かれたの見ると同時に、お時間です、とすぐにスタッフに剥がされてしまった。

 握手はできなかった。

「あ」

 ぼーっとしてた私が悪い。

 目が合ってる間に、せめもう一言。

 高鳴る心臓を吐き出さないように、彼に。


「私の血はあげられないんですけど、ね」


 最後にその言葉だけ届けて、笑った。

 驚く顔をしていたエリアスくんは、すぐに私の後ろに並んでいたファンの人に笑顔を向ける。


 短い時間だったけど満足だ。最推しを間近に見れた。

 夕方から始まった握手会は、私がビルを出る頃はもう夜になっていた。

 応援の言葉をもっと言いたかった。

 悔いが残ったのは残念だ。私のモットーは後悔しない日々を過ごすことなのに。


 後悔しない日々を。

 新しい日々を。

 大学は卒業できないと思って入学しなかった。アルバイトをしながら推し事をしつつそうしてフリーターライフを謳歌していた。

 ビルの広告に映るエリアスくんは今日も美しい。

 彼を知ってから、その美しい見た目と少しミステリアスな内面にメロつきっぱなしだ。

 大学に行っていないとはいえ学ぶことは好きだった。

 今まで旅行経験などなかったこともあって、海外に憧れがあった。思い切って、いつかしたいと思っていた語学は、彼の祖国に決めた。

 アルバイト代でホームステイを申し込んだと親に言うと、危ないじゃないかと反対されたけれど、やがて私の熱意に押し負けて泣きながら見送ることを決めてくれた。


 家のテレビの中でエリアスくんが喋っている。

「今度お休みを頂いたので、少々身内で集まる予定なんです」



「レナ!」

 空港で呼ばれた自分の名前は、いつもと違うイントネーションだった。見れば手を振ってくれる品の良さそうなグレイヘアの男性がいる。迎えに来てくれたホストファミリーとなる家の父親。ホストファザーのその男性は、映画俳優のような見目をしていた。


玲那れなです」


 名乗ってそれから、持ってきたハンドブックを頼りに挨拶をする。

 海外に憧れがあった──とはいえ喋れるわけじゃない。私のぎこちない言葉に、心配しないでと彼は言ったようだった。

「異国から来た家族を迎えるのは久しぶりなんだ、一緒に楽しく過ごそうね」

 そんな感じだろうことを言うと、私を車に乗せて家に連れて行ってくれた。

 飛行機が着いたのは現地時間で夕方だった。


 車窓から見えるドイツのお伽話の挿絵のような良さの残る現代の街並みに私の胸は期待に膨らんだ。歩いてる人たちも雑誌から切り抜かれたみたいにお洒落だ。

 空が暗くなり始めた時に着いた家は町外れの大きい家で、古いが良く整備されているようだった。綺麗な薔薇が玄関先にも咲いている、イメージしていた通りの西洋の家だった。

「あなたがレナね! 待っていたわ!」

 出迎えてくれたのは美しい奥様だった。年齢は不詳。ホストマザーなんてやるくらいだし、私のお母さんくらい? 艶のある白い肌は陶器みたいだ。

「この家にいる間は私たちの子供よ」

 さあ入って、お腹は空いてるでしょう?

 そう言われて中に入り、私はテーブルいっぱいに用意されたご馳走に舌鼓を打った。


 昼間の語学学校は他にアジア人もいて居心地は悪くなかった。ホームステイ先の生活は最高だった。

 迎えてくれたご夫妻はは学校終わりの日没後でも、私を色んなところに連れて行ってくれた。一人で見た教科書の写真に映っていたベルリンの壁。残った一部にはギャラリーのように絵が描かれていて、そこに日本語のアートもあることに驚いた。

 食事も美味しいし、目にするものは全て新鮮で汚いものさえ美しい。

 ディナータイムには二人がたくさん喋りかけてくれた。少食なのか、食卓の料理は私が食べるばっかりだったけれど、食べる私を見て二人は嬉しそうだった。

 そうして過ごすうちに、ある程度の会話ならハンドブックはいらなくなった。


 最高の数日間だ。

 推しがここまで私を連れてきてくれた。いくらやりたいことはやっていきたい派とはいえ、彼がいなきゃここまで踏み出せなかった。

 ただ、ここには推しはいない。


 学校が早めに終わって日が沈む前の空の下。私はアイアンテーブルのセットに座って目の前のそれに重い溜息を吐く。

「はあ……」

 薔薇の咲く庭で甘い匂いと推しからしか吸えない栄養を吸い込んでいる。エリアスくんの写真集だ。

 街を歩きながら、彼がドイツの街並みにいる姿を想像していた。美しい姿、美しい街。

 家の中に入るとホストマザーが起きてきたところだった。彼らはいつも夜遅くまで起きているみたいで、昼は寝ていることが多い。

「あら、エリアスを知ってるの?」

 私の手元の写真集を見つけると、ドイツ語で話しかけられる。

「彼は日本でアイドルをしてます」

「ああ、そうね、そんなことを聞いていたわ」

 私の拙い言葉に、少し眠そうに頷いた奥様の言葉に引っかかった。

「知ってるんですか!?」

 少し大きな声になってしまった。それでも気分を害した様子もなく答えてくれる。

「彼は私たちの身内よ」


 ひゅっ、と息を呑んだ。

 身内?

 お美しいご夫婦だー……と思ってたけど、エリアスくんの身内?

 こんな美しい血筋ある!?


 固まった私と目の前のホストマザーの横から、今起きてきた様子でホストファザーが現れた。

「なんだい?」

 二人は寝起きとはいえ品の良い服を着ていて、顔は美術品みたいに美しい。

「レナはエリアスのファンみたい」

 会話を気にするホストファザーに、彼女が説明をした。

「そうかい、それなら喜んでもらえるかもしれないね」

 喜ぶ?

 意味が分からなくて聞き間違いかと思った。

 固まる私に、ホストファザーは嬉しそうに語った。


「身内での集まりにエリアスが来て歌うんだよ。きみももちろん誘う予定だったけど、喜んでもらえそうで良かった」


 嘘でしょ。

 そんな至福があるなんて。


 頑張ってここまで生きてきて良かった。

 泣き出した私に、二人は顔を見合わせた。



 やけに肌が見えるドレスだった。

「セクシーよ! 似合うわ!」

「本当ですか?」

 ホストマザーはオフショルダーのドレスを私に着せると、髪をアップスタイルに整えた私を見て手を叩いた。

「ええもう、とっても素晴らしいわ」

 鏡の前に私だけを立たせると、少し離れたところから俯きがちな私を見た。

 ドレスの色は鮮やかな赤で、顎から伝わる首と肩のラインが顕になってて落ち着かない。髪も上げた方が邪魔にならなくていいわよと言われたから上げたけど、いっそう顔が大きく見える気がして恥ずかしい。

「恥ずかしがることないわ」

 鏡の中の私と、その外に立つ私を見てホストマザーは微笑んだ。彼女も美しく着飾っていて、ドレスを着たその姿はまるで女王のような風格があった。


「あなたと同じように、ホームステイで来てる子も来るわよ。安心して」

 このホストファミリーの身内は、どうやら度々私のような短期留学生を受け入れているらしい。

「島国の日本人はなかなか手に入らないから大好きなの」

 珍しいということか?

 それはどうも、と意味も分からず笑った。

 それからホストファザーのノックの音が飛び込んできて、ボウタイを締めた彼の運転でパーティー会場となる場所に向かった。

「さあ、宴に行こうか」


 本当にエリアスくんが来るのだろうか。

 今夜の月の色は、エリアスくんの髪の色と同じだった。



 洋館というにはお城みたいで、お城というには少し小さい場所だった。中は薄暗い。結婚式場のホールみたい、と思ったが人が祈りをイメージするような聖なるものは置かれていない。むしろ正反対。墓地に近い雰囲気すらある、祈りから突き離れた場所。

 全体的に薄暗い空間が、続々と現れる客人たちの肌の白さを引き立てている。


 ホールの中央にはステージがあった。その先は黒だか赤だかベルベットだか、重たい色の幕が垂れており見えない。

「こっちに座りましょう」

 島のように置かれたテーブルの一つに、ご夫妻と座る。テーブルの上には空いたグラスが椅子の数だけあった。

 座った途端にスタッフなような男性がグラスに手を伸ばしてきた。その手には、ワインボトルのような物がある。その手をホストマザーが制した。

「……私たちは、まだいいわ」

 ちょっと残念。ワイン、飲んでみたかった。

 ホストファザーも頷いている。

 その様子にサービスの男性は一礼して席から消えていった。

「あとでとびきり美味しいものを飲むから、ね」

 とても綺麗な、ホストマザーの瞳に、頷きを強制されたような気になる。

「それは楽しみです」

 残念だな、という気持ちを期待で上書きする。どのみち今は緊張で味が分かりそうにないから。

 そんな私を見て二人が頷いた。

 これからご馳走やらお酒やらは後から出てくるのだろう。なら、今は。


 ホストマザーの指先がステージを指し示した。

「さあ、レナ。もうすぐ始まるわ」

 幕が上がったのは、その声とほぼ同時だった。


 脚光スポットライトは一筋、一人分。

 強過ぎない白い光。日本でも、そうだった。

 彼のための照明は、いつもどこか柔らかい。


「エリアスくん」

 そこに立つのは、世界一美しい顔。

 私の最推し、エリアスくん。

 薄暗い空間でタキシードを纏いスポットライトに照らされる姿は、人間離れした美しさがあった。


「お久しぶりです」

 この国の言葉でそう言った。

 異国の地で聞く彼の声は、どこか浮世離れさえしているように思える。

 ルーツはこの国だという情報通り、発音は綺麗だった。というか日本語も流暢なの、改めてすごいな。

 どの席もしんと静まりかえり、ステージを見ている。


「今は日本で歌を生業にしていることから、一族の皆様に興添えるべく……」

 私も釘付けだ。

 同じ空間にいられるなんて、夢みたい。

「私、エリアス──……」

 その美しい声が止まった。

 目が合ったと思った。見開かれた目は、光を反射して輝いている。

 目が合った。本当に?


「……皆様にとりましても懐かしき、美しい祖国の調べを歌い上げようと……」

 息を呑んだその瞬間、エリアスくんの顔が動いた。

 目が合った、と思ったのは気のせいだったのかもしれない。客席なんか暗くて見えないはずだ。

 まあもしかしたら、日本人が異質だから目についたのかもしれないけれど──……とにかく。


 私が聞き取れない流暢な声が流れてそれから、エリアスくんは歌い出した。

 高らかに。

 それは異国の言葉で、歌詞の意味は何一つ分からなかったけれど、とても美しいメロディーの歌だった。



「では皆様、しばしご歓談をお楽しみください」

 そう言ってエリアスくんはステージ脇に消えてしまった。


 どうやら余興、ステージの出し物はこれで一旦しまいらしい。この後は何があるのか、どうすればよいのか、検討もつかない。身内の集まりと言っていたから親睦を深める目的なのだろう。

 私を連れてきてくれたホストファザーは、卿、なんて付けられて周りの人に呼ばれて話し始めた。

 まるで漫画で見た中世貴族の世界みたい。

 話し始めたご夫妻は、会場内を見ているといいよ、と私に言った。

「会場の外には出ないように。夜は危ないからね」

 まあそれはそうだ。

 壁際の会場内を見渡せるところにバーカウンターがあったので、そこに体を預けて会場内を見渡す。

 皆一様に華やかに着飾っている。身内と言っていただけあって、皆抜けるように肌は白い。数十人の肌の白い人々の中に、チラホラとそうではない若い子女もいた。その子たちが私のような留学生なのだろう。それぞれのホストファミリーと思われる人たちの周辺で話したりしているようだった。アジア人はいたが、日本人は私だけみたいだ。


 私もこういう機会にもっと積極的に話して語学力を高めた方がいいのだろう。とはいえ今は余韻に浸りたい。

 美しかった、エリアスくんの歌声。

 異国の地で聞く知らない調べのその歌は幻想的でさえあった。こんな近くで聴けるなんて。


 彼のことを考えたせいか、慣れない雰囲気のせいか、喉が乾いてきた。

 バーカウンターでは、肌の白い若い男性がサービスをしている。

「私にも、いただけますか?」

 彼は私を見て驚いたような顔をした。

 発音は間違っていないはずだから、日本人がいることに驚いたのだろう。私から視線を外すと周囲に視線を投げた。

 その様子から推察するに、保護者がいないかを確認しているといったところか。

 日本人は若く見えるとよく言われるが、もう成人してる一端いっぱしの大人だ。

 息を吸い込んで、改めて彼に声を通す。

「ください。成人してます」

 真っ直ぐ目を見ると、彼は肩をすくめる仕草をしてからグラスを取った。

 ドリンクの名前も言わなかったし、何も聞かれなかったけれどとりあえず何か作ってくれるのだろう。

 視線を外して会場内を見渡す。数人と目が合う。どの人も美男美女で少し気後れする。ホストファミリーを見ると、まだ他の人たちと喋っていた。


「どうぞ」

 低い声と共にグラスが置かれた。

 バーカウンターのささやかな照明に照らされる、カクテルグラスの中の赤い液体。

 光に透けて表面は赤か見えたが、いざ手元に寄越されたそれは黒に近かった。

 実はお酒を飲んだことがあまりない。だからなんのドリンクなのか分からない。カシス系?


 とりあえず。

「エリアスくんのエロがりが過ぎたから飲んで一息……」


「エロがり? 知らない言葉です」

 日本語。

 不意に横から聞こえたその声に、口元まで運んだグラスが止まった。


「いろんな国の言葉を覚えたけど、やっぱり日本語は難しいですね」

「え、えりあ……」

 にっこりと、笑った。

 白い顔。影を落とす高い鼻。

 エリアスくん。

 なんて、美しい顔。

 唾を飲んだ。長いまつ毛で縁取られるその瞳に、私が映ったのが見えた。


「これは駄目ですよ」

「え」

 エリアスくんは言うなり私の手元のグラスを奪った。

「……え、エリアス、くん……」

 嘘でしょ。


「こんなところで、日本人のファンに──……いや、」

 エリアスくんが、私から奪ったグラスを掲げて笑った。

「きみにお会いできるなんて、ね」


 その上がった口角に、思考なんて失われて、言葉なんて容易く形をなくしてしまう。

 圧倒的な美しさと──推しに会えた、こんな近くにいるなんて、という非現実的な衝撃。

 固まる私に笑いかけると、エリアスくんは私の手元から取ったグラスをカウンターに置いた。


「……分かってて渡したんですか? これはどうぞ、あなたが」

 ドイツ語で話される意味深なその言葉は、カウンターの向こうの彼に言ったようだった。

 バツが悪そうにグラスをカウンターから下げた彼の姿にハッとする。

「あ、それは私が──……」

「ここでは」

 咄嗟の日本語は、日本語で遮られる。

「何も飲んではいけません」

 私のためだけに発された言葉。


「それはおろか……」

 言いかけて、エリアスくんが目を伏せた。長いまつ毛のせいで宝石のようなその瞳がかげる。

「いや、そもそも、なんで、こんなところにあなたが」

 その言葉と共に、顔が再び上げられて、その瞳の中に私が映った。

「あなた……って」


 え、もしかして推しに認知されてる?

 夢みたい。こんなところで、バーカウンターで見つめ合うなんて。

「どうして……」


「レナ!」


 言いかけた私の言葉。私とエリアスくんの間に入ってきたその声は、ホストファザーの声だった。

「あ……」

 私が振り向くと、ホストファザーは私の隣にいたエリアスくんに驚いたような顔をして、それから会釈した。

「エリアス様、お久しぶりです」

「……卿におかれても」

 知り合い? まあ、身内・・らしいし、お互い名前を知っているのは当たり前か。


「こちらの女性は、卿が?」

 エリアスくんの言葉に、ホストファザーが得意げに頷く。

「ええ! ええ! ……大和撫子ですよ、珍しいでしょう?」

 私、そこまで言われる和風美少女じゃないけど。とはいえ遮る道理はない。恥ずかしいけど悪い気分でもないし。

 ホストファザーは話を続ける。

「と言っても、今現在日本におられるエリアス様には珍しくはないでしょうが……」


「ああ、まあ……」

 歯切れの悪いエリアスくんと、饒舌なホストファザー。同じように真っ白な肌をしているのに、二人は対照的だった。

「その土地その土地でやはり味は違いますから。この国にずっといる私としては垂涎モノなのですよ」

 料理の話?

 母国語ではないからか、言葉のニュアンス理解できなかった。

 会話を聞く私の肩を、ホストファザーが抱いた。この国では、肩を抱く仕草はさほど珍しいことではない。

 ただ、ドレスを着て顕になった私の素肌に、その手の冷たさはよく染みた。思わず顔をしかめるほどに。


「卿」

「はい?」

 エリアスくんの声色が、変わった。

 知らない。そんな、冷たい声。

「私に彼女を譲っていただけませんか?」


「はい?」

 思わぬ言葉に聞き返したのは、私なのかホストファザーなのか。ただ、気が付いたら、私はエリアスくんの胸元に抱き寄せられていた。


「え、え、え……エリアスくん……!?」

 めっっちゃくちゃいい匂いする。しかも胸板。ちょっと硬い。


 ここまで生きてきた信じられないご褒美に、エリアスくんの顔を見上げた。顎、ちっっさ。

 推しの胸元に抱かれるなんて。もう死んでも……いや、死にたくはない。けど、死ぬほど最高。


「横取りはルール違反ですよ」

 ホストファザーが何か言ってる。エリアスくん意外と肩幅ある。

「……年長者からの、お願いですと言ったら?」

 低い声で腕の中が揺れた気がする。なにこの至福。

 ……年長者・・・

 見た目は明らかに、エリアスくんの方が年下なのに。


 明らかに違和感のあるその言葉にホストファザーに視線を向ければ、なぜか引いたようだった。

 言い返さないのは、私の聞き間違いだったのだろう。異国の言葉は難しい。


「……では一口目はお任せしますが、後からはいただきますよ」

 ホストファザーが私を見て、それから視線をエリアスくんに戻した。どういう意味?

「わたくしたちが呼び寄せたモノですので」

 そう言うと私とエリアスくんに背を向けてしまう。

「え? あ、あの……」

 どうしようか、けど、エリアスくんから離れるのも惜しい。他の人との輪に戻る背中を見つめて、戸惑う私の肩に声が降った。


「レナ」

 名前を呼ばれただけなのに、心臓を掴まれたような気になる。何百回も聞いた声だ。何万回も聞いた声が、私の名を呼んだ。心臓が止まりかけるのも当然だろう。


「僕と来てください」

 幸せが荷重オーバーで反応が遅れ気味の私の腰に、エリアスくんの手が添えられる。

「こちらへ」

 腰に触れられて、その手の大きさがよく分かった。

「え、え、え」

 そのまま会場の外に繋がる扉を引いた顔は、真剣な顔だ。扉の先は未知で、その先は男女の夜の道に繋がってる気がして、とまどう。

「え、エリアスくん?」

 恐る恐る表情を伺った私の前で、美しい唇に長い人差し指を添えた。

「しーっ」

 ビジュやば。こんなんファンサじゃん。


 エリアスくんは扉の前にいたスタッフに告げる。

「彼女と部屋に行きます。開けてください」


「え!? へ、へやっ!?」

「しっ」

 部屋!? またその仕草!

 頭の中が白くなりそうな私をよそに、スタッフさんは私たちを一瞥すると扉を開けた。

「え、エリアスく……」

「良い子だから」

 小さいくせに高い位置から落とされる視線が、私を捉える。

「静かにしてくださいね?」

 無言で何度も頷いた。状況はよく分からないけど、逆らえるわけがない。圧倒的なビジュと、囁き声のくせによく通る声には強制力があった。


 エリアスくんに連れられて入った別の部屋は、真ん中に大きな天蓋のついたベッドがあって、やっぱり薄暗い部屋だった。

「え、ちょ……」

 そういう経験ないけど、漫画は読んできたからそれなりに分かる。

 これは、《《そういう》》部屋なんだろう。

 え、嘘。本当に?

 そんな状況で感じたのは、喜びよりも期待よりも、己と彼の体への心配と困惑だった。


 扉の背につける私に、エリアスくんは腕で柔らかに檻を作った。どうしようこれ、壁ドンだ。

 ベッドに押し倒されるかと身構える私に、エリアスくんは真剣さを帯びた顔で聞いてきた。

「なんでここに居るのか、聞かせてくれる?」

「え、え、えっと……ホームステイで、ホストファミリーに招かれて……?」

 質問の意図も答え方も分からない。何この状況。

 エリアスくんってそういう人?

 違う。というか、それより気になるのは──。


「私のこと……」

 知ってるの? ──覚えてるの?

 口をついて出た疑問のくせに、聞いた瞳は多分期待に濡れている。答え次第では、泣いてしまうかもしれない。

「覚えてますよ」

 エリアスくんは、私の想定した最上級の答えを返してくれた。どうしよう、こんなの、嬉しくて、泣いてしまいそうになる。

「だって、僕にあんなこと言ってきた人──長い人生でいなかった」


 長い人生?

 その言葉に引っ掛って首を傾げると、エリアスくんはやっぱり真剣に聞いてきた。

「だから、なんでこんな所にいるのか聞きたいんです」

「なんでって……」

 さっき説明した通りで、それ以上のことは何もない。一体何が聞きたいのだろう。


「とにかく、危ないから逃げないと」

「逃げ……?」

 どういうこと?


 展開に追いつかず首を傾げるだけの私に、エリアスくんは尚も口を開いてくれた。

「だから、ここは……」

 開いた口の中に、八重歯があった。

 これから紡がれる言葉を探すように見つめて、初めて気付いた。

 いつも微笑む時、口を閉じて微笑むから気が付かなかった。推しの新しいチャームポイントを知った時、真後ろからノックの音が飛び込んできた。


「失礼、エリアス様」

 それは、ホストファザーの声だった。

「開けないで」

 エリアスくんの口調がいつになく強かったから、私は声を出すのをやめた。

「開けないで……今、いい所なんだ」

 良いところって何。

 その言葉と低い声に、暴れる心臓を吐き出さないよう唇を結んだ。そらから、扉の外からはしばらく間があった。

「それは失礼」

 簡素な言葉と遠ざかる足音を聞いて、やっと少し鼓動が落ち着いた。

「あ、わた──」

「しーっ」

 言いかけた私の唇に、人差し指が当てられた。気絶しそう。

 なのに、触れる指先は目の覚める冷たさだ。

「良い子」

 唇を塞がれて良かった。心臓が飛び出ずに済んだ。


 外から足音が聞こえなくなった扉を見つめて、エリアスくんが呟いた。

「……早くしないと」

 唇から離れた指先に、やっと喋ることを許可されたと理解する。エリアスくん、と呼び掛ければ目が合った。夢みたいだ。とはいえ恍惚に浸ってる場合じゃない。

「どういうことですか?」

 この状況が。さっきの言葉が。

 エリアスくんの様子は、男女のアレを目的とするような感じでもない。


 美しい瞳はキャンバスのようで、まつ毛は額装のようだった。なのに真ん中に映し出される私は絵に描いたような美人じゃなくて、少し恥ずかしい。現実離れした彼の瞳に映る私は、どこまでも鏡で知っている私だ。

 シャッターを切るように、瞬きが一つ。場面転換。


「きみのホストファミリーは吸血鬼で、ここは吸血鬼の館。……今夜は吸血鬼たちの美食会なんだよ」


 あまりに現実的じゃないその言葉に、間抜けに口が空いた。

「は?」

 そんなこと。何それ、演技?

 現実を疑う私に、エリアスくんは分からせるように言う。

「きみたちが言っていたように、僕も吸血鬼なんですよ」

 信じられるわけがない。

「立派な、立派な……ね。そうきみのホストファミリーの吸血鬼よりも、うんと長生きの」


「そんな、の」

 信じられない。

「信じられないですよね?」

 微笑みの奥から覗いた牙は、目の冴えるように光っていた。


 私の目の前にいるのは、本当に、あの推し?

 ステージで歌を歌って、紳士的なトークもする、あのアイドルの彼?

 陽だまりのようなあの輝きが嘘みたい。

 冬の月のような空気を纏う姿に、冷たい汗が背筋を這う。


「数年に一度、集まるんです。最近の情勢を伝えあったり、娯楽として美味しい血を分けあったり」


「ほ、ほんと……?」

「本当です」

 だって、僕、嘘つきませんから。

 そう、彼は言った。

「今までも『吸血鬼じゃないですよ』なんて言ってないでしょう?」

「そ、それは──……」

 思い返す。イソスタライブ。インタビューでのセリフ。雑誌の対談。SNSの投稿。

 私は彼を、見ていた。

 好きだったから、時間があったから……彼の言葉を追っていた。

「そう、でしたね……」

 吸血鬼キャラだと言われれば、よい美白コスメや睡眠時間の話などに逸らしつつも、決して否定はしていなかった。

 けれどにわかに言われて信じられるわけがない。


 推しが吸血鬼だなんて。


「僕はあなたを覚えてました」

 だから、と続けられる言葉は答え合わせみたいだ。なんにも真実味なんてないのに。エリアスくんは続ける。

「びっくりしました……なんでここに、と」

「なんで私を」

 覚えてるの。

 言外の疑問に、エリアスくんは丸をつけてくれる。

「だって。僕の長い人生で」

 長い人生。どうみても二十代ほどの見た目の彼の方からではその言葉は違和感があった。

 けれど彼が美術品のように美しいから納得もできる。まるで神様に時を止められたみたいに、美しいから。


「『怖くない』と『血はあげられない』を同時に言った人はいませんでした」

 ……よく覚えてくれてる。

 たった一度の邂逅を。随分前の握手会で、たくさんの人がいたのに。たった一人の私との、あの数秒を。


「僕が吸血鬼だと思うと『怖い』と言った人は逃げますし、『怖くない』人は『血をあげる』と言います。だから……」

 こんなふうに、二人きりで見つめられるなんて。

「怖くないのに血をあげない。どういう意味なんだろう、と。──あなたのことが、忘れられませんでした」

 推しの口からそんなこと言われるなんて。

「夢なら覚めないで……」

「はい?」

 思わず漏れた私の呟きに、エリアスくんが首を傾げた。暗い部屋でも、明るい髪の色は揺れると光るようだった。

 飲み込まれるような、宝石のような瞳。

「って、あの、その!」

 夢小説以上の出来事にあわてて思考を追いつける。それどころじゃない。しっかりしろ。

「え、私がここに……このお屋敷? に誘われたのって……」

「吸血鬼のエサとしてですね」

 嘘でしょ。いや、待って、ドッキリかもしれない。けど、こんな一般人をドッキリに映す可能性ある?

 どうなるのか分からないけれど場違い状況には違いない。

 エリアスくんは、さらに説明を続けてくれる。

「日本人はクスリをやってる人も少ないし、島国でなかなか手に入らないから珍しいご馳走として最近人気なんですよ。最近と言ってもここ半世紀くらいのトレンドですけど……」

 まったく意味が分からない。

 エリアスくんの顔は、こんな時でも美しくて、気が滅入りそうになる。もはや気絶したい。こんなに言うってことは、本当なのか。非現実的なこれは私の現実なのか。


「血を吸われたらどうなるの?」

「どうもこうも、僕たちと一緒になるだけです」

 え? それって私も吸血鬼になるってこと?

 見えない疑問符に、エリアスくんは答えてくれた。

「その肉体は死に、魂が僕らの体の中で永遠を共にすることになります」

「死ぬってこと!?」

 冗談じゃない。

 エリアスくんは表情を変えない。まるでそれが普通のことみたいに答える。

「肉体的には」

「嫌」

 そんなの嫌だ。

「死にたくない。まだ死にたくない」

 声が震えていたかもしれない。みっともないかもしれない。けれどそれでも生きてきた。そうやって生きてきた。

「まだ、やりたいことも、やってないことも、ある」

 私なりに一生懸命生きてきた。

 命は不意に消えると知っている。だからこそ、抗いたかった。こんなところで。そんな馬鹿な。


「……例えば?」

「ドラマみたいな恋とか」

 だって私。

「キスだって、まだしたことない」


 憧れてた。テレビの中の推しと、とかじゃない。

 それはそれで夢見たけど、現実にあり得ることじゃないと分かっていた。

 結婚なんて大層なものじゃなくて、たとえば一夏の恋とか、そんなものでも。

 避けていたけど、完全な諦めていたわけじゃない。経験したことない。してみたい。


 命を燃やすような激情を、味わいたい。


「……長く生きてきましたが、女の子っていう存在はまだまだ分からないことばかりです」

 エリアスくんはそう言って、私から離れた。

「あんなこと言ってたあなたが、他の人に食べられるなんてことをみすみす見逃せません。だからこうしてこの部屋に連れてきました」

 この部屋に連れてきたのは、匿ってくれたということなのか。

 それが安全で、最善だったのだろう。

 秘密が明かされてしまえば、ホストファミリーのところに戻るなんてもう出来ない。

「あのグラス、(人間)が飲んだらどうなってたんですか」

「あれは人間には強過ぎるものなので、体の自由が効かなくなりますね。酩酊のような……恍惚のような」

 聞いてゾッとした。飲まなくてよかった。

 酩酊も恍惚も真の意味は分からないが、どちらも命を差し出すことだろう。捧げるような価値なんてないのに。


「なんとかして逃げましょうか」

「エリアスく、」

 希望を名前に込めて呼びかけようとして気が付いた。

「それって、大丈夫なんですか……?」

 恐る恐る尋ねた私に、エリアスくんは静かに微笑んだ。微笑みの奥に牙が覗いた。

「何が?」

「だって、その」

 吸血鬼が集まる館。美食会。ホラー映画みたいなその言葉は今まさに現実だ。

 私の目の前にいるエリアスくんだって──。

「僕がきみの血を飲むかって?」

 吸血鬼なのだ。

 言いづらいけど、そういうことだ。小さく頷くと、エリアスくんは私の手を取った。


「まだ、あなたのあの言葉の理由を聞いてない」

 あの言葉。

 ──私の血はあげられないけど。


「それは……」

 視線が混ざる。答えかけた私の口を、激しいノックの音が閉ざした。


「エリアス様! まだでしょうか!」

 激しいノックの音と共に聞こえた声は知らない声だった。


「危ないですね」

 エリアスくんはそれに答えず、私に小声で囁いた。

「あのグラスの中の液体の正体は、吸血性を一番色濃く継ぐ身内の血です。始祖の血と呼ばれ大規模な余興の前にだけ振る舞われます」

 僕らにとってはお酒みたいなものですよ、とエリアスくんは足した。

「それって?」

 ノックの音は激しさを増す。扉の前から聞こえる怒声が大きくなる。声の種類が増える。

「理性を失わせて、興奮状態になりやすいんですよ」


 その声と同時に、扉は強引に開けられた。


 人が入ってくるのと同時だった。

「わ」

 途端エリアスくんは私の膝裏に手を入れて、バランスを崩した私の背を受け止める。お姫様抱っこだ。

「失礼」

 囁きはすぐ耳元。目の前にエリアスくんの整った顔がある。きめ細かい肌は陶器みたいだ。

 人生でまだやってないことリスト、生への未練が一つ減ったかもしれない。良い匂いがする。

「逃げましょう」

 なんの匂いだろう。薔薇の匂いだ。私は頷いた。


 部屋に雪崩れ込んで来たのは、紳士淑女然とした美しい人たち。

「エリアス様! そろそろわたくしたちにも!」

「珍しい極東の血を味わわせてください!」

 唇は赤く、まるで血を飲んだ後の様だった。


「しっかり捕まってくださいね」

 私を抱くエリアスくんが窓辺に立つと、夜風に髪が靡いた。その風に想像した。──落ちる様を。

 エリアスくんの首に手を回すと、素肌に柔らかな髪があたった。離すものか。彼を、希望を。


「エリアス様!?」

 彼らが驚く様子をよそに、硬く目を瞑る。そして体が、窓から踏み出した。

 落下を拒むような強い風に心臓が掴まれたように縮む。それでもあの部屋にいる方が怖かった。──現れた人たちは皆、血走った目をしていたから。



 暗い森の中を疾走する。

 音楽の教科書にそんな歌が載ってた気がする。その授業を受けた覚えがないけど。追われて逃げる夜の曲だ。

 腕の中で揺れる。十年以上前の記憶が揺り起こされる。

 その曲の名前は。

「……魔王……」


「え? そこまでの立ち位置じゃあないですよ」

 すぐ真上から降った声に、落下と共に落とした思考と現実に戻された。エリアスくんの声。独り言に思ってもみない返事だった。

「確かに長生きな方です。大陸に飽きて島国に移住して……その国の言葉を遜色なく話せるようになるくらいには」

 改めて聞くと嘘みたいだ。フィクションみたいな状況だ。つい数週間前の私に教えてあげたい。あなた、留学先でタキシード姿の推しにお姫様抱っこされて森の中を駆け抜けてるよ、と。

「何歳なん……ですか?」

「何歳までなら信じてくれますか?」

 私を見つめる目は嘘みたいに綺麗だ。嘘なら良いのにこんな状況。けど、初めて感じる男の筋肉の硬さは嘘にならないでほしい。

 エリアスくんは私を抱きながら、信じられないスピードで森を駆けながら話す。

「ちょっと長生きな方で、俗っぽく言うと身体能力……強さ的なもののアドバンテージが本来ならあるのですが──」

「本来なら?」

 風と茂みを切り裂く音。腕の中は、硬くて、冷たい。なのに熱く感じるのは私の体の奥から湧く高揚感のせいだろう。私の迫り来る足音が近付いている気がする。


「始祖の血を飲んだ吸血鬼は、もれなく身体能力が向上します」

「つまり?」

「追いつかれますね」

 嘘でしょ。


 急ブレーキがかかったように、エリアスくんが止まる。そのときいっそう腕に力が込められて、不覚にもときめ──いてる場合じゃない。

 私たちの行く手を、燕尾服を着た紳士が遮った。ホストファザーではないけれど、やっぱりその顔は青白く整っている。先ほどと違って、目は充血したように赤い。肌の白さのせいか、その赤さは暗い森の中でもよく分かった。きっとこれは、普通ノーマルじゃない、異常アブノーマルだ。


「エリアス様! その娘を──」

「聞けない願いだ」

 揺れた。跳ねた。目を瞑ったせいで何が起きたのか分からなかったけれど、次に目を開けた時には目の前にいたその紳士然とした人物が唸り声を上げて倒れた。

 私を腕の中に抱えたまま、エリアスくんが相手を蹴り上げた──あるいは、蹴飛ばした──のだと、下げられる足を見て理解した。

 倒れた男に、どんな感情を持てば良いのか分からず。助けられたヒロインとなるにはあまりにも理解が追いつかず。

 ただ困惑していると、後ろの方で茂みが揺れた。

「エリアス様が!」

「同胞を!?」

 驚きと困惑に満ちた声は、きっと人が裏切られた時に出る声なのだろう。


 横止りはルール違反。なら、お仲間への攻撃は?

 私の疑問に答えたのは彼らだった。

「身内に手を出す御法度を……!」

 怒りに燃えた赤い目が、答えだった。


 そんな彼らを前にしても、エリアスくんは丁寧な口調を崩さなかった。

「すみません、一度降ろしますね」

 私でも分かるほどの殺気の中。場にそぐわない丁重さで、私を地面に降ろした。

 上等そうなジャケットを纏うその背を前にして、私はようやく現実を直視する。四方を囲まれていた。


 肌の白い男たち。赤く充血した瞳。

 彼らの姿は、人間の理想的な美しさの極致だった。けれど、その目に宿る飢えは、獣に近い。


「どうして、あなたが我々の獲物を攫うのです?」

「数年に一度の楽しみなのに」

「エリアス様はずっと日本で遊んでいたではありませんか。日本人はもう充分に堪能したでしょう?」

 堪能。

 その言葉に、私を守ってくれる彼さえも獰猛な獣の一人だと理解した。

 それでも今は、この背中に守られるしかない。その金色の髪が私の蜘蛛の糸だと信じるしかない。


「あいにくこの子は……日本で目をつけてましてね」

 エリアスくんの手が、私を守るように動いた。男たちがじわりと距離を詰める。

「いくらエリアス様といえど」

「僕はこの子をきみたちに喰わせるつもりも──」

 一呼吸。私も同じタイミングで、息を吸った。

「僕が食べるつもりも、ありませんよ」

 ぴたりと、場の空気が止まった。


「では、力ずくで取り返すしかありませんね」

 一瞬の沈黙の後、誰かがそう言った瞬間、森の闇が弾けるように動いた。


 吸血鬼たちの爪が、エリアスくんの首を掻っ切ろうと襲いかかる。


 風が唸り、視界の隅で赤い軌跡が弾けた。

 エリアスくんの蹴りが、最も近くにいた吸血鬼の側頭部を強かに撃ち抜いたのだ。

「ぐっ──!」

 ぶつかった衝撃で、男の体が吹き飛ぶ。

 けれど、彼はすぐに体勢を立て直し、血に濡れた舌で唇を舐めた。

「さすが、始祖の直系……エリアス様は強い」

「だが……今夜の我々は、始祖の血で満たされている」

 その言葉とともに、闇の中から新たな影が現れる。次々と光を帯びる、赤い瞳。


「……困りましたね」

 エリアスくんが、珍しく焦りを滲ませた声を出す。

「僕は始祖の血を飲んでいませんから」

 それはつまり、彼らとの力の差は──

「……っ!」

 エリアスくんの腕が、鋭い爪に裂かれた。目の前に弾け飛んだ血は、赤い。

「エリアスくん!」


「大丈夫です」

 痛みすら感じさせない冷静な声。

 けれど、情勢は明らかに厳しかった。


 始祖の血を飲んだ吸血鬼たちは、私の目にも異常な速度と力だった。襲いかかる。

 エリアスくんは私を庇いながらエリアスくんは拳を叩き込み、足で蹴散らしていく。足元に倒れて、けれど致命傷にはなりえなかったのか、すぐにその影は起き上がる。

「少し、危ないですね」

 エリアスくんのその声は、少しだけ苦しげだった。


 それもそうだろう。

 暗闇の中、四方からの攻撃を全て払い薙ぎ倒しているのだ。──私が背にいるから、避けることもままならず。


 エリアスくんが一人の吸血鬼を投げ飛ばした直後、別の吸血鬼の爪が彼の肩を抉った。

 ジャケットの肩が裂け、目の前で赤い飛沫が舞う。

「……っ」

 エリアスくんの顔がくしゃりと歪んだ。

「エリアスくん!」

 私の声に、ゆっくりとエリアスくんが振り向いた。

「かっこ悪いところを、見せてしまいましたね」

 そんな瞬間、今も見てない。一度だって見たことない。


 吸血鬼の一人が笑った。

「さすがのエリアス様でも、我々には勝てませんよ」

「始祖の血を飲んできた我々に勝てると?」


「──もう、終わりです」


 その言葉とともに、一人が鋭い牙を剥いて跳んだ。

 狙いはエリアスくんの喉元か。その命を狙ってるのだろうか。吸血鬼は死ぬのか?

 頭の中が真っ白になる。目の前の景色がスローモーションのように見える。


「……仕方ないですね」

 私の目の前の体は、静かにそう呟くと、自身の服の胸元を裂いて爪を立てた。


「エリアスくん!?」

 

 自らの指で、自分の胸を裂いた。


「何を──」

 言葉の途中で、私は息を呑んだ。信じられない。

 暗闇にも鮮やかな血が、エリアスくんの手に滴っている。


「最終手段です」


「エリアス様、それは……」

 その声は大地と同じ場所から聞こえた。

「まさかご自身の中の始祖の血を飲むなんて……」

 声の主を一瞥して、エリアスくんが答えた。

「これで条件は同じです」


 それから私の顔に振り向いてくれた微笑みは、どんな雑誌にもテレビにも見たことがないものだった。

 美しい唇に、赤黒い液体が滴る指先が運ばれる。


 その瞬間、空気が変わった。


 私から見えるエリアスくんの瞳が染まる。まるで他の吸血鬼たちと同じように、真っ赤に。

 目の前の背中が広がる。深く息を吸う、深呼吸のような動作。


「あー……久々に飲むと、やっぱり……」

 それからその目に私が映って、

「キますね」

 撃ち抜かれた。


 撃ち抜かれたように感じたのは脳天か心臓か。痛みを感じて胸元を押さえた。傷なんて一つもない。彼と違って。

 欲望に濡れた赤い瞳と、本能を響かせる低い声。

 たった一言。いつもの彼らしくない上品さのない一言。それなのに。


 笑った口元に、見えたのは牙。

「──さあ、続きをしましょうか」

 エリアスくんは赤く濡れたその牙を、隠す様子はなかった。


 闇が動く。目の前で枯れ葉が舞う。

「がっ」

 あまりの速さに、何も理解が追いつかなかった。


 エリアスくんの跳躍は、今まで見た吸血鬼の比ではない速さで、視認できなかった。

 気が付けば吸血鬼の一人の顔面に、その拳がめり込んでいる。


「今のうちに──」

 聞こえた声は私の背後。

 私の目の前から跳んだエリアスくん。その場に一人立ち尽くすだけだった私に、その声が迫った。

「遅いです」

 目の前に飛んだのは彼の血か、誰の血か。

 私の目の前に飛んだ血の一滴が地面に落ちるよりも早く、エリアスくんの蹴りが炸裂した。

「ぐあっ!?」

 跳ね飛ばされたその体は、鈍い音とともに木に叩きつけられ、息を詰まらせる暇もなく意識を失ったようだった。

「いち、にい……」

「クソッ!」

 悪態をついて、また赤い目の影が飛びかかってくる。

 ひ、と私が息を飲んだ一瞬で、エリアスくんはその影の腕を掴んだ。


「さん」

 そして、掴んだ腕を潰すように握った。


「うあ」

 痛みに絞り出される声と共に、真のある硬いものが折れるような音。耳を塞ぎたくなる。

 腕を掴まれた吸血鬼の顔が苦悶に歪んで、乱暴に投げ飛ばした。

 そのまま視線を鋭くし、新たに迫った背後の気配に身を翻す。


「よ、ん」

 爪を振り上げた吸血鬼の攻撃をかわし、その腹に思い切り肘を叩き込む。

 苦悶に満ちたその顔の腹に、膝蹴りを入れて吹き飛ばす。


「はぁ」

 溜息か深呼吸か。エリアスくんの呼吸は浅い。

 余裕そうに見えて上下する胸元が速いのは、消耗のせいか先ほど血を飲んでいたからなのか。


 上下に肩を震わすエリアスくんの様子を見た影の一つが、口を開いた。

「エリアス様ご自身のものとはいえ、あなたに流れるのは始祖の直系の血です」

 始祖の血。飲めば身体能力を増強する──その代わり、吸血衝動に駆られ興奮状態になると言っていた血。

「同じように……吸血衝動を抑えるのは、厳しいはずです」


 その声を聞いて、エリアスくんの体が再び飛んだ。

「……っる、さいですね」

 喋っていた影が、抵抗する間もなく、エリアスくんの拳により地面に叩きつけられる。

「ご」

 それならすぐに、エリアスくんは私のもとに駆け寄った。息は荒い。

「エリアスく、」

「そろそろ教えてくれますか?」

 肩で息をしながら、誰のものか分からない血を顔に浴びながら──服も肌も裂けた傷だらけの姿で、エリアスくんは私の目を真正面に見た。


「僕に血を飲ませられないって、言ってた理由」


 世界一美しい赤い目に、私はどう映っているのだろうか。

「私」


 開いた私の唇を、後ろから聞こえた声が遮った。

「同胞に手をあげるなど!」

「ろく」

 囁き一つ。眉根が動くこともなく、エリアスくんは自分より大きなその体を蹴り飛ばした。

「ぐっ」

「……すみません、もうちょっと待ってくださいね」

 そう言うと私に背を向けて、倒す。たおす。敵を。──彼自身の身内を。

 血がいくつも舞って、周囲まで追ってきた吸血鬼は全員失神させられたのか静かになって、エリアスくんの足元がふらついた。


「エリアスくん!」

 咄嗟に支えると、ずしりと重かった。服は裂けてて、上等なジャケットだっただろうに見る影もない。

 支えて触れる真横から声が聞こえた。

「まずいな」

 赤い目と、視線が重なる。

「このままじゃ、僕がきみを襲う」

 その視線が、獣になりかけていることを悟った。


 ──エリアスくんの理性が、限界に近づいている。


 唇をぎゅっと噛み、胸元を抑える。

「どうすれば、いいですか」

「逃げて」

 答えは簡潔だった。

「僕から逃げてよ、血を吸われたくないんだろう?」

 簡単に言う。ここまで守ってくれたあなたを捨て置くように離れるなんて、まったく簡単じゃないことを。


「大丈夫。誰もきみのところへは行かせないから」

「エリアスくん……」

 なんにも大丈夫じゃない。あなたは傷だらけだ。彼らにとって、死がどういう風に訪れるか分からない。だからいっそう、心配だった。


 彼を置いていきたくない。

 けれど、彼は私といると禁忌を犯す。私のために御法度を破る。いろいろなものを犠牲にさせた。だから、そんなこと言えなかった。


「分かりました、ありがとう」

 夢みたいな時間だった。悪魔なような出来事は、きっとこれで白昼夢になる。逃げなきゃ。別れなきゃ。

 その場にヒールを投げ捨て、エリアスくんに見送られて走り出した。


「……まだ起きる時間じゃありませんよ」

 風に乗って聞こえたエリアスくんの声は、私に向けたものではなさそうだった。



 魔王。どんな歌だったっけ。今となっては歌詞しか知らない。授業は受けた記憶がない。

 走れ、走れ。

 暗い森は、どこに向かってるか分からない。それでもどうか夜明けへ。

 光を信じて走った。エリアスくんが繋いでくれた光だ。

 それでも森を抜けられない。夜が明けない。足は痛い。

 どれくらい走ったのか分からない。刺すような足の裏の痛みに立ち止まる。


「いたた……」

 足の裏を見れば小さい木の枝が刺さったようだった。

「っつう」

 息を止めて棘を抜くと、ぷっくりと赤い球が浮いた。

 痛いなんて言ってる場合じゃない。泣く時間なんてない。

 立ち上がるのに、躊躇いを感じた時間は一陣の風が吹く間だけだった。


「探したよ」

 木々のざわめきと共に、聞こえた声は異国の言葉。

「レナ」

 聞き覚えのある声。けれど、待ち望んでいた声じゃない。

「私たちのところへ、おいで」

 闇を掻き分ける白い手。現れたのは、ホストファザーと、ホストマザーだった。

「私のこと、血を吸うつもりで、ここに呼んだんですか?」

「そうだよ」

 悩む間も取り繕うような間もない、肯定。その答えの速さを理解して足が震えた。

「どうして、わざわざ」

 胸元を押さえて震える声を隠そうとしたけれど、心臓がうるさくて効果があったか分からない。ホストファザーが、見知った顔の吸血鬼が答えてくれる。

「人間だって、産地ごとに違う動物の味わいを楽しむだろう? それと同じさ」

 同じ生き物として見られてない。彼らは獣。そして、私は食べ物としてしか見られていない。


 ああもうだめだ。

 これから襲われる苦痛を想像して目を瞑った。

 エリアスくん。

 まさか推しが吸血鬼で──それでも私を守ってくれたなんて。

 そんな思い出を胸に死ねるなんて、ドラマを見るなんて。私は幸福なのかもしれない。けど、けど。

「死にたくない……!」

 涙で視界が滲んだ。


 水面のように揺れる視界が、晴れた。

「アンコールが」

 目の前に現れた、光のような影。

「遅くなりました。ごめんね」

 美しい声の下で、衝撃音と苦痛に歪む声が聞こえた。

「エリアスくん」

 私を守るように背を向けて現れたのは、エリアスくんだった。

「ねえ、そんな」

 傷だらけで。

 私が逃げて走っている間、どんな戦いがあったのだろうか、傷だらけで服はボロボロだ。

 過酷さを纏うその姿に、感謝の言葉も謝罪の言葉も躊躇う。痛みの前で言葉は無力だ。

 私のせいで。


「きみのおかげです」

 突然かけられたその言葉に顔を上げた。


 緊迫した空気の中で、エリアスくんの呟きは私一人のための日本語だった。

「ファンクラブ特典ですよ」

 横目に笑った。ずるい。その笑顔が写真集に載らないことが悔しい。


 見惚れる私に、周囲を牽制しながらエリアスくんが話し始める。

「日本に行ったのは、大陸暮らしに飽きたからの暇つぶし。祭り上げられたそのままアイドルになったら、美味しい血に困らなくて」

 努力も生も踏み躙る残酷な言葉だった。だからきっと真実なのだろう。芸能界に生き残る彼は、酷く綺麗だから。

 けれど、と続けた。けれど?

 血を吸って命を奪った罪を、どんな接続語で続けるのか。エリアスくんは笑顔だった。

「眩しいほどに、愛してもらえました」

 何より眩しい笑顔だった。

 愛は罪の正当化になんてならないと思うのに、どんな言葉よりも正義に似ている。


「きみの話を、聞かせてくれますか?」

 こんな状況で聞くことじゃない。

 暗闇で、命かけののやり取りをしながらする会話じゃない。

「私、病気なんです」

 けど、こんな状況だからこそ答えられた。

「血液の病気です。多分、余命もそんなに、長くありません」

 エリアスくんは、周囲から視線を外して赤い目の中に私だけを捉えた。本当かと、その目が言っている。私は続ける。

「もともと、ハタチまで生きれるかわからなくて」

 だから大学には行かなかった。卒業まで生きられるか自信がなかったから。


「それでも薬とか治療のおかげでなんとかここまで生きてきました。だからそんな血だから……エリアスくんには飲ませられないなー、なんて」

 それがあの日、エリアスくんに言った言葉の真相だった。


「そんな私だから、ここまでしてもらう価値はないんです。狙われる方も、守られる価値も」


 ねえ、これで死ねるなら。

 あなたの傍で死ねるなら。


「未練なんて、ありません」


 子供の頃、授業に全然出られなかった。だから広い世界に飛び立つことを夢見てた。お酒の味も知った。海外の空気も吸えた。

 ここまで来れた。

 大丈夫、私は私の人生を笑える。


「エリアスくん、ありがとう」

 ぜいぜいと苦しそうに聞こえる呼吸と、傷だらけの体。

「もういい、もういいです」

 そこでやっと、思い至る。

 これをドイツ語で話して、私の血は美味しくないよと叫べば、もうこの争いは起きないのではないのかと。

 私は口封じに殺されるかもしれない。けれど、エリアスくんは、事情を知ってるから仲間に飲ませないようにした、なんて言い訳をすれば助かるのかもしれない。


 大きく息を吸い込んだ。

 そして叫ぶために、口を開いた。

「私は──……Ichイッヒ──」

 その口が、突然塞がれた。


 途切れた酸素と断たれた言葉。

 突然のことに思考が止まった。

 視界の端で揺れた色は、エリアスくんの髪の色。

「まだキスをしたことがない、って……言ってましたよね」

 ゆっくりと、唇に触れていたものが離された。

 目の前に顔にエリアスくんの顔がある。

 頬に添えられた手は冷たい。唇から離れた柔らかな感触は、エリアスくんの唇だったと理解した。


「未練、一つ、減りましたか?」


 ふっと笑って、私の頬からエリアスくんの指先が離された。


「欲望をぶつけられてこそ、アイドルですから」

 再び背を向けられる。

「きみの望みを、ください」

 その言葉も、背も、私を守ってくれるつもりだと、分からないわけがなかった。

「生きたい」

 私の望みに、彼は傷付く。

 それでも、

「この先を、見たい」

 あなたと。


「分かりました」

 そう言うと、エリアスくんは自分の手首に爪を立てた。

「ぐっ」

 綺麗な顔が苦痛に歪んだ。

「エリアスくん!?」

 まるでナイフを突き立てるように、爪を突き立て引き裂いた。めくれた皮膚から粒のようなものが見えたのは脂肪か。そこから血が湧く様は泉のようだった。

 やめて、と言いたくなった。私の望みが傷付けた。

 ひゅっと音を立てて息を吸い込んだ私に、エリアスくんは笑った。

「僕はたくさん傷付けてきたから……これくらい、今更、痛くもなんともないですよ」

 今更引けない。流れる血は戻らない。

「エリアス様らしくありません!」

「貴重な血が!」

 深い傷。その腕を口元に運ぶ。

「長い人生で、今が一番……僕らしいですよ」

 ずずっと聞こえた音は、啜る音。血を啜る姿を見てやっと、彼は違う生き物だと実感した。


 暗い森の中に、命の液体を啜る音だけが響いて──その音が止まると、すぐに、エリアスくんは飛び出した。

 目にもとめられない、速さで。


 そしてそこからは、一方的な蹂躙になった。

 見る間もなく、エリアスくんの足元には倒れた者の影が累々と横たわる。

 圧倒的な暴力を振るう顔は、凶暴に笑っていて、獣の本能が滲んでいるようだった。

 目の前の敵を次々と沈めていく。黒い影が飛ぶ。

 エリアスくんはそれをかわし、骨が砕ける音が響いた。

 跳躍しながら爪を振るう吸血鬼を、その動きのまま手で掴み、地面に叩きつける。

 悲鳴。

 次の瞬間には、別の吸血鬼の背を踏み、無理やり地面に押さえ込んでいた。

 彼はほとんど傷を負わず、圧倒的な速さと力で敵を沈めていった。

 牙を剥いて凶暴に笑う様に、人間性は感じ取れなかった。

 攻撃する。私に手を伸ばす影があれば打ち砕く。攻撃される。攻撃する。

 恐ろしい応戦のそれは、常識離れしたスピードで繰り出され、なかなか視認することができなかった。

 どれくらいの時間が経っただろうか。月はもう、最初に見上げた時とは違う場所にいた。


 やがて、立ち上がる者はいなくなった。

 私とエリアスくんだけが、地面に黒い影を落としている。彼は傷だらけの肩を上下に大きく揺らして、荒く肩で息をしていた。その背に声をかける。

「エリアスくん」

 ゔ。

 聞こえた声は、返事と呼ぶのを躊躇う唸り声だった。獣の喉の音。

「あ」

 その口から、人語のかけらが、漏れた。

 獣と人の共通の思考を理解する。これは獲物を発見した時の声だ。──あ、見つけた。


 赤く染まった瞳は、もう私を守るべきものではなく喉の渇きを癒やすものとして見ているようだった。

 彼は剥き出しの私の肩を、強く掴んだ。

 痛い。

 恐ろしい獣の姿。私が獣にしてしまった。だから痛くても、そんなことを言えなかった。

 吸いたくて仕方がないんだ。目の前にいる私の血を。

「エリアスくん」

 せめてその前にもう一度、同じ言葉を分かち合いたい。

 名前を呼ぶことしか、出来なかった。

 だんだんと、表情の険が取れていく。

「……レナ」

 理性の残滓が、瞳の奥に見て取れた。

「エリアスくん」

 彼がぐっと唇を噛み締める。

 牙が唇に食い込み、赤い筋が一滴流れた。もう血を流さないでほしいのに、やっぱり私の存在が彼に傷をつけてしまったようだった。


 もう逃げられない。彼からは。


「私の血、飲んでいいよ」

 それで楽になるのなら。

 あなたから傷が減るのなら。

「血は、生気だ。僕らに人間の血は、癒しだ」

 語るエリアスくんは、肩で息をしながら、理性のかけらを集めながら言った。

「今の僕は、飲み干してしまう。今も、」

 獣と人を行ったり来たりしている瞳が私を映した。

「今もきみが欲しくてたまらないんだ」

 そんなふうに言われたら、喜んでしまう。恐ろしくてたまらないのに、恐怖ではない理由で胸が震えてしまう。

 いいよ、と答えてしまった。きっと本能のせいだ。被食者ではなく、女としての、本能。命を捧げるような愛。

「いいよ。きっと余命は、短いし、エリアスくんが元気にならそれがいい」

「生きたいんだろう? きみは。未練があるって言ってたじゃないか」

「大丈夫。もう、未練なんて、ありませんから」

 キスはした。

 もう一つも、もう。

「あなたに、燃えるような恋したから」

 身を焦がすほどの激情を、私はこの夜、知れたから。

「もう、大丈夫……ありがとう」


 短い人生だから、そんなものは得られないと諦めていた。

 フィクションの中のものだと。そう思って、画面の中の人物に恋の真似事を練習するばかりだった。

 こんな想いを知れるとは、思わなかった。

 だからもう、未練なんてない。


「はは、そんな火なら焼かれるのも本望だ」

 いつの間にか敬語じゃなかった。あの紳士っぷりは外面だったのだろう。もうガワは燃えてなくなってしまったようだ。

「異端狩りの火炙りでもなく地獄の業火でもなく、きみの愛の炎に焼かれて死ねるのなら」

 その瞳に私だけを映してくれるのなら。

「それって……冥利に尽きるってもんじゃない?」

 寿命が尽きても、もういいんじゃないかな。


 最後にエリアスくんを見る。世界一美しい顔。

 鼓動の高鳴りを一つ感じて目を閉じた。

 最期に見るのは彼の姿がよかった。最期の光景を選べるなんてなんて贅沢なのだろう。目を閉じた。

 絶命の瞬間を想像する。痛くないといいな。緩やかに煙のように消えたらいいな。


 しばらく目を閉じていても、エリアスくんが私を襲う様子はなかった。

「……エリアスくん?」

「うん」

 待ちかねて目を開く。

 空が白んできていた。吸血鬼が、朝の光に晒されるとどうなるんだろう。早くしないと。

 ずっと待っていた夜明けなのに、今は来ないで欲しかった。


「エリアスくん!?」

 エリアスくんは、一歩引いた。エリアスくんに倒された吸血鬼たちは皆、木の根元の木陰に倒れているが、エリアスくんの立つ場所は陽の光を遮るものがない。

「未練を消化するための生なら」

 森の中に、柔らかな光が差し込んだ。木々の隙間から、静かな朝日が零れる。

「僕ももう、なくなった」

 金色の髪に、朝の光が差し込む。白い肌が、穏やかな陽の光に照らされている。

 照らされたそこから、湯気のようなものが滲み出た。

 それはまるで魂のように、上に向かって消えていく。


 どういうこと。どうして。なんで。

 エリアスくんの表情は穏やかだった。私の目の前で、今まさに白日に晒された肌から焼かれていくような様なのに、それでも微笑んでいた。


 煙の上る手を、私に差し出す。自ら体を引いたくせに、引き寄せてくるなんて、なんて勝手なのだろう。我慢の中の偶像のままだったら、勝手な男だなんて知らなかった。

「僕はいつだって、明るい場所に憧れていたんだ」

 そんなのいつだって連れて行ってあげる。


「祈ってもよければ、きみの生に誇りを、未来に自由を」

 そんなのもう、もらった。

 早く触れたい。


 エリアスくん。

 名前を呼ぶと、目を細めて笑った。


「ああけど、もう一回。もう一回、キスしても、いいかな?」

「そんなの何度だって」

 ずっとだって。

 応えようとして手を伸ばした。


 長かった夜が終わる。


 その手が触れる寸前で──彼の体が、がくりと崩れていった。



 何を書いてるの、と聞かれて答えると、変なの、と舌ったらずな声は言った。

「おばあちゃん、変なの」

「そうよねえ、でも、書き残しておきたくて」

 私が答えると、その子供はふーん、と言ってつま先を回した。公園のベンチでノートにペンを走らせる老婆への興味はもう削げたのだろう。私が何かを言う前に、遊具の向こうにいるであろう両親の元へ駆け出して行った。


 顔を上げると、太陽の光に視界が白く染まった。目を閉じて、それからまた手元に視線を落とす。

 

「推しがいないと生きてけないよー」

「生き甲斐だったのにー」

 ベンチに座る私の前を、眩しい肌を惜しげもなく晒す若い女性たちが歩いて行った。いつかあった頃を思い出して、やっぱり目を細めた。


 たった一夜の炎にずっと、死ぬまで私の胸は焦がされるのだろう。死ぬほどの熱を感じながら生きるのは苦しかった。あの日の夜をまだ忘れられない。

 書き留めるのは初めてだった。今更になって、書き残しておかなければとペンを持っている。


 あの赤い瞳はまるで焼きごてだった。胸に焼き付けられて離れない。


 最後の一文字を書き終える。見上げてももう、眩しくなかった。

 もう熱くない。夜は明けない。

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