第26話 青葉さんは小柄
奇妙な提案から始まった青葉さんとの関係は、意外と居心地がいい。『テーマパークに行くとカップルが別れるのは待機中の沈黙に耐えられなくなるから』と聞いたことがあるが、青葉さんとの沈黙に気まずさはない。無言でゲームをしていてもお互い気にならないし、何もしていなければだらだらとたわいのない話に終始している。
青葉さんはどうなのだろう。居心地がいいと思っているだろうか。そんなことを思いながら、仕事をしていて、特に用事もないのに青葉さんのスケジュールを見てしまう。今日は6時半まで会議で埋まっているらしかった。青葉さんはいつも忙しい。
その青葉さんから、昼休みにLINEがきた。
『今日ひま?』
俺が良くないと思っている連絡の一つ、要件を告げる前に相手の空きを確認すること。しかし青葉さんは一文ずつ打つタイプというだけなので、すぐに次のレスが来た。
『おでん食べたくない?』
食べたい。とても食べたいね。俺は激しく頷いていた。なにせ今日はあまりにも寒い。2月並みの寒波が押し寄せるとの予報のとおり、突然の極寒に襲われ、クリーニングタグ付きの分厚いコートとマフラーを引っ張り出した。
『食べたいです』
しかしおでんって外で食べるイメージがないな。そう思っていると『だよね!』と同意が届く。
『じゃ今日うちで!』
「え?」
声が出てしまい、隣の席から視線が向くのを感じた。すみません、と軽く頭を下げてスマホに視線を戻す。おでんって……なんかずっと浸かってるイメージあるけど。青葉さんならそんなに時間かけずに作れるもんなのかな。
『コンビニのおでん?』
『いや寒いから昨日作って寝かせといた』
これが鮭の塩焼きを週に4回食う女と同一人物の発言だと、誰が思うだろうか。
『おでんって一人で食べる量に作らないでしょ。でも白沢くんがいるからちょうどいいやと思って』
『都合のいい男扱いしないでくれ』
『同居同盟中はお互い都合のいい女と男でオッケーなんで。6時半まで会議あるからまた連絡するね』
反駁は許されなかったのだ、と知ったのは、しばらくしてすぐそこの通路を歩き始めた青葉さんを見つけたからだ。LINEをしてすぐにスマホをカバンに放り込んで席を立ったのだろう、靡くポニーテールの毛先からその挙動が見えるようだ。今日の青葉さんは赤色のセーターを着ていたが、なぜか腕まくりしていた。寒くないのだろうか。
……あの青葉さんに先週は出来立ての手料理をご馳走になり、今日は作り置きおでんを食べるのか。考えてみると、改めておかしなことになったものだ。俺の日常はいつから非日常の連続になってしまったのか。
しかし、この非日常はいい飲み会みたいなものだ。俺も少し腕まくりをして気合をいれる。そうと決まれば、今日も残業はなしだ。
ただ、6時半を過ぎても青葉さんからの連絡はなかった。パソコンを落としたのにいつまでも居座って、生活残業なんて罵られるのは居たたまれない。そう思い、とりあえず席を立つ。
フロアを歩きながらも、ついLINEの通知を気にする。青葉さんはどの部屋で会議をしているのだろう。ここからは分からないのならN12あたりだろうか。長引いているのだろうか。コンプライアンス部って不正調査が入ると鬼のように忙しくなるって言ってたけど、それかな。そんなことを考えながら遂にエレベーターまで降りてしまい、仕方なく地下の書店で時間を潰した。
いつの間にか7時になり、腹も鳴る頃、スマホが光った。
『ごめん長引いた。メール打ってるから10分で行く』
「お疲れ様です、と……」
所在を伝えると「じゃ改札で」とすぐに返ってきた。同じ建物にいるのに、待ち合わせが駅というのも味気ないような、誤差なような。
言われたとおり駅で待っていると、青葉さんは走って現れた。白っぽいコートはボタンも留めず、髪も少し乱れている。普段隙なく身形を整えているのも、それはそれでいいと思うけど、青葉さんはこのくらいの気の抜け方が似合う。
「ごめんね、お待たせ!」
「そんなに急がなくてもよかったのに」
「誘った側だから。もーね、イヤになっちゃう、どいつもこいつも前例にないことを勝手にやりやがって!」
今の俺は知っているが、青葉さんはたまにちょっと口が悪い。
電車は混んでいた。珍しいな、なんて思ってしまうが、珍しいのは、金曜日以外の夜のこの時間帯に青葉さんと一緒に帰っていることだ。
パーソナルスペースを守ることができない電車に青葉さんと乗り込む。青葉さんは小柄で、ハイヒールの靴を履いてもなお俺の胸あたりまでしか頭がこない。少し緊張しながらつり革を掴む俺の前で、青葉さんはむぎゅっと人に挟まれたまま立ち尽くしている。
「青葉さん、こっちのつり革使う?」
「大丈夫、届かないから」
届かない? 首を傾げると、青葉さんは実際に手を伸ばした。なるほど確かに、青葉さんの指先はつり革を掠めただけだった。
「あれ、でもこの間は掴んでなかったっけ?」
「ヒールの高さが違ったから。今日は数センチ足りない」
「普段一体何センチ盛ってるんだそれは……」
「7センチくらい。今日は3センチしかないから」
踵に7センチの異物を装着しながら平然と歩く青葉さんはすごい。ちなみに、電車の中で、青葉さんの体はあまり揺れなかった。青葉さんの体幹は意外と強い。
最寄駅に着き、俺達は満員電車の熱気と一緒に吐き出された。歩き出した青葉さんは、やっと息ができたように大きく息を吸い込む。
「東京の人って、電車に乗れないという概念はないとかいう意味の分からないことを言うよね」
「ああ、満員だろうがなんだろうが乗れるんだってね」
「あれ本当に意味分からない。岡山はバスだからって反論したら、バスも同じだって言われて余計意味が分からなかった」
その東京の人って誰のことだろう、とちょっと気になったのだが、あえて聞くのもおかしな話だと思って黙った。
今日は青葉さんの部屋も冷え切っていた。青葉さんはコートを手早く脱いで手を洗うと、冷蔵庫の中から巨大な赤い鍋を取り出す。
「おでんっ、おでんっ」
「なにか手伝おうか?」
「冷凍庫からお米出して。ちょっと茶色いやつ」
おでんを前に浮足立つ青葉さんは少し幼く見えた。その青葉さんの後ろを通り、冷蔵庫の最下段から二番目を開ける。青葉さんの家の冷蔵庫は一人暮らしにしては少し大きい。
「これ?」
「それ。レンジで適当によろしく」
IHのスイッチを入れる音がする。青葉さんは「着替えてくる」と言い残して、例の寝室へ足を向ける。
カチリと音を立てた引き戸が開いて、そして閉まるまで一瞬だった。すぐにプラスチックの引き出しを開ける音と、布が滑る音がする。もう一度引き戸が開いて現れた青葉さんは、グレーのパーカーに、眼鏡姿だった。
「早く温まらないかな」
眼鏡になったせいか、セーターを脱いだせいか、はたまたキッチンに立つせいか、青葉さんは途端に部屋の顔になった。
「何?」
こちらを向いた顔の、眼鏡の奥で黒い目が一瞬消えて、また現れる。青葉さんは眼鏡をかけても目が大きい。
「……いや。なんでセーター着替えたんだろうと思って」
「気に入ってるから、汁が飛ぶと困る」
そうか、青葉さん。理解はしたけれど、男とたった一枚の板を隔てただけで着替えないほうがいい。




