第3話 青葉さんは声が低い
ポニーテールに白いブラウス、ド派手な赤色のスカートを履いているのにそれが許される美人顔。コンプライアンス部の青葉さん――通称“コンプライアンス部の青バラ”だ。
青葉さんは紺色のカーディガンを腕に持っていた。軽く頭を下げながら同じ鉄籠の中に足を踏み入れてくる。森川が左へ避けたので、青葉さんは俺達の間に立った。青葉さんは、俺より少し視線が低い。
「すみません、止めてしまって」
青葉さんは声が低い。見た目がちょっと可愛らしい感じなので、初めて聞いたときは驚いたものだ。長い睫毛の先が俺へ向きなおす。
「白沢さん、ありがとうございます」
「いえ、大丈夫です」
森川が一瞬視線を上げたのが視界の隅に映った。しかし森川は何も言わず、なんならすぐにスマホに視線を落とす。それでも営業か、と言いたいところだが、森川曰く「営業のときはスイッチ入れてるから、それ以外は切ってたい」そうで、同僚の前ではすぐに陰キャに転じる。
「今日も暑いですね」
青葉さんのそれは、俺に向けられた挨拶だった。青葉さんと森川には接点がないのだろう。ないにこしたことはない。なにせ相手はコンプライアンス部の青バラなのだから。
「ですね。早く秋になってほしいです」
「その割に寒暖差が激しいですよね。風邪とか引いちゃいそうです」
「ですね。うちの部もちらほら体調崩してる人はいますけど、青葉さんのところはどうですか」
「うちはそれほど。自分が一号になりたくないなって気持ちでいます。白沢さんも気を付けてくださいね」
「ああ、ありがとうございます」
まるでポスターにでもなりそうな整った微笑だった。しかし、これは当たり障りのない、社会人としての儀礼的な遣り取りの応酬だ。
ややあって、別のフロアで人が乗って来たので、俺達は口を閉ざした。俺達の間には仕事以外の話題がなく、しかし仕事の話は部外秘が多いので人前では話せない。
結局、1階に着くまでは沈黙が落ちていた。エレベーター扉が開いたところで、最後に青葉さんが軽く頭を下げる。
「白沢さん、先日は急な依頼に対応いただいてありがとうございました。また来週もよろしくお願いしますね」
「あ、はい。どうも」
そのまま青葉さんは颯爽と立ち去った。俺と森川は最後にエレベーターを出る。俺が深い溜息をついたので、森川は「どうした」と目を丸くした。
「青葉さんと話しづらそうにしてたな。なんか叱られたのか?」
「いや、叱られたってわけじゃないんだけど……」
2ヶ月ほど前、コンプライアンス部からセキュリティ部に対し、組織ガイドラインの更新についての改善案が言い渡された。言われてみれば中々穴だらけではあったため、俺が担当となって改善プロジェクトを立ち上げたのだ。その結果、ただでさえ忙しいのに改善に向けた会議がドカドカと突っ込まれ、他部門にもお尋ねしながら残業しまくりの日々を過ごす羽目になった。お陰でほぼ1ヶ月は全くゲームをできず、ディスコで生存確認をされたくらいだ。
そしてそのコンプライアンス部側の担当が、青葉さんだった。だから、青葉さんを見ると裏ボスやら最新クエストの配信やらのネタバレを見ないようにXでひたすらミュートワードを打ち込みまくった虚無の帰路を思い出して心が辛くなるのだ。なおそれでもネタバレが目に入った。悲しかった。
「……まあ、あんまり接したい相手じゃないからな」
「でも仲良さそうだったじゃん」
「いやどこがだよ。ただ挨拶してただけじゃんか」
「最後よろしくって言ってたし」
「それこそただの挨拶だよ。社会人の心得」
もちろん、感じが良いなというのは分かる。暑いですね、そうですね、で話が終わる人もいくらでもいるだろうし、森川なんてスイッチを切ったらこの有様だ。それでも青葉さんは、仕事の内容をぼかして機密性を保持しつつ、助かってますよとちゃんと感謝を述べていく。さすが、仕事のできる人はそういうところも違うな、といつも思う。
「まあ……そういうもんか。そういえば、例のセクハラの先輩、青葉さんに注意されたらしい」
「うげ」
そりゃ効果覿面だっただろう。新卒の後輩へのセクハラを、会社で有名な美人女性に注意されるとか。
「しかも事実確認とかもするわけじゃん。後輩へのスクショを青葉さんに見せられてさ」
「うっ……致し方ないが、やめてあげてくれ……」
「LINEの内容を読み上げられて『業務上必要なものでしたか?』とか言われたらしいとかなんとか」
「……反省しただろうなあ、その先輩」
「そりゃもう。なんかすごい硬派な感じに生まれ変わってたよ」
相手はコンプライアンス部の青バラ。誰が名付けたのかは知らないが言い得て妙である――彼女には鋭い棘がある。刺さると痛くて中々抜けない棘だ。
そんな青葉さんとの仕事は不定期に発生する。コンプライアンス部は、まるで警備システムのごとく社内のあれやこれやを巡回しており、俺達他部門の担当とぶつかれば一緒に作業をするのだ。
でも、俺と青葉さんはそれだけだ。今日のように軽く挨拶を交わすことはあるとはいえ、俺が見る青葉さんはいつだって画面越しの人に過ぎない。同じ会社にいるけど関わることはない。ねじれの関係みたいなもんだ。
オフィスの外に出ると、昼間の陽気がまだ残っていた。このまとわりつくような熱気の残滓はいつまで続くのだろう。毎年毎年、夏が長くなっている気がする。イヤになっちまうな、とシャツの袖を捲る俺の隣で、森川は気合を入れるように同じくシャツの袖を捲った。
「んじゃ、早速行くとするか」
「はいはい。ま、俺側も話のネタになると思っとくよ」
――という話の一時間後、ミニレストランのような会場に到着し、割り当てられたテーブルにつこうとした俺は、先に座っている女性を見て、ぽっかり間抜けに口を開けた。
「え、白沢さんじゃないですか」
青葉さんだった。ほんの一時間前に エレベーター前で颯爽と歩き去った青葉さんが、全く同じ姿で目の前に座っていた。
判を押したような日々の中、判子のメーカーが変わるついでに押し心地が変わり、何の間違いかインク色まで変わってしまったのは、今思い返せばそのときのことであった。




