トップアイドル 東京ドームライブ決定!!!
ショートドラマの放送が終わってから数日、学校ではまだその余韻がくすぶっていたけれど、ようやく僕の周囲の騒がしさも落ち着き始めていた。
落ち着いた、といっても、完全に元通りになったわけじゃない。
朝の挨拶ついでに昨日の番組の話を振られたり、廊下ですれ違う知らない上級生にちらっと見られたり、そういう細かい余波は残っている。けれど、少なくとも“教室へ入った瞬間に全員がこっちを見る”みたいな地獄は薄れてきた。
陰キャにとって、日常が静かであることは何よりも大事だ。
人の噂の中心から外れられるなら、それだけで十分ありがたい。
だからこそ、その朝の空気の変化には、すぐ気づいた。
僕ではない誰かを中心に、クラスのざわめきが明らかに膨らんでいる。
「え、ほんと!?」
「すご……マジで東京ドーム?」
「いや、白須賀さんならありえるのか……」
聞こえてくる単語の時点で、答えはほとんど出ていた。
それでも僕は半信半疑のまま席へ着こうとして、前の席の男子にスマホを突きつけられた。
「沢渡、これ見ろって!」
画面には芸能ニュースの速報。
大きく表示された見出しは、寝起きの頭でも一瞬で理解できるくらい分かりやすかった。
――白須賀沙也加、今夏初の単独東京ドームライブ決定。
そこで、教室の扉が開く。
入ってきた白須賀は、いつも通りだった。
いつも通りに明るくて、いつも通りに目立って、いつも通りに自然な笑顔で「おはよう」と言う。けれどその一言で、さっきまで遠巻きに騒いでいた空気が一気に彼女のもとへ流れ込んだ。
「白須賀さん! これ本当!?」
「おめでとう!」
「東京ドームってやばくない!?」
白須賀は困ったように、でもちゃんと嬉しそうに笑う。
「うん、本当だよ。今日の朝に解禁になったの」
歓声が上がる。
無理もない。トップアイドルとはいえ、東京ドーム単独公演なんて、言葉にした瞬間から意味が違う。芸能に詳しくない僕ですら、そこだけは分かる。
「でも、まだスタートラインって感じかな」
白須賀はそう続けた。
「ここからもっと頑張らないとだから。ちゃんと成功させたいし」
言い方は柔らかい。
けれど、その一言だけ少しだけ重かった。
僕は人だかりの外から、その様子を見ていた。
白須賀は笑っている。みんなが思う“すごいアイドル”の顔を、きっちりしている。なのに、どこか余白がない気がした。完璧に整いすぎていて、逆に少しだけ張り詰めて見える。
その違和感の正体を、僕はまだうまく言葉にできなかった。
※ ※ ※
昼休み、僕はいつものように屋上へ向かった。
人のいない場所でパンを食べて、何も考えずに風を受ける。それが僕の一番落ち着く時間だ。
もちろん、最近はその時間も完全には静かじゃない。
「あ、いた」
案の定、白須賀が屋上の扉を開けて入ってきた。
「……来ると思った」
「ひどいなあ。でも、来るよ」
彼女は僕の隣へ腰を下ろす。
春から初夏へ移る途中みたいな日差しが、手すりに白く反射していた。
「朝のやつ、見た?」
「見た。東京ドームって、本当に?」
「うん。本当に」
「しかも単独なんだよね」
「そう」
東京ドーム。単独。
単語を並べるほど現実味がなくなる。
「すごいね」
ようやくそれだけ言うと、白須賀は少しだけ目を細めた。
「うん。すごいと思う」
「自分で言うんだ」
「だって、実際そうだもん」
その返しはいつもの白須賀らしかった。
でも、そのあとで彼女は少しだけ空を見上げる。
「……すごいけど、怖いよ」
ぽつりと落ちたその本音に、僕は思わず横顔を見た。
白須賀は笑っていなかった。
笑っていないのに、別に暗い顔でもない。ただ、事実だけをそのまま口にしたみたいな静かな声だった。
「東京ドームって、ニュースで聞く分には夢みたいでしょ。でも、いざ自分が立つってなると、夢っていうか、重たいんだよね。埋まるのかなとか、私一人で持てるのかなとか、そういうの、考えないわけじゃないし」
「……そっか」
「うん。でも、言わないけどね」
「なんで」
「だって、言ったらダサいじゃん」
言いながら、白須賀はようやく少し笑った。
その笑い方が、朝の教室で見せていたものよりずっと人間っぽい。
「みんなには、すごいねって言われたいし、私もちゃんと“すごい”で返したい。トップアイドルなんだから、怖いとか不安とか、簡単に見せたくないでしょ」
その気持ちは分かる気がした。
白須賀は、ただ華やかなだけの人じゃない。華やかでい続けることを、自分で選んで、それをやり続けてきた人だ。
だからこそ、弱い顔を見せないと決めているのだろう。
「でも、沢渡くんには言った」
「僕には?」
「うん」
白須賀は何でもないみたいに言う。
「だって、変に隠しても、沢渡くんたまに気づくから」
それは買いかぶりだと思う。
でも否定する前に、白須賀は僕の顔を覗き込むようにして続けた。
「だから、絶対見に来てね」
「……行くよ」
「ほんと?」
「ほんと」
そう答えると、彼女は小さく息を吐いた。
「じゃあ、頑張れる」
その一言だけが、ひどく本気に聞こえた。
※ ※ ※
その週の土曜。
僕は白須賀から渡された関係者パスを持って、東京ドームの関係者入口に立っていた。
空が広いとか、建物が大きいとか、そういう感想は入口の時点で全部吹き飛んだ。
東京ドームは、ただ大きいのではなく、空間の感覚そのものを狂わせる。機材車の列、何本も伸びるケーブル、忙しなく行き交うスタッフ、見上げても終わらない天井。どこを見ても、今まで見た現場より一段上のスケールだった。
場違いだ。
この一言に尽きる。
「ちゃんと来たんだ」
声をかけられて振り向く。
そこにいたのは玲音だった。
ラフな私服にキャップを被り、首から関係者パスを下げている。前に比べればだいぶ見慣れた姿だけれど、こうして芸能の現場にいると、やっぱり“向こう側の人間”に見えた。
「玲音も来るんだ」
「来るでしょ。沙也加の初単独ドームなんだから」
玲音は当然みたいに言って、ドームの内部を見上げる。
「業界の人間ならみんな気にしてるよ。成功するかどうかだけじゃなくて、どうやって成功させるかも含めて」
「そんなに違うの」
「違う」
即答だった。
「アリーナを埋めるのと、ドームを一人で持つのは別物。熱量の作り方も、見せ方も、歌の飛ばし方も、何もかも変わる。しかも沙也加、今回が初単独だし。簡単なわけない」
玲音の口調はいつもの少し棘のあるものだったけれど、そこに混じる現実感は重かった。
スタッフに案内されて客席へ入る。
当然、まだ誰もいない。けれど、空席しかない客席を見た瞬間、逆に圧迫感があった。ここが全部埋まる前提で準備が進んでいる。その事実だけで、空間の重みが違う。
「やば……」
思わず漏れる。
玲音は少しだけ笑った。
「でしょ」
少しして、ステージ側の照明が落ち、一部だけが明るくなる。
その中心へ、白須賀が出てきた。
衣装ではない。レッスン着に近いシンプルな服装だ。
それでも、広いステージの真ん中へ立った瞬間、そこが彼女の場所みたいに見えるのだからおかしい。
最初は立ち位置確認だった。
次に花道の歩幅。煽りの入れ方。照明の当たり具合。映像演出との噛み合わせ。歌唱は短いフレーズだけなのに、それでもやることが多すぎる。
白須賀は一つ一つに応じていく。
スタッフの指示を聞き、すぐに修正し、次へ進む。その姿だけ見れば、完璧だった。
けれど、三回目の確認で、ほんの少しだけズレた。
サビ前の入りが早い。
立ち止まる位置が半歩ずれる。
次の一節では、声の抜き方が少しだけ硬い。
微細だ。
でも、近くで見ていれば気づく程度には、白須賀の中で何かが噛み合っていない。
「白須賀さん、もう少しだけ“空間全部を使う感じ”でお願いします!」
スタッフの声が飛ぶ。
言葉にするのは簡単だ。
でも、空間全部を使うなんて、どう考えても正解のない話だった。
「はい、すみません。もう一回お願いします」
白須賀はすぐに返す。
声は明るい。外から見れば問題ない。なのに、その背中がほんの少しだけ小さく見えた。
「……始まった」
隣で玲音が小さく言う。
「何が」
「壁」
その一言が、妙に重い。
玲音は前を見たまま続けた。
「決まってから、ずっとやってるよ、あいつ。歌もダンスもトレーニングも、今までよりかなり増やしてる。終わったあとも映像見返して、寝るの遅いのに、翌朝にはちゃんと笑ってる。でも今、たぶん最初の“分かんない”にぶつかってる」
「分かんない?」
「何が正解か」
玲音の声は低かった。
「アリーナまでのやり方をそのまま広げても足りない。でも、ドームの正解なんて最初から持ってるわけないでしょ。しかも沙也加、自分がトップでいなきゃって気持ち強いから、余計に焦る」
僕はステージの白須賀を見る。
彼女はまた位置へ戻り、次の指示を聞いていた。明るく、自然に、何も問題がないみたいに。
「なんで僕に言うの」
そう聞くと、玲音はほんの少しだけ肩をすくめた。
「沢渡、あいつのそういうの気づくじゃん」
「気づいても、僕に何ができるの」
「知らない。でも、あいつ多分、沢渡にはそのうち隠しきれなくなるよ」
断定だった。
「だから、見ててあげて」
玲音はそこでようやく僕を見た。
「沙也加、こういう時ほど一人で抱えるから」
それだけ言って、玲音は先に席を立つ。
たぶん、これ以上は説明しないつもりなのだろう。
僕は残されたまま、もう一度ステージへ目を向けた。
白須賀沙也加は、空っぽの東京ドームの中心で立っている。
まだ観客はいない。歓声もない。なのに、その静けさの中で、彼女はすでに何万人分もの期待と向き合っているように見えた。
※ ※ ※
その日の確認は、日が傾くまで続いた。
最後まで白須賀は崩れなかった。
笑顔も、返事も、立ち居振る舞いも、全部きっちりしていた。スタッフに礼を言い、次の工程の確認を受け、最後に関係者たちへ軽く頭を下げる姿まで、完璧なトップアイドルだった。
でも、その全部が完璧だからこそ、逆に危うかった。
帰り際、僕は少しだけ一人になりたくて、客席側の通路へ出た。
そこから見下ろしたステージの端に、まだ白須賀が一人で残っているのが見えた。
スタッフはいない。
音もほとんど止まっている。広いドームの中に、彼女だけが残されているみたいだった。
近づくと、白須賀は気づいて小さく笑う。
「あれ、沢渡くん。まだいたんだ」
「そっちこそ」
「ちょっとだけ、残りたくて」
その声は静かだった。
僕はステージ脇の段差に腰を下ろし、同じように空の客席を見上げる。
誰もいないのに、見られている気がする。そんな空間だった。
「……これ、やばいね」
正直にそう言うと、白須賀は少しだけ吹き出した。
「でしょ?」
「うん。やばい」
「すごい感想」
「語彙なくなるよ、普通に」
そのやり取りのあと、白須賀は少しだけ黙った。
そして、ぽつりと言う。
「今日ね、ちょっとだけ分かんなくなった」
「何が」
「どうしたら届くのか」
彼女は客席を見たまま続けた。
「今までだって大きい会場はあったし、ライブで外したことなんてほとんどない。でも、今日ここに立ったら、急に今までのやり方が全部小さく見えて。もっと大きく、もっと強く、もっとちゃんとしなきゃって思うのに、その“ちゃんと”が何か分からなくなって」
その言葉は、思っていた以上に率直だった。
「みんなには言えないよ。こんなの。東京ドーム決まって、不安ですなんて、ダサすぎるし」
「ダサくないと思うけど」
「トップアイドルとしてはダサい」
即答だった。
でも、その返しのあとで、少しだけ笑う。
「だから、多分、今は沢渡くんにしか言ってない」
それは冗談みたいに軽く言われたのに、意味だけが重かった。
僕は言葉を探す。
うまい励ましなんて、僕にはできない。アイドルのことも、ドームのことも、専門的には何も分からない。
それでも、さっきから頭の中に引っかかっていることがあった。
「白須賀さん」
「うん」
「今日、怖かった?」
聞くと、彼女は少しだけ目を瞬かせた。
それから、すぐには否定しなかった。
「……うん」
「じゃあ、多分それでいいんじゃない」
「え?」
「怖くなかったら、こんなに考えないと思うし」
自分でも雑な言い方だと思う。
でも、続けるしかなかった。
「空っぽなのに怖いってことは、ちゃんとその重さ分かってるってことでしょ。分かってる人のほうが、たぶん届く気がする」
白須賀は何も言わない。
だから僕はもう少しだけ続けた。
「最初からドームの正解なんて持ってなくて当たり前だと思う。でも、君が今までやってきたのって、結局いつも“届かせようとすること”だったんじゃないの。だったら、今日だってそこから始めればいいんじゃないかなって」
言い終わったあと、少しだけ沈黙が落ちる。
広い空間の静けさが、さっきより少しだけ柔らかく感じた。
白須賀はしばらく客席を見上げてから、ふっと息を吐く。
「……沢渡くんって、たまにずるい」
「何が」
「欲しい時に、欲しいことっぽいの言うところ」
それはたぶん、言いすぎだ。
でも白須賀は、そうじゃない顔をしていた。
「ありがと」
今度の笑顔は、朝の教室で見せる完璧なものとは違う。
もっと静かで、もっと個人的だった。
「ちょっとだけ、見えたかも」
「何が」
「私が今日ここで怖かった意味」
そう言って、白須賀はもう一度だけドームを見上げた。
「絶対成功させる」
その声は小さい。
でも、確かに強かった。
「今度こそ、ちゃんとここを私の場所にする。トップアイドルって言われるだけじゃなくて、ほんとにそうなんだって思わせる」
その宣言を聞きながら、僕は思った。
多分、このライブはここからもっと大変になる。
白須賀沙也加は、きっと想像以上に努力する。無茶なくらいに。
その途中で、また何度か壁にもぶつかるだろう。
でも、今の彼女なら、少なくとも逃げはしない。
ステージを降りる前、白須賀は僕を振り返って言った。
「沢渡くん」
「うん」
「最後まで、ちゃんと見ててね」
その一言だけが、広い東京ドームの中で妙に長く残った。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
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