第31話 青葉さんは仕事に疲れる
通勤電車の中で押し潰される朝には毎度のことながら辟易する。でも今日は青葉さんとの同居同盟の日だ。楽しい飲み会のような日々はまだ終わらず、平和に続いている。
ちなみに今日はまだ行き先が決まっていない。年末が近づいているせいだ。平日夜の店は忘年会で埋まり始め、その週に入って「何食べようか」なんて言い始める俺達を歓迎してくれるところは少ない。青葉さんと飯を食う場が格式張っていないとはいえ、居酒屋さえその有様だ。
運よく入れたとして、人が多くてうるさい場所は俺も青葉さんも好きじゃない。青葉さんの家で何かを食べるのが吉か。そんなことを考えながら、寒気から避難するようにオフィスに逃げ込んだとき、青葉さんからのLINEに気付いた。
『ごめん今日同盟スキップで』
それを見た瞬間、ひゅっと変な呼吸をしてしまった。
なぜ、今週はスキップなのか。理由はまさか、俺の変化に気付いたからか。いくら青葉さんでも、今の俺を部屋に招き入れることはできないと、そう判断したのか。
指先が震えた。何を言っても不自然な返事になってしまうような気がしつつ、でも、気付かれているはずないと自分に言い聞かせ、返事を打った。
『おっけい。でも何かあった?』
『緊急対応多分今週土日無』
一瞬漢語かと思った。
でも、そうか。緊急対応が入っただけか。コンプライアンス部ならおかしなことじゃない。口実ではないだろう、多分。
『さすがコンプライアンス部、お疲れ』
安堵に任せたその返事に、既読はついたが、それ以上レスはなかった。いつもの席に向かっても、特に慌ただしい対応を見せている人はいないが、コンプライアンス部の緊急対応とはそういうものらしい。どこからともなくメールが飛んできて、ヤベェ案件だと判断されて関連部署だけで一斉に水面下にて動き始める。前回のサイバー攻撃のときがそうで、例えば営業部の森川は何も知らないまま終わっていた。
ただ、スキップの原因が多忙ゆえ……。席に着きながら、俺はしばらく悩んで、スマホを取り出した。
『飯作っとこうか?』
送信してから後悔した。いやいや、いくら同居同盟を結んで1ヶ月経つっていったって、風呂も布団も借りてる中だからって、飯を作っておこうか、はないだろう。しかし送信を取り消せば逆に「何?」と聞かれるのは見えている。
LINEに既読はつかないままだった。だからこそ、やっちまった……という思いのほうが強くなり始める。どうすれば相手に気付かれずにこのメッセージを削除できるんだ。そんな方法はない、というのはよく知っている。それでも。
うんうん悩みながらパソコンを起動し、チームミーティングに出る準備を整えていたとき、タンタンタンとフロアカーペットを踏む音がした。
「白沢くんっ、これよろしくお願いします!」
あれ、青葉さんだ、とその姿を認めたときには、ガシャンッと勢いよく俺のデスクに青葉さんの手が叩きつけられていた。えっ何、と声を発する間もなく、青葉さんは身を翻す。
唖然としてその後ろ姿を見送っていた俺は、青葉さんがいなくなってから、デスクに置かれたものの正体に気付いた。
鍵だった。合いカギがキーホルダー代わりにされている、青葉さんの家の鍵だ。
しばらく思考が停止していた。呆けた頭でミーティングを終わらせた後、思い出したのは、青葉さんは俺をくん付けで呼ぶくらい余裕がなかったらしい、ということだ。
午後、青葉さんのスケジュールをオンラインでチラ見した。会議が詰まっているわけではないが、夜7時半からしっかり会議が入っている。おそらく午後に手を動かし、その確認作業を夜に始めるに違いない。
だから俺は夕飯を作って待っておくべきなのだろうか――というのは愚問だ。
夕方6時ぴったり、俺は退勤を決める。ここまでは判を押したような日々と変わらないのに、足はあの頃と真逆のホームに立つ。電車に揺られて到着した町は、最近少しずつ見慣れた場所で、でもスーパーへの道のりはまだ慣れない。生鮮食品コーナーに立ち寄りながら、青葉さんって何が好きなんだろうと思い返す。イメージ、好き嫌いはない。ああでも、パクチーは好きじゃないって言ってたな。まあ今からパクチーを使う料理なんて作るわけないんだけど。というか俺のレパートリーなんて野菜炒めと生姜焼きくらいしかないんだけど。
青葉さんの家の冷蔵庫に何があるかも分からず、仕方なく必要なものを買った。そうして青葉さんの部屋に辿り着き、鍵を取り出しながら、少し緊張した。
鍵穴に鍵を差し込み、軽く回す。静かな音と共に扉が開き、青葉さんの部屋が姿を現す。今朝は急いでいたのか、リビング扉は開いていた。
「……おじゃまします、って家主もいないのに変だけど」
部屋にはもちろん誰もいないし、気配もない。それでも、ソファの上のあのもこもこの上着とか、洗い場に干されたカップだとかに、青葉さんの残滓がある。
肉を冷蔵庫に入れながら、緊張で手が震えた。キッチンエリアに長居したことがないせいで、今まで気に留めなかったものがやたら目についた――パントリーに置かれたバランス栄養食とか、6枚切りの食パンとか、ドリップコーヒーの箱とか。
食事ってのは、リビングよりもよっぽどその人の生活が見える気がする。
青葉さんからLINEがきたのは、8時手前だった。いい加減腹が減ったなあ、というタイミングだった。
『いまかいしやでた』
一瞬古文かと思った。
『おつかれさん』
『晩ご飯は何ですか?』
『生姜焼き』
『大好き』
…………生姜焼きがな! 動揺した自分の頬を張り倒したくなった。……これだからチャットは好きじゃないんだ。
9時前、玄関の向こう側から足音がした。扉が開く音と一緒に「あーっ寒いっ」と青葉さんの声がした。
帰ってきた青葉さんは、キッチンの俺を見て、もう一度口を開く。よく分からん編み込みのされてる髪がぼさぼさで、しなびて見えた。
「ただいまっ」
「……あ、うん」
「そこはおかえりでしょ」
「おかえり……いやそうなんだけど、家主でもないのになと思って」
「あー生姜の匂いがする、ありがとう、早く食べたい、お腹空いた」
わんわんと子どものように喚きながら、青葉さんは自室に飛び込む。そしてやはり、パーカー姿になって出てきた。今日は鍋の音で着替えの音が聞こえなかったからよかった。
「このフライパン使ったけどよかった?」
「なんでもいい」
「なんでもいいことはないだろ」
「なにか手伝う? あ、お味噌とく」
青葉さんの声は低く、そして響く。青葉さんの声は、音が波であることへの説得力を持っている。それでも乱暴に聞こえないのは、いちいち言葉が丁寧だからかもしれない。
外から帰ってきたばかりの青葉さんの鼻は赤かった。今日はコンタクトのままで、きっと食後に眼鏡に変えるつもりなのだろう。味噌汁の中身が豆腐だけと見るや「冷蔵庫にわかめあるよ」とコメントした。
「さすがに冷蔵庫内を勝手に物色するのは」
「でもお味噌入れる予定だったんでしょ」
「そこは必要最小限だから」
「とにかく入れていいってことね、了解」
俺が生姜焼きを焼き、青葉さんが味噌汁と米をよそう。さすがに小鉢に入れるようなものはないんだ、と積み上げた生姜焼きを出しながら言い訳すると「じゃ明日たくさん野菜食べよ」と笑われた。まるで明日の夕食も一緒にとるかのような口ぶりだったが、何も言わずにいた。
青葉さんは、俺が焼いた生姜焼きを、「おいしい」と頬張った。味噌汁の器を両手で持って飲みながら「あったまるう」と呟く。
青葉さんは仕事の話はしなかった。コンプライアンス部の話はコンフィデンシャルなので、というのが青葉さんの口癖で、それはたとえ相手が俺でも同じこと。食事を終え、食器を片付け、ゲームをしていても同じだった。
「今日、帰ろうか?」
だからそう提案した。青葉さんはいつもより口数も少なく、なんとなく肩が落ちてしょんもりしているというか、しなびていた。口を開くとカラ元気のようなセリフばかりでもあった。それに、土日も仕事をするらしいし、いつもみたいに0時過ぎまでゲームをするわけにもいかないだろう。
青葉さんは、だらりとソファのひじ掛けに持たれながら「えー?」と剣呑な声を上げてこちらを見る。
「なんで?」
「なんでって……緊急対応で疲れてるんだろ?」
俺がいると気を遣うじゃないか、と思ったのだが、青葉さんは首を横に振った。
「だから普段通りにいてほしい」
そりゃ、俺だって、こんな枯れた青葉さんを置いて帰りたくはない。疲れているなりに何かできればいいと思う。
でも俺達の関係は、ただの同居同盟でしかない。1週間という意味では3分の1も一緒に過ごさない。仕事の内容だってコンフィデンシャルが多いからとほとんど共有しない。いうなれば会社の一同僚と大差ない。
その俺が青葉さんと一緒にいることで青葉さんの負担にならないか。――例えば、相原のように。
まるで心臓に鳥肌が立ったような感覚がした。悪寒に似たそれに震えてしまいそうになりながら、声を絞り出す。
「……いていいなら。青葉さんにとって俺が邪魔にならないなら、いるよ」
「いたほうがいい」
迷いのない声だった。波としての説得力を持つその声は、緩やかに俺の胸に押し寄せる。
「仕事は9時頃からぼちぼちやろうと思ってる。でも今はいてほしい。なにかもてなせるわけじゃないけど」
「……同居同盟なんだからもてなしなんて要らないだろ」
「それはそう。お互い接待もキャリーも要らないからね」
ドン、と太鼓の音が響く。次のクエストが受注されていた。
「結構面倒な案件。だから、白沢くんくらいいないとやってらんない」
姿勢を崩した青葉さんが足を延ばす。
タイツ越しの爪先が俺の踵のあたりに触れた。でも青葉さんは何も言わなかった。俺も何も言わなかった。身じろぎ一つ、できなかった。




