神崎玲音
神崎玲音に「それもうあんたの役目だから」と言われたあと、僕はしばらくその言葉の意味を考えないようにしていた。
考えたところで、どうせろくな結論にはならない。
僕はただの一般人で、しかも目立つのが苦手な陰キャだ。芸能事務所のレッスン場に出入りして、トップアイドルとその周辺に振り回されている現状ですら十分に意味不明なのに、そのうえ誰かの“役目”まで背負わされても困る。
――困る、はずだった。
けれど実際には、玲音のことが頭から離れなくなっていた。
学校案内の撮影で見せた顔。見学会で中学生に向けた声。レッスンで迷っていた時の、うまく笑えない横顔。
白須賀沙也加とは違う。けれど違うから弱いのではなく、違うから届く相手がいる。そのことを、本人が理解しかけたところまでは確かだった。
問題は、多分そこから先だった。
一度掴みかけたものは、次も同じように掴めるとは限らない。
むしろ一度うまくいったからこそ、次に失敗した時の揺り戻しは大きい。玲音みたいにずっと誰かと比べられてきた人なら、なおさらだろう。
そんなことをぼんやり考えていた週の半ば、昼休みに白須賀がいつものように僕の机へ寄ってきた。
「沢渡くん、ちょっといい?」
「またろくでもない話?」
「ひどいなあ。でも半分当たり」
半分しか否定しないあたりが信用ならない。
白須賀は周囲に聞かれない程度に少しだけ身を屈めた。
「玲音ね、今度の合同配信ライブでソロパート任されてるの」
「へえ」
「へえ、じゃなくて。わりと大事なやつ。配信だから、いつものライブみたいに会場の熱で押し切れないし、コメントも数字もその場で見えるから」
それは、僕みたいな外野でもしんどそうだと思える条件だった。
玲音はステージに立てないわけじゃない。むしろ立てる人間だ。けれど、“誰と比べてどうか”が可視化されやすい場となると話は別だ。
「それで?」
「昨日からちょっと、また考え込み気味」
白須賀はそこで一度言葉を切り、僕を見た。
「玲音、たぶん今回も沢渡くんに見ててほしいんだと思う」
「なんで僕前提なの」
「だって実際、見つけてるし」
軽く言われてしまう。
僕は思わず視線を逸らした。そういうことをさらっと言えるのが、白須賀のずるいところだ。
「……本人にそう言われたの?」
「はっきりとは言ってないよ」
「じゃあ違うかもしれないじゃん」
「違ったら、玲音があとで怒るだけで済むから大丈夫」
「大丈夫の基準おかしくない?」
そう返すと、白須賀は楽しそうに笑った。
たぶん、この人はかなりの割合で分かっていて僕を巻き込んでいる。
※ ※ ※
結局その日の放課後、僕は白須賀に連れられて、また事務所ビルへ来ていた。
前回ほどの場違い感はない――と思いたかったが、やっぱり十分に場違いだった。
陰キャは環境に慣れることがあっても、根本的に煌びやかな場所との相性が良くなるわけではない。
案内されたのは、前より少し小さめのスタジオだった。
扉の前まで来ると、中から音が聞こえる。アップテンポなバンドサウンドに乗って、女の子の歌声が伸びる。たぶん玲音だ。
白須賀が中を覗いて、小さく言った。
「まだ通し中みたい。終わるまで待ってよっか」
廊下の壁にもたれていると、曲が終わる。
少しして扉が開き、汗を拭きながら玲音が出てきた。
僕を見るなり、彼女は一瞬だけ足を止めた。
「……なんでいるの」
「いや、僕もそれ聞きたいんだけど」
「沙也加?」
玲音がすぐに白須賀を見る。
白須賀は悪びれもなく笑った。
「だって玲音、絶対来てほしかったでしょ?」
「言ってない」
「言ってないだけで、そういう顔してた」
玲音は数秒だけ黙ってから、小さくため息をついた。
否定しきらないあたり、図星らしい。
「……来たならいいけど」
小さな声でそう言って、彼女はタオルを首にかけ直す。
いつもの強気な調子より、少しだけ素が出ていた。
「ソロパート、見てほしいの?」
白須賀が直球で聞く。
玲音は露骨に嫌そうな顔をした。
「そういう言い方やめて」
「じゃあどういう言い方ならいいの」
「……確認」
「何を」
「ちゃんと私になってるかどうか」
その言葉を聞いて、白須賀はもう茶化さなかった。
代わりに軽くうなずくだけに留め、僕の背を小さく押した。
「はい、沢渡くん出番」
「なんで僕が前提なんだって」
「もう今さらでしょ」
玲音も何も言わない。
だから僕は、観念してスタジオの中へ入った。
※ ※ ※
配信ライブ用のレッスンは、前回の合同曲とは少し雰囲気が違っていた。
玲音のソロパートは、曲の中盤に挟まれる短い見せ場らしい。
照明が落ちたあと、一人だけ前へ出て、空気を切り替える役目。王道に全振りした白須賀の魅力とは別の、少し尖った熱を入れる構成になっている。
理屈だけ聞けば、玲音向きだと思った。
実際、一回目の通しを見た限り、悪くはなかった。
悪くはない。悪くはないのだけれど――少しだけ、怖がっているようにも見えた。
鋭く入りすぎると浮く。
柔らかく寄せると埋もれる。
その中間を探そうとして、結果として一番危ない“無難”へ寄っている感じがする。
「どう?」
レッスン後、玲音はペットボトルの水を飲みながら聞いてきた。
近い。
真っ直ぐ見られると、こっちが落ち着かない。
「……悪くはないと思う」
「それ、逃げてる時の言い方」
「いや、ほんとに悪くはないよ」
「でも?」
追い込まれる。
こういう時、僕は会話の輪郭をぼかしてやり過ごしたいタイプなのに、玲音はそこをまったく許してくれない。
「でも……ちょっと、玲音さんが遠い」
「遠い?」
「うん。なんていうか、完成形を置きにいってる感じで」
自分でも曖昧だと思う。
けれど玲音は茶化さずに聞いていた。
「学校案内の時も、見学会の時も、玲音さんってもっと近かった。こっちに向けて話してる感じがあった。
でも今のは、“こう見えれば正解でしょ”って形を作ってるだけに見える」
言い終わったあと、少し後悔した。
言いすぎたかもしれない。
だが玲音は怒らなかった。
むしろ、図星を突かれた時みたいに眉を寄せた。
「……それ、私も分かってる」
ぽつりとこぼした声は小さい。
「配信って、数字もコメントもすぐ出るし、切り抜かれ方も早い。だから変に外したくなくて、先に“安全な正解”を置こうとしちゃう」
「でも、それだと玲音さんじゃなくなる」
「うん。分かってる」
分かっているのにできない。
そこがたぶん、一番苦しい。
少し沈黙が落ちたあと、僕は思いついたことをそのまま口にした。
「じゃあ、コメント見なければいいんじゃない?」
「……は?」
「配信中のモニターに流れるやつ。あれ、見てるから余計にブレるなら、最初から視界に入れなければいい」
玲音は目を瞬かせた。
「そんな簡単な話?」
「簡単ではないと思うけど。でも、玲音さんって、外の評価が視界に入ると、たぶんすぐそれを基準にしちゃうでしょ」
「……する」
「だったら、最初の一回くらいは閉じたほうがいい。配信の向こうにいる誰か一人だけ見る感じで」
前にも似たことを言った気がする。
でも、玲音にはたぶん何度でも必要なんだろう。
「それで、その“誰か一人”が分かんないなら」
「なら?」
「僕を見ればいいんじゃない」
言ってから、自分でびっくりした。
何を言っているんだ僕は。
陰キャがこんな真ん中寄りの台詞を吐くなんて、自分でも想定外だった。けれど玲音は、数秒止まったあとで、急に吹き出した。
「……何それ」
「いや、今のは忘れて」
「無理。面白すぎる」
「面白がらないでほしいんだけど」
「だってあんた、普段そんなこと絶対言わないじゃん」
笑いながら、玲音は少しだけ目を細めた。
でも、その笑い方はさっきよりずっと軽かった。
「……でも、いいかも」
「え」
「配信の向こう全員は無理でも、あんた一人なら見えるし」
さらっととんでもないことを言う。
僕はただの見学者だ。そんな使い方をされても困る。
「困るんだけど」
「困ってていいよ。私が助かるから」
あまりにも当然みたいに言われて、反論の余地がなかった。
※ ※ ※
配信ライブ当日、僕は事務所内のモニター観覧席にいた。
一般公開のライブ会場ではなく、複数のカメラが入った配信専用スタジオ。スタッフは多いが、客席の熱で押すタイプの空間ではない。
そのぶん、誤魔化しが利かないのだろう。開演前の空気は、前に見たライブよりずっと張り詰めていた。
白須賀も出演者側で待機しているため、開演前に少しだけ顔を見せに来た。
「沢渡くん、変に緊張してない?」
「してるよ。なんで僕が」
「玲音の保険係みたいなものだし」
「その役割、本人の同意ないけど」
「あると思う」
白須賀はそう言って笑う。
やっぱりこの人は、人の感情の流れを読むのが上手すぎる。
照明が落ち、配信が始まる。
オープニングの合同曲、トーク、ユニットパートと流れ、やがて問題の中盤へ入った。
曲の転換。
中央の照明が落ちて、細いスポットだけが一本伸びる。
その中へ、玲音が出てきた。
一瞬で空気が変わる。
白須賀のように会場全体を包み込む明るさじゃない。けれど、見る側の意識を一箇所へ集める強さがある。暗い場所で鳴るライターの火みたいに、細いのに目を離せない。
玲音は一度もモニターを見なかった。
視線はまっすぐ前。それも、ただ虚空へ投げているのではなく、ちゃんと“どこか”を見ている目だった。
たぶん、僕だ。
そう思った瞬間、変な汗が出た。
冗談じゃなかったのか、あれ。
でも、だからこそ玲音は迷っていなかった。
鋭さは残したまま、余計な警戒だけが削ぎ落ちている。力で押すのではなく、自分の温度で空気を掌握している。王道とは違う。白須賀とも違う。でも、だから弱いのでは全然ない。
むしろ、今の玲音は誰の隣にも立っていなかった。
曲が終わる。
次の展開へ入る直前、スタジオの端でスタッフが思わず顔を見合わせているのが見えた。いい意味で、想定より刺さったのだと分かる。
配信終了後、関係者用の小さなレビュー画面にはリアルタイムの反応がまとめられていた。
『神崎さんのパート、空気変わった』
『この人、白須賀さんと全然違う魅力ある』
『強いのに置いていかれない感じがいい』
『名前知らなかったけど一気に気になった』
比べる言葉は残っている。
でも、そこに“下位互換”みたいな文脈はない。ちゃんと別の名前として見られている。
それを見た時、ようやく僕は、玲音の悩みが一区切りついたのだと実感した。
※ ※ ※
配信後、白須賀はすぐに囲まれてしまった。スタッフ、マネージャー、コメント確認、次の確認事項。トップアイドルは終わってからも忙しい。
だから僕は、前みたいに一人で帰ればいいと思っていた。
思っていたのに、スタジオ裏の通路を歩いていたところで、後ろから腕を引かれた。
「ちょっと来て」
玲音だった。
有無を言わせない調子のまま連れて行かれたのは、レッスンフロアの端にある小さな休憩スペースだった。時間が遅いせいか、人はいない。自販機の明かりだけが妙に白い。
「……何」
「感想」
「また?」
「また」
即答だった。
ここまで一貫していると、むしろ清々しい。
「今度は、どうだった」
玲音は真正面から聞いてくる。
強気な顔をしているのに、その実、答えを待つ目だけが少しだけ不安そうだった。
「……ちゃんと、玲音さんだった」
僕が言うと、彼女の肩からわずかに力が抜けた。
「それに、前よりずっと強かった。無理に誰かに合わせてる感じもなかったし。ちゃんと別の魅力として見えてたと思う」
「思う、じゃなくて?」
「……見えてた」
言い直すと、玲音は満足そうに目を細める。
「そっか」
その一言は短い。
でも、そこに詰まっていた安堵は多分小さくない。
「じゃあ、これで一個終わり」
「終わり?」
「うん。白須賀沙也加と比べられて、勝手に自分を見失うの、一旦やめる」
「一旦なんだ」
「だって簡単には消えないし」
玲音は苦笑した。
「でも、今日分かったから。私が見られるのって、白須賀の隣としてだけじゃない。ちゃんと私自身で届く時がある。
それを最初に見つけたの、あんただし」
その言い方は前よりずっと静かだった。
けれど重さは薄れていない。むしろ、覚悟が混じったぶんだけ深くなっている気がした。
玲音は少しだけ僕を見上げて、それから、いつもみたいに軽口を叩くでもなく、意地悪そうに笑うでもなく、まっすぐ言った。
「……ねえ、もう“学校の友達くん”やめる」
「え」
「前から変えたかったし」
たしかに、最近はその呼び方自体あまり使っていなかった。
けれど、改めて言われると変に緊張する。
「じゃあ、何て呼ぶの」
「決まってるでしょ」
玲音は一歩だけ近づく。
逃げるほどでもないのに、なぜかその場に縫い止められたみたいに動けなかった。
「沢渡」
その呼び方は、今まで何度もされてきたはずなのに、玲音の口から落ちると妙に意味が変わって聞こえた。
“学校の友達くん”じゃない。
誰かのついででも、雑なラベルでもなく、ちゃんと僕個人を指している呼び方。
「それでいく」
「……確認みたいに言うね」
「確認だよ」
玲音はあっさりと言った。
「私が見つけてもらったぶん、今度はちゃんと私のほうでも見つけたってことにしたいし」
その理屈は相変わらず少し強引だった。
でも、彼女らしいと思った。
「だから、これからは沢渡って呼ぶ」
「……急だなあ」
「急じゃない。わりと前から決めてた」
「ほんとに?」
「ほんと。タイミング見てただけ」
そう言ってから、玲音は視線を少しだけ逸らす。
耳の端がほんのり赤い。強気に言い切ったわりに、そこだけは隠しきれていなかった。
「それに」
「それに?」
「私が迷った時、最初に見つけるのは沢渡がいいって、もう決めたから」
やっぱり重い。
しかも本人はそれをほとんど自覚していない顔をしているから、余計にたちが悪い。
僕が返事に困っていると、玲音は自販機の横へ軽くもたれて、少しだけ満足そうに笑った。
「……うん。やっぱりしっくりくる」
「何が」
「沢渡って呼ぶの」
そして最後に、彼女はわざとらしくなく、本当に自然な声音で、もう一度僕の名前を呼んだ。
「よろしくね、沢渡」
その一言で、玲音の中で何かがきちんと定まったのだと分かった。
比べられて揺れるだけの神崎玲音じゃなく、自分の光り方を知って、そのうえで僕を見つけてきた玲音として。
たぶん、ここから先はもっと面倒になる。
でも、その予感を否定しきれないわりに、僕は不思議と強く拒めなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




