もうあんたの役目なんだから
神崎玲音に「次のオフ、事務所のレッスン見学できる日あるけど」と言われた翌日、僕は朝から少しだけ落ち着かなかった。
別に、楽しみにしていたわけではない。
そもそも芸能事務所なんて場所、僕みたいな陰キャが自分から近づく人生設計には入っていないし、場違い感で死ねる自信がある。ただ、一度ああ言われてしまうと、行かないという選択肢が妙に取りづらかった。
しかも、断るタイミングを逃したまま昼休みを迎えたところで、白須賀が当然のように一枚の封筒を僕の机に置いた。
「はい、これ」
「何」
「玲音から。入館パスと地図」
「本当に話進んでるんだけど」
「進めたんでしょ、本人が」
白須賀は楽しそうに笑っている。
封筒を開けると、たしかに事務所ビルの簡易案内図と、見学者用の仮パス、それから手書きのメモが入っていた。
『土曜、十二時。遅れたら許さない』
それだけ。
短い。けれど玲音らしいといえば玲音らしかった。
「……行く前提なんだ」
「玲音、そういうとこあるよ」
白須賀は僕の反応を見て、くすっと笑う。
「でも、たぶん来てほしいんだと思う。沢渡くんが見た玲音を、向こうでもちゃんと見せたいんじゃない?」
「なんでそんなことになるの」
「さあ?」
絶対分かっている顔で、白須賀は肩をすくめた。
僕は封筒を見下ろしながら、小さくため息をつく。断る理由はある。あるのだけれど、行かない理由としては弱い。何より、あの見学会のあとで「やっぱり行かない」は、少しだけ後味が悪かった。
結局、僕は行くことにした。
※ ※ ※
土曜の昼前、僕は都心のオフィス街に立っていた。
高いビルが当たり前みたいに並び、人の流れは速く、誰もが自分の行き先を迷っていない顔をしている。
その中に混ざると、自分だけが場違いな異物みたいに思えてくる。うちの学校でも十分落ち着かなかったのに、芸能事務所の本社ビルなんて、陰キャ耐性の上限を明らかに超えていた。
入口の受付で仮パスを見せると、スタッフは慣れた手つきで確認を済ませた。
「神崎さんから伺っています。十三階のレッスンフロアへどうぞ」
名前を告げるだけで通される。
それが妙に現実味がなくて、エレベーターの中で何度もパスを見返してしまった。
十三階へ着くと、フロアの空気は下のロビーとは一変していた。
鏡張りの壁、遠くから響くリズム音、行き交うスタッフ、衣装ラック、積まれたダンスシューズ。表に見える華やかさの裏にある、ひたすら実務的な空間。学校案内の撮影で少しだけ覗いた“裏側”が、今度はもっと濃い形で広がっていた。
「遅くないじゃん」
声をかけられて振り向く。
そこにいたのは玲音だった。
今日はレッスン着らしく、黒のショート丈パーカーに細身のパンツという動きやすい格好をしている。ステージ衣装の時よりずっとラフなのに、隠しきれない華があるのが厄介だった。髪は高い位置で一つに結ばれていて、顔立ちの鋭さがいつもよりそのまま出ている。
「遅れたら許さないって書いてあったし」
「ちゃんと読んだんだ」
「読むでしょ、普通」
「ふーん」
玲音は少しだけ満足そうに目を細め、それから僕の首元の仮パスを指で弾いた。
「じゃ、案内する。変なとこ入らないでね。迷子になられても困るし」
「迷子になるほど広いの?」
「なるよ。あんた方向感覚なさそうだし」
「初対面の頃から思ってたけど、評価が地味に低いよね」
「低いんじゃなくて、観察結果」
そう言いながら歩き出す背中を追う。
廊下の途中で、鏡越しにいくつものレッスンスタジオが見えた。ダンスの基礎練習、発声、撮影用コメントの確認。年齢も雰囲気もばらばらのタレントたちが、それぞれの場所で真剣な顔をしている。
表に出るのは一握りでも、その背後にはこんな量の積み重ねがあるのだと分かると、なんというか、めまいがした。
「どうしたの。もう帰りたい?」
「ちょっとだけ」
「早すぎでしょ」
玲音は呆れたように笑う。
でも、その声はどこか楽しそうだった。
通されたのは、一番奥の大きなスタジオだった。
中にはすでに何人かいて、振付師らしい男性が前でカウントを取り、数人の女性アイドルが立ち位置を確認している。白須賀もその中にいた。
「あ、来たんだ」
鏡越しに僕へ気づいた白須賀が、軽く手を振る。
レッスン着の彼女は学校にいる時よりずっと素に近く見えるのに、それでも人の目を引く。玲音とは違う意味で、視線が自然と集まる人だ。
「ほんとに来たね、沢渡くん」
「僕もそう思ってる」
「ふふっ」
白須賀は笑いながらも、すぐに前へ向き直った。
どうやら今は合同レッスンの最中らしい。玲音も僕を壁際の椅子へ座らせると、短く言った。
「そこで見てて。終わるまでたぶん四十分くらい」
「うん」
「ちゃんとね」
念押しみたいに言ってから、彼女はスタジオの中央へ戻っていった。
音が流れる。
次の新曲だろうか。アップテンポで、サビで一気に視界が開けるような曲だった。白須賀が中央寄り、玲音がその隣。二人は同じ振りを踊っているのに、見え方が明らかに違う。
白須賀は、流れの中心にいることが自然すぎた。目線の配り方、手先の抜き方、笑顔へ入る瞬間の柔らかさ。
対して玲音は、動きそのものはキレがあるのに、ところどころ力が入りすぎて見える。鋭さが武器のはずなのに、今はそれが微妙に浮いていた。
「神崎、そこ一回止めよう」
振付師が言う。
「悪くないけど、ちょっと追ってる感じが強い」
「追ってる?」
「白須賀の抜け方を真似しようとして、逆に自分のリズムを失ってる。あと視線が前じゃなくて横に行く」
言われた瞬間、玲音の眉がごく小さく寄った。
横。たぶん白須賀のことだ。
「神崎は神崎の取り方でいい。比べなくていいから、センターを奪いにいくんじゃなくて、自分の見せ方に戻して」
「……了解」
返事は平静だった。
でも、さっきまでより少しだけ声が硬い。
レッスンは再開されたが、玲音の動きはかえって迷いが増していた。
無理に力を抜こうとして、でも抜き切れなくて、結果として中途半端になる。見ているだけの素人でも分かるくらい、噛み合っていなかった。
やがて休憩が入ると、玲音はスタッフの輪にも入らず、そのまま一人でスタジオを出ていった。
※ ※ ※
少し迷った末、僕は彼女を追った。
追ったといっても、大げさなものじゃない。
たぶんああいう時に一人になりたいタイプだろうとは思った。思ったけれど、あのまま何も見なかったことにするのも違う気がした。
廊下を曲がり、自販機スペースの先にある非常階段の踊り場で、玲音は手すりにもたれていた。
窓の外を見ながら、未開封のペットボトルを握っている。僕の足音に気づくと、振り向きもしないまま言った。
「なに。感想でも言いに来た?」
「いや……」
「ひどかったでしょ、さっき」
先に言われてしまって、言葉が詰まる。
玲音はそこでようやくこちらを見た。いつもの少し意地悪そうな顔ではない。うまく笑う余裕のない、年相応の、少し悔しそうな顔だった。
「学校案内では“神崎玲音でいい”って思えたのに、ステージになるとダメ。隣に沙也加がいるだけで、勝手に意識する。もっと軽く抜けるとか、もっと王道の笑い方しろとか、そういうの頭で考えた瞬間に、自分が分かんなくなる」
彼女はペットボトルのラベルを指で潰す。
「笑えるよね。一回うまくいったくらいで、ちょっと勘違いしてた」
「勘違いじゃないと思うけど」
「でも今、戻ってるじゃん」
その言い方が妙に刺さる。
玲音はきっと、比べられることに慣れている。でも慣れているから平気、ではないのだろう。むしろ何度も同じ傷の入り方を知っているからこそ、少しのきっかけでそこへ戻ってしまう。
「……玲音さん」
「なに」
「さっき、白須賀さんを見すぎてた」
「だから振付師にも言われたんでしょ」
「でも、追ってるっていうより、確認してる感じだった」
「確認?」
「自分がちゃんと間違ってないか、隣を見て確かめてるみたいな」
僕がそう言うと、玲音は一瞬だけ黙った。
「……それ、かなりダサいね」
「ダサいかどうかは分からないけど」
僕は壁にもたれて、なるべく彼女のほうを見すぎないようにしながら続ける。
「学校案内の時、玲音さんってカメラの向こうにいる“まだ来てもいない誰か”を見てたじゃん。あの時は白須賀さんを基準にしてなかった。でもさっきは、客席でもカメラでもなくて、隣だけ見てた」
自分で言いながら、かなり出しゃばっている気はした。
こういうことを他人に言うのは得意じゃない。むしろ苦手だ。できることなら曖昧に流して、何も言わずに済ませたい。
でも、玲音に関しては、それをするとたぶん違う気がした。
「玲音さんの強いとこって、たぶん“ちゃんとこぼれた人を拾える”とこだと思う」
「……またそれ言うんだ」
「合ってるから」
玲音は小さく息を吐く。
否定はしなかった。
「だったら、白須賀さんを追うんじゃなくて、玲音さんが拾いたい相手を見たほうがいいんじゃない」
「拾いたい相手」
「うん。学校案内で届いた子みたいな人とか。今の曲なら、たぶん前向きになりたいけど一歩目が怖い人とか。そういう誰か一人を決めて見たほうが、玲音さんは強いと思う」
沈黙が落ちる。
階段の下のほうで、誰かが通る気配がして、また遠ざかっていった。
やがて玲音は、握っていたペットボトルをようやく開けて一口飲んだ。
「……あんたさ」
「何」
「ほんと、こういう時だけ嫌なくらい核心つくよね」
「褒めてる?」
「半分は」
彼女はそう言ってから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
さっきまでより、呼吸が落ち着いている。
「分かった。次、それでやる」
「次って、今日まだあるの?」
「ある。通しの最後、もう一回」
玲音は階段から立ち上がると、僕の前まで来て、仮パスのストラップを指先で引いた。
「ちゃんと見てて」
「それ、さっきも言ってた」
「今度は意味が違うの」
距離が近い。
僕が反応に困っている間に、玲音は少しだけ低い声で続けた。
「さっきまでの私じゃなくて、次の私を見て。今の聞いたあとで、ちゃんと変われたかどうか。あんたに見てほしい」
その言い方は、ほとんど指名だった。
「……分かった」
「うん。それでいい」
満足したように言って、玲音は先に階段を上がっていく。
僕はその背中を少し遅れて追いながら、なんとなく思った。彼女はきっと、平気そうに見えるぶんだけ、一度誰かへ預けた期待を簡単には引っ込めない。
たぶん、そういうタイプだ。
※ ※ ※
スタジオへ戻ると、最後の通しが始まった。
さっきと同じ曲。
同じ立ち位置。同じメンバー。白須賀は変わらず中央寄りにいて、玲音はその隣に立つ。
でも、音が鳴った瞬間から、見え方が違った。
玲音はもう、隣を見ていなかった。
正確には、必要な確認以外では一切そこへ意識を流していない。視線は正面、その少し先。誰もいないはずの空間に、たしかに誰かを置いているような目だった。
動きの鋭さはそのままだ。
なのに前より柔らかい。無理に力を抜いた感じではなく、芯だけを残して余計な緊張が消えている。サビの最後、白須賀が広く光を投げるなら、玲音はその光が届ききらなかった場所へ、まっすぐ一本の線を通すみたいに見えた。
曲が終わる。
振付師が数秒黙り、それからはっきり言った。
「神崎、それだ」
玲音はすぐには返事をしなかった。
ただ、ほんの少しだけ肩の力が抜けたのが、遠目にも分かった。
「今の神崎、ちゃんと前に届いてた。白須賀とぶつかってないし、逃げてもない。自分の取り方になってる」
「……ありがとうございます」
その声には、さっきまでの硬さがなかった。
白須賀も隣で笑う。
「よかったじゃん、玲音」
「まあね」
軽く返しているけれど、耳が少し赤いのはさっきと同じだった。
ただ今度は、悔しさじゃなくて、別の熱で赤くなっている気がした。
レッスンが終わり、僕が帰る支度をしていると、玲音が当然みたいな顔で出口までついてきた。
エレベーターホールには誰もいない。鏡みたいに光る壁に、僕らの姿だけが映っている。
「で」
玲音が言う。
「感想」
「え、今ここで?」
「今ここで」
逃がさない調子だった。
僕は少し考えてから、正直に言う。
「前のは、白須賀さんの隣にいる玲音さんって感じだった」
「うん」
「でも最後のは、玲音さんがちゃんと真ん中にいた」
真ん中、と言ってから、自分で少しだけ気恥ずかしくなる。
語彙が足りない。もっと上手く言えそうな気がするのに、こういう時に限って簡単な言葉しか出てこない。
けれど玲音は、それを聞いて目を細めた。
「……そっか」
その声はやけに静かだった。
「じゃあ、次からも来て」
「次からも?」
「うん。今日ので確信した」
玲音は一歩近づく。
エレベーターの到着を告げる音が鳴ったのに、彼女は僕の前からどかなかった。
「あんたが見てると、私、ちゃんと私でいられる」
「それ、だいぶ重くない?」
「今さらでしょ」
あっさり言われてしまう。
玲音は僕の仮パスを外し、そのストラップを指に絡めたまま続けた。
「学校案内の時もそうだったし、今日もそう。だから、もう他の誰かに先に見つけられるの、あんまり面白くないんだよね」
「先にって何」
「そのままの意味」
玲音は笑う。
でも、その笑みの奥には冗談で済ませる気のないものが混じっていた。
「私が迷ってる時、最初に気づくのはあんたがいい。変に無理してる時も、ズレてる時も、届いてる時も。ぜんぶ先に見つけて」
そして最後に、彼女は僕の胸元へ仮パスを押し返すようにしながら、少しだけ声を落とした。
「だって、それもうあんたの役目だから」
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