私は本気なの
やっぱり、この現場はただの撮影じゃない。
そして多分、今度は神崎玲音とは別の方向から、厄介なものが始まりかけている。
そんな予感を抱えたまま、午後の撮影はさらに進んでいった。
中庭の自由会話パートが終わると、次は昇降口前での移動シーンだった。
転校してきた白須賀を中心に、在校生役の僕たちが自然に会話を重ねながら校舎を移動する――台本上はそれだけの場面だ。けれど現場の実態としては、誰が誰の近くへ立つか、誰が誰へ視線を向けるか、そういう細かいところまで全部拾われている。
神代蓮は相変わらず白須賀の近くを取るのがうまかった。
人懐っこい笑顔で場を和ませながら、一歩だけ距離を詰める。二階堂蒼真は逆に、押しすぎないことを武器にしている。必要な時だけ白須賀へ話しかけて、その余白ごと印象に残そうとしている感じだ。
どちらも分かりやすかった。
分かりやすいのに、それなりに強い。ああいうのがちゃんと俳優としてやっていける人間なのだろう。
僕はといえば、相変わらず自分の位置を守っていた。
前へ出すぎず、埋もれすぎず、必要なところだけ応じる。陰キャの生存戦略としては、かなり正しい立ち回りのはずだった。
ただ、その日はどうも、そうやって隅へ逃げるだけでは済まない流れらしかった。
※ ※ ※
「はい、じゃあ機材ちょっと入れ替えます! キャストのみなさん、立ち位置そのままで少し待ってください!」
スタッフの声が飛び、中庭の空気が一瞬ばたつく。
次のカットは移動撮影らしく、大きめのカメラが載ったスタビライザー機材が運び込まれてきた。補助のライトスタンドも何本か立て直され、スタッフたちが手早くケーブルをまとめていく。
こういう裏方の仕事を見ていると、芸能の現場はやっぱり慣れた人間の手際で回っているのだと分かる。
「うわー、機材かっこいー」
吉良明日香が、少し離れた位置から目を輝かせて言った。
この人は本当に、何に対しても反応が素直だ。
金髪の華やかな見た目に加えて、感情の振れ幅がそのまま表に出るから、いるだけで周囲の温度が少し上がる。白須賀のように圧倒的な中心ではないが、明日香には明日香の“場を明るくする力”が確かにあった。
「明日香、そこ少し危ないわよ」
西条静が静かに声をかける。
たしかに、明日香の立っている位置は、ちょうど機材搬入の導線に近かった。
「だいじょぶだいじょぶー。邪魔しないように見てるだけだから」
そう言って笑う明日香の声に、何人かのスタッフもつられて笑う。
悪い意味ではない。たぶん、彼女はこうして現場の緊張を少しほぐす役回りにも慣れているのだろう。
その時だった。
「――あっ、待って、そっち押さえて!」
スタッフの焦った声が飛ぶ。
反射的にそちらを見ると、移動中だったカメラ台車の片輪が、地面のわずかな段差に引っかかっていた。勢いのままバランスを崩し、上部に固定されていたカメラごと、ぐらりと大きく傾く。
その先にいたのは、明日香だった。
彼女はちょうど別の方向を見ていて、まだ気づいていない。
気づいていないまま、倒れてくる機材の進路に立っている。
考えるより先に、体が動いていた。
「吉良さん!」
駆け寄って、腕を掴んで引く。
その勢いのまま、半歩どころか一歩分くらい強引に自分の側へ引き寄せる。明日香の体が大きく傾き、そのまま僕の胸元へぶつかるように倒れ込んできた。
次の瞬間、さっきまで彼女がいた場所のすぐ横へ、カメラのフレーム部分が鈍い音を立ててぶつかった。
空気が止まる。
「……っ」
衝撃が肩口へ少しだけ伝わる。
直撃ではない。でも、避けきれなかった金属の端が、制服の上から掠めたらしかった。
「大丈夫ですか!?」
「明日香ちゃん!」
「機材止めて、止めて!」
一気に周囲が騒がしくなる。
僕は数秒遅れて、自分の腕の中にまだ明日香がいることに気づいた。
距離が近い。近すぎる。慌てて手を離そうとしたが、明日香のほうが先に僕の制服を掴んでいた。
「……え、ちょ、今の」
明日香の声が震えている。
いつもの軽さが、きれいに消えていた。
「大丈夫? 怪我してない?」
とっさにそう聞くと、明日香は僕を見上げたまま、数回瞬きをして、それからようやく小さくうなずいた。
「わ、たしは……たぶん……」
「裕二くん、肩!」
西条の声が飛ぶ。
そこで初めて、自分の左肩のあたりにじわっとした痛みがあることに気づいた。
「少し当たっただけです」
「少しじゃないでしょ」
今度は白須賀だった。
彼女はもう目の前まで来ていて、僕の肩口を確かめるように見ている。笑っていない。こういう時の白須賀は、妙に静かで、その静かさが逆に怖い。
柊先輩もすぐにスタッフと何かを確認し始めた。
天雨は少し離れた位置からこちらを見ていたが、その顔色がいつもより明らかに悪い。
「沢渡くん、保健室行くよ」
白須賀が言う。
「いや、でも撮影――」
「知らない。今はそっちのほうが先」
いつになく強い言い方だった。
その時、ようやく明日香がはっきりと息を吸う。
「……っ、やば、ほんとにごめん!」
「いや、吉良さんが謝ることじゃ」
「だって私、ぼーっとして……」
「明日香」
西条が短く名前を呼ぶ。
たったそれだけで、明日香は少しだけ言葉を止めた。たぶん、責めているのではなく、今は落ち着けと言っているのだ。
明日香は唇を噛み、それからもう一度僕を見た。
「……ありがと。ほんとに」
その言葉は、さっきまでの彼女からは想像できないくらい真っ直ぐだった。
※ ※ ※
結局、僕は白須賀に半ば引きずられるようにして保健室へ連れて行かれた。
幸い、怪我は大したものではなかった。
制服の上から掠めて赤くなっただけで、湿布を貼って安静にしていれば問題ない程度。保健の先生にも「びっくりしたでしょう」と言われて終わった。
「だから言ったのに」
保健室を出たあと、白須賀がぽつりと言う。
「何を」
「沢渡くん、簡単に体張りすぎ」
廊下を歩く彼女の横顔は、まだ少し固かった。
怒っている、というより、別の感情を無理に抑えているように見える。
「だって、目の前だったし」
「そういうとこ」
「そういうとこ?」
「そういうとこだよ」
それ以上は言わなかった。
現場へ戻る途中、渡り廊下の角で明日香が待っていた。
さっきまでの天真爛漫な雰囲気は少し引いていて、代わりに、落ち着かない子犬みたいな顔をしている。
「……いた」
僕たちを見るなり、小走りで近づいてくる。
西条も少し後ろからついてきていたが、こちらへ声はかけず、明日香の様子を見ているだけだった。
「肩、だいじょぶ!?」
「うん。湿布で済んだ」
「ほんと!?」
「ほんと」
そう答えると、明日香は胸を撫で下ろした。
その安堵が大きかったぶんだけ、次に向けられた視線も強かった。
「……あの、さ。ありがと、ほんとに。私、ああいうの避けるの得意じゃなくて。ていうか普通に固まってたし」
「誰でもあれは固まると思うけど」
「でも、裕二くんは来たじゃん」
さらっと下の名前を呼ばれて、一瞬だけ言葉に詰まる。
明日香はたぶん、そういうところに躊躇がない。名札と台本を見れば覚えるし、距離を縮める必要があると判断したら、そのまま踏み込んでくるタイプだ。
「……まあ、近かったし」
「近かっただけで、あんなすぐ動けなくない?」
明日香はまっすぐ僕を見る。
「さっきさ、めっちゃかっこよかった」
「それは言いすぎ」
「言いすぎじゃないって。なんか、ずっと端っこで静かな人だなーと思ってたのに、いざって時だけ一番早いの、反則でしょ」
反則と言われても困る。
でも、その声色にはさっきまでの軽さだけじゃない熱が混ざっていた。
西条がそこで、静かに口を挟んだ。
「明日香、今の言い方だとまた騒がしいわ」
「えー、だってほんとだもん」
「ほんとのことほど、勢いで言うと雑になる」
「静、たまに先生みたいなこと言うよね」
口ではそう返しながらも、明日香は一度深呼吸してから、改めて僕に向き直った。
「……ありがと、裕二くん。ちゃんと、覚えとく」
今度のそれは、最初よりずっと静かだった。
僕が返答に迷っていると、向こうからスタッフが「現場戻りまーす!」と声を張り上げる。
休憩はもう終わりらしい。
明日香は小さく「あとでまた話すね」と言い残して走っていった。
西条はその背中を見送ってから、僕へ目を向ける。
「あなた、本当にそういう星の下にいるのね」
「どういう意味ですか」
「自覚がないところまで含めて、厄介だという意味よ」
言うだけ言って、西条も現場へ戻る。
結局、その言葉の意味を考える暇もなく、僕はまた撮影へ引き戻された。
※ ※ ※
そのあとの撮影は、何事もなかったかのように進んだ。
ただし、本当に“何事もなかった”わけではない。
明日香は前より少しだけ僕の近くへ来るようになった。
あからさまではない。けれど、場面の合間に視線が合う回数が増え、移動のタイミングもなんとなく近くなる。分かる人には分かる程度の変化だが、僕みたいな陰キャでもさすがに気づく。
そして、その変化に気づいているのは、たぶん僕だけではなかった。
白須賀は撮影中こそ完璧にやっていた。
神代や二階堂の視線も、明日香の明るさも、全部受け流しながら、企画の中心として一切ブレない。
でも、撮影が終盤へ差しかかるにつれて、たまにこちらを見る目だけが少しずつ深くなっていくのが分かった。
天雨はもっと分かりやすい。
エキストラの立ち位置にいながら、明日香が僕へ話しかけるたびに、静かな顔のまま空気だけが冷えていく。
柊先輩は表情を崩さない。
ただ、現場管理の名目で僕の近くを通る回数が明らかに増えていた。
ろくでもない。
やっぱり、この企画そのものがろくでもない。
※ ※ ※
日がだいぶ傾き、最後のカットが終わった頃には、校舎の窓ガラスが夕陽を強く跳ね返していた。
「はい、オールアップでーす! みなさんお疲れさまでした!」
スタッフの声に、あちこちから拍手が上がる。
キャストたちもそれぞれ笑顔で挨拶を交わし、ようやく現場の緊張が解けていく。
僕は人の波が落ち着くのを待って、そっと帰ろうとしていた。
こういう時、目立たずフェードアウトするのが一番だ。大役を終えた達成感とか、キャスト同士の記念写真とか、そういう輪に自分が入る未来は最初から想定していない。
「沢渡くん」
呼び止められる。
振り向くと、白須賀だった。
「ちょっと来て」
「え、もう帰るんだけど」
「少しだけ」
その声が妙に静かで、断れる感じではなかった。
連れて行かれたのは、撮影に使った教室の一つだった。
すでに照明も半分落とされ、廊下の喧騒もここまでは届きにくい。夕陽が斜めに差し込んで、机と椅子の影が長く伸びている。
白須賀は教室の中央まで来ると、そこでようやく立ち止まった。
「……何」
先に口を開いたのは僕だった。
沈黙が長いと落ち着かない。
白須賀はすぐには答えない。
ただ、窓際の光を背にしたまま、じっと僕を見ている。その目が、今日は撮影中に見せていたアイドルの顔でも、友達として笑っていた顔でもないことだけは分かった。
「沢渡くんって、ほんとにさ」
「うん」
「どうしてそうやって、すぐ助けに行くの」
「……どうしてって、危なかったし」
「そうだよね。危なかったもんね」
言い方は穏やかだった。
でも、その穏やかさが逆に怖い。
「分かってるよ。明日香ちゃんが悪いわけじゃないし、沢渡くんが助けたのも間違ってない。あの場で動けたの、たぶんすごいことだと思う」
「じゃあ何」
聞くと、白須賀はほんの少しだけ唇を噛んだ。
「……やだった」
小さい声だった。
「見たくなかった。沢渡くんが、あんなふうに他の子を抱き寄せるの」
一瞬、言葉が出なかった。
白須賀は自分で口にしたあと、少しだけ目を伏せる。
けれど次の瞬間には、もう逃げないと決めたみたいに顔を上げていた。
「お芝居ならまだいいの。仕事だって思えるから。でも、ああいうのって本気でしょ。本気で助けようとして、本気でその子のこと守ってるでしょ」
「守るって、大げさだよ」
「大げさじゃない」
今度は、はっきりと言い切られた。
「沢渡くん、自分で思ってるよりずっとそういうの重いんだよ。助けられた側は、絶対忘れない。私だってそうだったし、美鈴ちゃんもそう。玲音だって、多分そう。だから、簡単にやらないで」
その一つ一つの名前が、やけに現実感を持って落ちてくる。
白須賀はゆっくりと僕へ近づいた。
机一つ分の距離が、半分になって、さらに半分になる。
「私が最初だったのに」
その言葉は、前にも聞いたことがある。
けれど今のそれは、屋上で冗談めかして言った時よりずっと本気だった。
「最初に沢渡くんを見つけたの、私だった。最初に友達になろうって言ったのも、私。なのに最近、みんな平気で近づいてくるし、沢渡くんも普通に受け入れちゃうし……」
そこで白須賀は一度息を吸う。
「ほんとは、全然普通じゃないから」
教室の静けさが、やけに濃かった。
「私、もっと軽い気持ちだったはずなの。最初はほんとに、ちょっと面白そうって思っただけ。放っておけないなって、それくらいだった。でも今は違う」
白須賀の指先が、僕の制服の袖をそっと掴む。
「沢渡くんが他の子と話してるだけで気になるし、近いと嫌だし、助けたらもっと嫌。今日なんて、撮影中ずっと変な顔しないようにするの大変だった」
笑って言っているわけではなかった。
その声音にはむしろ、隠しきれなくなったものをそのまま差し出すみたいな危うさがある。
「だから、覚えておいて」
「……何を」
聞き返すと、白須賀はまっすぐ僕を見上げた。
「私は、沢渡くんを誰かに“ついで”で取られたくない」
その言い方が妙に白須賀らしかった。
トップアイドルとして誰よりも光を浴びる人なのに、こんな時だけはすごく個人的で、ひどく独占欲が強い。
「友達、って言ったの私だよね」
「……うん」
「じゃあ、その続きも、ちゃんと私にちょうだい」
意味が分かるようで、分かりたくない言葉だった。
僕が返事をできずにいると、白須賀は袖を掴んだまま、少しだけ目を細める。
「沢渡くん、たぶんまだ分かってないでしょ」
「何を」
「私がどれくらい本気か」
その瞬間だけ、教室の温度が変わった気がした。
外ではまだスタッフの片づける音がしている。
でもここだけは、別の場所みたいに静かで、息が詰まる。
「だから、今すぐ答えなくていい」
白須賀はそう言って、ようやく僕の袖から手を離した。
「でも、あんまり他の子に優しくしすぎないでね。私、そういうの見せられると、ちゃんと嫌だから」
最後の一言が、冗談に聞こえなかった。
そのまま白須賀は先に教室を出ていく。
残された僕は、夕陽の差し込む机の間に一人立ち尽くした。
撮影は終わった。
でも、面倒ごとはたぶん、ここからが本番なのだと思う。
しかも今度は、仕事でも演技でもなく、もっと厄介な形で。
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