大きな練習場で
白須賀沙也加が学校を休むようになって、教室の空気は目に見えて変わった。
それは別に、たった一人いなくなったから静かになった、という単純な話ではない。
むしろ逆だ。白須賀がいないことで、教室の中にあったはずの中心だけが綺麗に抜け落ちて、その周囲で残された会話や視線が、どうにも行き場を失っているように見えた。
隣の席は空いたままだった。
机の上には何もない。椅子も引かれていない。
担任は朝のホームルームで、事務的な口調のままこう告げた。
「白須賀は当面、公欠扱いだ。東京ドーム公演に向けた調整と準備のため、学校側としても特別に対応する。課題はオンラインで共有するから、余計な詮索はしないように」
余計な詮索はしないように、と言われて素直に引き下がるほど、高校生の好奇心は大人しくない。
案の定、朝の教室はその話題で持ちきりになった。
「やっぱ東京ドームってガチでやばいんだな」
「そりゃ学校来てる場合じゃないでしょ」
「ていうか白須賀さん、今どこで何してるんだろ」
そんな会話が、あちこちから聞こえてくる。
僕はそれを聞き流すふりをしながら、何となく隣の席を見た。
白須賀がいない。それだけのことなのに、教室の一角だけ妙に温度が違うように感じるのは、たぶん気のせいじゃない。
あの人は、いる時はいる時で目立ちすぎる。
でも、いなくなった時までこんなに存在感が残るのは、正直ちょっと反則だと思う。
しかも、今朝は誰も僕へ「白須賀さんと連絡取ってる?」とは聞いてこなかった。
聞いてこないのは、たぶん僕が取っていないと思われているからだろう。実際、その認識は間違っていない。僕は白須賀の連絡先を知らないし、向こうも僕へ気軽にメッセージを飛ばしてくるような関係ではない。
ただ、だからこそ分からない。
あの広すぎる東京ドームの真ん中へ向かって、今、白須賀がどんな顔をしているのか。
※ ※ ※
昼休み。
僕はいつものように屋上へ向かった。
もう何度も同じ場所で同じ昼を過ごしているのに、今日はやけに風が強く感じる。
隣に白須賀がいないだけで、ベンチが少し広い。広いのに、落ち着くかといえば、そうでもなかった。
「やっぱりここにいた」
扉の開く音と一緒に、静かな声が飛んでくる。
振り向くと、天雨美鈴が立っていた。
「美鈴さんも?」
「うん」
今では、彼女がここへ来ること自体はそこまで珍しくない。
最初は白須賀目当てで近づいてきたはずなのに、いつの間にか僕の昼休みの景色に自然に混ざるようになっている。それがいいことなのか、悪いことなのかは、いまだによく分からない。
天雨は僕の少し隣へ座る。
白須賀みたいにぐいぐい距離を詰めてくるわけではない。けれど、最初に比べれば、今の彼女はだいぶ近いところまで来ていた。
「教室、静かだったね」
「静かというか……なんか変だった」
「それ、分かる」
天雨はそう言って、弁当箱の蓋を開ける。
「白須賀さんって、いるだけでその場の基準が変わるから」
「基準」
「うん。誰が話して、誰が見て、どこに空気が集まるか。そういうの、全部持っていく人だから」
その言い方は、少しだけ感心に近い。
でも、完全に好意的なだけではない響きも混ざっていた。
「寂しい?」
不意にそう聞かれて、僕は少し詰まった。
「なんでそうなるの」
「朝から、何回か隣見てた」
「……見てない」
「見てた」
即答だった。
天雨はこういう時、妙に鋭い。
「別に、いないのが変だなって思っただけで」
「同じことだよ」
そう言ってから、天雨は少しだけ視線を落とした。
「私は、少し安心したけど」
「安心?」
「教室で白須賀さんと沢渡くんが自然に並んでるの、見なくて済むから」
その一言が、思っていたよりずっと真っ直ぐで、僕は返す言葉を失う。
「……でも」
天雨はそこで少しだけ言葉を切る。
「今日の沢渡くん見てたら、安心だけでもなかった」
「何それ」
「自分でもよく分かんない」
珍しく、彼女は曖昧なまま答えた。
風が吹いて、黒髪が揺れる。
天雨はそのまま屋上の金網越しに空を見上げた。
「白須賀さん、ちゃんとやる人だもんね」
「うん」
「多分、想像以上に頑張ると思う」
「……そうだろうね」
僕がそう返すと、天雨はちらりとこちらを見る。
「沢渡くん、もし心配してるなら、それは多分間違ってないよ」
「心配っていうか」
「うん。そういうふうに、曖昧にするのも沢渡くんっぽいけど」
少しだけ笑って言う。
でも、その目はどこか静かだった。
「白須賀さん、強いから。強いけど、ずっと一人で強いままってわけじゃないと思う」
その言葉が、妙に引っかかった。
たぶん天雨も、僕と同じものを少しだけ見ていたのだろう。
東京ドームが決まった朝の、あの整いすぎた笑顔のことを。
※ ※ ※
放課後、教室を出たところで柊先輩と会った。
呼び出されたわけではない。
ちょうど廊下の掲示板へ公欠に関する連絡プリントを貼っていたらしく、僕に気づくと、小さく会釈してくる。
「沢渡くん。今、少しいいかしら」
少しだけ、という前置きがあるだけでだいぶ気が楽になる。
最近の僕は、何かが始まる時の出だしに敏感だった。
「何ですか」
「大した話ではないわ」
柊先輩は掲示を終えて、クリップボードを抱え直す。
「白須賀さんの件で、教員側が少し過敏になっているの。公欠の扱い、課題共有、報道対応、校内見学の問い合わせまで来ていて、正直かなり面倒」
「うわ……」
「うわ、で済めばいいのだけれど」
その言い方に、柊先輩らしい疲れが混ざっていた。
「でも、それだけ大きいことなのよね。東京ドーム単独なんて」
「先輩も、すごいと思うんですね」
「思うわよ。私だってそこまで世間知らずではないもの」
淡々とした口調のまま、柊先輩は窓の外へ視線を向けた。
「同時に、怖いとも思う」
「先輩も?」
「ええ。学校の外でここまで大きなものを背負って、平然と教室へ来ていたこと自体が、そもそも少し異常なのよ」
その言葉には、妙な説得力があった。
白須賀は、学校にいる時まで白須賀沙也加として完成していた。
でもそれは、きっと自然体の強さではなく、努力してそう見せていた時間でもあったのだろう。
「今はちゃんと休ませるべきだと思う」
柊先輩は言う。
「学校へ来ないことで不安になる生徒もいるでしょうけど、あの規模の公演前に“普通の高校生活”まで維持しろなんて、あまりに酷だもの」
そこまで言ってから、柊先輩は少しだけ目を細めた。
「……ただ、あなたは少し落ち着かない顔をしているわね」
「そんなに分かりやすいですか」
「分かりやすいわ」
即答だった。
しかも否定の余地がない言い方をする。
「心配?」
「多分」
「そう」
柊先輩は小さくうなずく。
「なら、それでいいと思うわ。気づいている人が一人でもいるなら、多分、白須賀さんは少し救われる」
そう言い残して、彼女は次の掲示を貼りに歩き出した。
その後ろ姿を見ながら、僕は少しだけ考える。
天雨も、柊先輩も、言い方は違うのに似たようなことを言った。
白須賀は強い。でも、ずっと何も感じないまま強いわけじゃない。
多分、それは事実なんだろう。
※ ※ ※
同じ頃。
白須賀沙也加は、都内の大型スタジオにいた。
午前のダンスレッスンを終え、午後はライブ本編の構成確認、そのあと歌唱指導、夕方からまた通し。
時計を見る余裕すらないまま、スケジュールだけが次々に前へ進んでいく。
鏡張りの壁。
何度も繰り返された同じ曲。
汗で重くなる前髪。
足裏に残る鈍い痛み。
スタッフの「もう一回お願いします」という声。
白須賀はその全部に、「はい」と答え続けていた。
東京ドームが決まってから、生活は完全に変わった。
学校を休むと決まった時、少しだけ胸の奥が空いた気がした。ああ、これでもう“普通の高校生”の顔をしなくていい時間が増える、と。
でも、空いたぶんだけ、そこへ別の重さが流れ込んできた。
ドームの空間は広すぎる。
花道の長さも、客席との距離も、カメラの台数も、歓声の反響も、全部が今までと違う。
しかも単独だ。最初から最後まで、自分一人の名前で持たなければならない。
「沙也加ちゃん、今のサビの抜き、もう少しだけ早められる?」
「はい、やります」
返事は自然に出る。
いつものことだ。指示を受けたら応える。できなければ修正する。そうやってずっとやってきた。
それでも、今日の自分が少しだけ噛み合っていないことを、白須賀自身が一番分かっていた。
ダンスの角度が、ほんの少し浅い。
表情へ入るタイミングが、一拍だけ遅い。
歌の終わりに抜く息が、いつもより硬い。
大崩れではない。
でも、“白須賀沙也加ならもっとできる”という基準で見れば、足りない。
「一回止めようか」
振付師の声で音が止まる。
白須賀は息を整えながら、鏡の中の自分を見る。
笑顔は作れる。
でも、今日のそれは少しだけ薄い。
「沙也加、焦ってる?」
問いかけてきたのは、ダンスチームの年上の女性だった。
付き合いは長い。こういう時に、見抜くのも早い。
「……焦ってない、とは言えないです」
「だよね」
責める声ではなかった。
だからこそ、白須賀は少しだけ肩の力を抜いた。
「広すぎて、全部が足りなく見えるんです」
白須賀は正直に言う。
「歌も、動きも、煽りも、表情も。今まで通じてたやり方が、ここでは急に小さく見えて。もっとやらなきゃって思うのに、その“もっと”がどこか分からなくて」
言いながら、自分で少しだけ嫌になる。
こういう弱音を吐くのは好きじゃない。白須賀沙也加は、もっと前向きで、もっと強い人間でいたいのに。
でも、相手はただうなずいただけだった。
「じゃあ今日は、一回“足りない”の確認でいいよ」
「確認?」
「うん。今の自分で何が届かないのか、それを知る日。最初から満点出そうとしない」
白須賀は、その言葉を聞いて少しだけ黙った。
それから、ふと別の声が頭の中で重なる。
――怖いなら怖いまま、そこから始めれば。
東京ドームのステージ脇で、沢渡裕二が言った言葉だった。
上手くもないし、気の利いた慰めでもない。なのに、妙に離れない。
怖いまま。
足りないまま。
それでも、そこから始める。
「……はい」
白須賀は息を吸い、もう一度鏡の中の自分を見た。
汗で前髪が張りついている。
メイクも少し崩れている。
アイドルとして完璧な顔ではない。
でも今は、それでいい気がした。
「もう一回、お願いします」
その声はさっきより少しだけ低く、少しだけ安定していた。
音が流れる。
白須賀は立ち位置へ戻る。
東京ドームはまだ遠い。
国民的アイドルと呼ばれるその先も、まだ手の中にはない。
それでも彼女は、広すぎる鏡の前で、何度でも同じ曲を始める。
足りない自分を知りながら、それでも一歩ずつ、ちゃんと届く場所まで押し上げるために。
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